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海猫04


001. プロローグ

──視界良好──
──高度安定──

人員輸送用大型ヘリは予定通りのコースを維持して南アルプスX地点へ順調に飛行している。
機内には十数名の海猫局員が黒殻制服に身を固め、向かい合わせのベンチに二班に分かれて座っていた。液晶ウインドウ付きの暗視ゴーグルはすでにヘルメットから下りて顔半分を覆っている。手にはショットガン式の麻酔銃や電気銃が握られ、臨戦態勢が準備されていた。到着まであと三十分はかかろうかというのに、彼らの鼻息は荒いようだ。
想像するに難くない。
タフな尋問陣の軍門に下り、あの牝狸がすべてを白状したのが昨夜のこと。ここ数ヶ月に及ぶ海猫開局以来の危機が打破されたのだ。停滞を余儀なくされていた案件もこれで一気に捗ることになるだろう。
あとは牝狸が企てた謀反の根幹である証人の女子大生の身柄を捕確してしまえば、状況は完全に終息である。

両手に銃を抱えている局員の中に、一人だけ、ちがう器具を手にしている男がいた。
銃器ではない。
オタマをふたつ、バネで組み合わせたような構造のそれ──新型の猿轡だそうだ。
あのオタマで両頬を背後から挟みつけると、口腔が狭まり、舌が動かず、歯の根が合わなくなる。自害防止用であり、唾吐き攻撃などの反撃もなくなると発案者である婦女教育課は説明している。他のセクションの局員は苦笑をもってその能書きを聞いていた。たしかに、これまで使われていた猿轡が歯や歯茎に損傷を与えたり、咽喉に詰まって呼吸困難をもたらす恐れがあると指摘されていたのは事実だが、婦女教育課の真意が別にあるのは見えみえだった。この制圧具で挟まれたときの被捕確人──黒髪美人大学生──の表情こそ、彼らの目的なのだろう。
元はと言えば今回の『危機』は婦女教育課のやらかしたヘマが発端だった。若い娘へ破廉恥な捜索を仕掛け、あげく鎮圧させられずに告発され、敵対勢力の反海猫キャンペーンに利用されるに至ったのである。特務庁内における彼らの評価は最悪であり、整理解体の話まで出ていたほどだ。
言うまでもなく、くだんの女子大生への彼らの憎悪(逆恨み)は凄まじく、通常の扱いではまったく溜飲は下がらないというわけである。
どれほどの恥辱を味わわせるか、彼らの答えのひとつがこのオタマの器具なのだ。
その姑息さ、その変執性、どうしようもないスケールの矮小さこそまさに彼らの本質だった。
紹介された名称がトドメとなる。
『断声器(ダンセイキ)』
下劣な淫具を愛しそうにグローブで磨いている男がこの急襲部隊に参加できたのは、能力を買われたからではなく、たんに上司間の見栄争いの結果に過ぎないのである。

双発のエンジン音を轟かせる大型ヘリはやや旋回し、高度を落とし始めた。
そうそう、南アルプスまでの道すがら、野暮用をひとつ、済ませる予定があるのだった。
海猫は結構人使いが荒い部署である。
デタラメなキャンペーンをまだやらかしている不穏分子の集会場へ、大型ヘリごと『ガンを飛ばす』示威業務がそれだった。これもまた危機状況が突破された今日だから大手を振って行えるデモンストレーションといえる。
だから面倒臭く感じている局員は一人もいないだろう。
窓から見える眼下の様子をエンジョイすればいいだけである。

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アストール・ピアソラ作曲の『ブエノスアイレスの四季』から『冬』と、アントニオ・ヴィバルディ作曲の『四季』から『春』──

この二曲を巧みに構成編曲した楽曲をこの集会のために寄贈したのは、国際的女性バイオリニスト、吉成聖(ヨシナリ・アキラ)であった。
『少子国難法に反対する全国女性集会』
これが集会の名称である。
富士山麓で、元来は野外音楽祭等に使用される大会場に、集まった参加者は千人程度だから映像的には寂しいようにも感じるが、特務庁第三課治安局──通称『海猫』──による様々な妨害工作が公然と行われたことを考えれば、政権選択選挙が一ヶ月後に迫ったこの時期、この規模の集会を開催できたのは奇跡に近いとも言えるだろうか。
その時点ですでに会は成功なのだが、さらに吉成のような世界的著名人が賛同を表明し、バイオリンの生演奏まで聴かせるというのだから大成功は約束されたようなものだった。
とはいえ、微風快晴のもとスタートした集会の前半、次々に登壇したパネリスト──例えば主催者代表の一人である宇根燿子(ウネ・ヨウコ)弁護士や気鋭のジャーナリスト三輪田恵(ミワタ・メグミ)氏──が『少子国難法』の制定プロセスと予想される運用実態を講演すると、会場はその戦慄すべき事実に騒然となってしまった。
事前に主催者側がつかんでいた情報によれば、秘密警察海猫は最後までこの集会の失敗を画策しており、集会中に少しでも混乱とおぼしき状況が生じれば、それを口実に騒乱罪の適用を宣言し、大量の人員を会場内へ突入させて集会を合法的に中止解散させる腹づもりをもっているというのだから、これは拙い進行と言わざるをえなかった。
そこで応援を買って出たのが主賓ゲストであった吉成である。
彼女のミニステージは本来なら午後のクライマックスに近い時間に設定されていたのだが、それを一時間も前倒しし、怒りに興奮した参加者達の前へ、ノーメイクのジーンズ姿で登壇すると、バイオリン一本で、美しい音色を奏で始めたのである。
情熱的で複雑なリズムのピアソラのタンゴと、ヴィバルディの鮮麗なバロックの調べを、まるで時空を超越するが如く縦横無尽に弾きこなす吉成のストラディバリウスは、怒れる群衆を理性的な聴衆へと引き戻すのだった。
トレードマークである彼女の長い黒髪が涼しい山風と自らのダイナミックな動きによって波打ちなびいた。
千分の一秒の誤差もなく精密なタッチを繰りだせる奏法技術は、白カットソーのシャツから伸びた、どこまでも華奢なあの両腕と指先が会得しているのだ。
十代にもならぬうちから国内外のコンクールで優勝を総なめにした早熟の天才は、二十八歳の今や、押しも押されもせぬ世界一流のマエストロの一人である。
ストイックな芸術家の生活がそう強いるのか、とにかくスレンダーの体型が印象的。
流れる黒髪のかすめる細面は瓜実の形をして小顔であり、一見童顔にも思えるが、しかし目鼻立ちのくっきりとした勝気性もたたえていた。
才色兼備、順風満帆の成功者として活躍する彼女が、なぜにこのような反体制色の強い、治安局のブラックリストに間違いなく載る、政治的キャンペーンに率先して参加し、まるで広告塔のように先頭に立つことを厭わないのか・・・。
それは彼女の教養の深さ──米国の某有名大学首席卒業──と正義感の強さ──戦争孤児へのチャリティコンサートを毎年欠かさず主宰する──を証明し、同時に『少子国難法』のあまりの悪法ぶりを炙りだしてもいる。

「だって、それは自明ですよね」
吉成はローリング・ストーン誌とのインタビューできっぱりとそう答えている。
「あんな法律が成立したら、事実上、私のような働く女性はそれだけの理由で刑務所送りなのだから」
これは他人事ではなく自分の問題であると冷静な声で主張した。
四年前の第二次関東大震災を端緒にした社会と政治の大混乱は、特務庁の新設と数々の人権規制法案の国会通過を許したが──俗に海猫体制という──この『少子国難法』の国会への上程は、少子化防止という大義名分を笠に着た、海猫体制の総仕上げのひとつと指摘されていた。
この法律の趣意は未婚女性および未経産女性の実数抑制と多産美化意識の社会的啓蒙であると説明されたが、条文を一目すれば、女性の基本的人権や男女平等権の剥奪と停止が骨子であることは明白だった。
つまり『働く女性』を『家』に帰すために諸制度を勘案し、税制を優遇するという『緩い統制』に止まらず、従わぬ者、反対する者には、法的勾留を認めた『強い統制』まで用意されていたのである。そしてその権限が一般の警察にではなく、一括的に海猫に付与されるという事実こそ、重大かつ深刻な問題なのだった。
「これは海猫が我々に仕掛けた『LIC:Low-Intensity Conflict=低強度紛争』なのです」
アメリカと我が国を行き来して活躍する三輪田恵はそう分析した。
「皆さん、この法案が執行されれば、ある日、あなたのところに赤紙が届くことになる」
反海猫派の重鎮である宇根燿子弁護士も糾弾した。
「未婚女性および未経産女性へ出頭命令が来る。教助所と呼ばれる収容施設に最大三ヶ月間、入所しなければならない。その間、公休でもなく休職扱いにもならない。つまり事務的には無断欠勤となってしまう。そんな従業員を企業が置いときますか。すぐに解雇でしょう。結果的に女性は社会から葬られ家に戻らざるをえないというカラクリです」
宇根は今年還暦のはずだが恰幅のいいプロポーションはちっとも老けていない。
「教助所とは何なのか。それはまさに強制収容所といっても言い過ぎではない。施設管理者が全権を握り、収容者たる女性達を二十四時間に渡って監視監督する牢獄なのです。女性達に為されるのはレクチャーではなくブレインウォッシャー、すなわち洗脳です。未婚と未経産をまるで犯罪のように扱い、亡国の根源であるかのような偏った価値観を押しつける、抑圧的なカリキュラムを必修とするのです」
まだ三十代の三輪田ももう一度マイクを握った。
「この施設を運営するのは誰なのか、それは海猫です。秘密警察がこんなことを担当するのは世界でも類例のない珍事と言っていいでしょう。少子化防止などはじつは隠れ蓑に過ぎないのであって、彼らは反海猫派弾圧の錦の御旗をまた一つ手に入れようとしているだけなのです。我々はその瀬戸際に、今、立っているのです」
教助所システムは何も勤め人だけを弾圧するものではない。
自分のような芸術家にだって壊滅的な停滞を強いるだろうと吉成はインタビューを続けた。
「三ヶ月間もアーティスティックなトレーニングの場から離れれば、その技術的損失は計り知れないものとなるでしょう。芸術家の魂に洗脳など暴力でしかないのは火を見るより明らかであり、まるでファシズムの悪夢ですね」
このような非道をもたらす赤紙を無視すればどうなるか・・・。
宇根弁護士はそれについても、もちろん言及していた。
「今度は本物の刑務所に収監されます。いや、刑務所ではない、もう少し軟らかい勾留棟だと彼らは詭弁を弄しますが、その得体の知れない施設は海猫の管轄する婦女収容所の敷地内に建設中なのです。職員に至っては今後十年間は収容所の所員が兼務できるとイケシャアシャアと但し書きまでついている。悪名高き収容所と何ら変わらないことは言うまでもないでしょう」
吉成聖が決起し、平和的な集会が騒然となるのも無理のない内実が『少子国難法』にはあるのだった。

憤りをただ怒りに変えるのではなく、音楽に昇華させる理性が彼女には確固として存在した。
澄んだ山間の空気にバイオリンの音色はよく鳴りよく響いた。
誰もが不平をいう口を閉じ、意識を吸い寄せられるかのように、その優雅な調べに聴き入った。
荒涼とした『冬』のリズムは、いつしか流れるように『春』のトーンへ変化していった。
小川を塞き止めていた厚氷は暖かい日差しに融けて割れ、欠片が水流に落ちて消えていく。
途絶えていた小鳥のさえずりが森の向こうからゆっくりと回復してくる。

言葉や演説だけでは伝えきれない生の歓び、自由の美しさ、誇りを持って顔を上げることの大切さを、吉成の演奏は雄弁に語っているのだった。
これは伝説になるだろう──パブロ・カザルスの国連コンサートのように──誰もがそう思った。
今日の勝利が彼女のキャリアをいっそう輝かせるのは間違いなかった。

しかし・・・・・・
涙すら浮かべるの聴衆の目は美しきバイオリニストのステージから、やがて背後にある東の空をちょくちょく振り返り始めた。
感動的な演奏に酔い痴れていた彼らの耳に不安な雑音が侵入してきたからだ。
東の方角からそれはどんどんと近づいてくる。
夏の青空に落ちた墨汁の一点のようだった染みはすぐに双眼鏡を覗かなくともわかる明瞭な大きさになった。
真っ黒な大型ヘリが爆音を轟かせてこの会場へ直進してきているのだ。
異常なほどの低空飛行である。
高圧電線に引っかかりそうな錯覚すら生じさせる高度であった。
それが何らかの不可抗力によるトラブルでないことは安定的なコース取りからして疑いようがなかった。
あの軍用のように思われる大型ヘリは意思を持ってこちらへ向かっている──参加者達全員がそう確信した時、バイオリンの自然な調べは単調で攻撃的なエンジン音に掻き消されていた。
まもなく大型ヘリは会場上空に到着し、ホバーリングを開始した。
二基のプロペラが巻き起こす強烈な風が土埃を舞いあげ、聴衆の腰を浮かせるほど圧倒する。
舞台の袖から慌ててステージ上に走ってきた主催者のメンバーが口々に「海猫よ!海猫よ!」と叫んだが、そんな声は誰の耳にも届かなかった。
ただ一人、吉成だけが冷静にステージの中央に立っていた。
弾くことを中断したバイオリンと弓を両手に握り、まるでヘリコプターの巨体にたった一人で対峙するように遮光ガラスの嵌った暗黒の操縦席を睨みつけている。
毛先が飛ぶほど黒髪がたなびいている。
スタッフの一人が彼女の手をとって退避させようとしたが、美貌のバイオリニストは頑としてその場を離れなかった。
そればかりか、彼女は颯爽と両腕を繰って演奏を再開するではないか。
誰の耳にも届かない──おそらく自分の耳にも聴こえはしない──パフォーマンスだけの演奏はしかし、じっとこちらを観察しているはずの海猫どもには確実に『聴こえている』だろう。

イーゴリ・ストラビンスキーの『春の祭典』──

不協和音をクラスターにした変拍子の強烈なリズムは、二基の回転翼のもたらす轟音と波動を跳ね返そうとする。

集会に恐慌をもたらしたヘリは上昇し始めた。
思わせたっぷりに旋回を一度し、ようやく西の方角へ飛行していく。
素晴らしいスピードは南アルプスの緑濃き峰のどこかを目指しているようだった。
次第に小さくなっていく機影を吉成はいつまでも見つめ続けていた。