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  プロローグ

 西暦20XX年、ついに第二次関東大震災が発生!
 被害は予想を上回る規模で広がり、首都圏は壊滅。都市機能は完全に麻痺状態となった。東京住民の半数近くが地方へ一時疎開する中、兇悪犯罪、破壊活動、私兵集団の跋扈等、治安の悪化はみるみるうちに進行した。
 事態を深刻に受けとめた政府は突如、治安担当行政機関『特務庁』の新設を発表、非常令を宣言した。
 特務庁の実働部隊、治安局は、しだいに諜報活動や実力行使といった一般警察以上の権限を獲得していき、強大な権力を有した軍事秘密警察組織へと変貌を遂げていく。
 人々は彼らをその標章から『海猫』と呼び反発したが、いつしかその声も弾圧と監視の目を恐れて、沈黙を余儀なくされていったのである。……


  ゴキブリ

 月夜の渋谷公園通りをステルス戦闘機の如き黒檀色ボディの装甲車が徘徊している。
 六輪タイプのそれは巨大だが、エレクトロニクスのエンジンを装備しているらしく、滑るように音もない。まるで敏捷で軽快な洗練されたアフリカの中距離ランナーを思わせるような足回りだ。
 市民、とくに若者から「ゴキブリ」の名で呼ばれ、敵意と憎悪の対象となっている特務庁管轄の装甲車は、信号を無視して右折すると、かつての賑わいが嘘のような無人の公園通りを車体前部にある赤色灯を明滅させながら、しだいにスピードをあげて走り抜けていった。
 「やっぱり誰もいませんでしたね」
 暗視用の車外カメラが輝度のきついモニター画面に映しだす、いまだ復興ならない街並みを注意深く観察しながら吉崎京太郎がつぶやいた。
 「人っこ一人いない……」
 カメラは自動的にアングルが変更されていくようにセットされているらしく、つぎつぎに前後左右の状況を見せてくれる。
 「当たり前だろ。じゃなかったら、この間の一斉摘発の意味がなくなっちまう。夜間外出自粛令の徹底は喜ばしいことじゃないの、吉崎くん」
 皮肉っぽく、御坊課長は部下の肉づきのいい肩を叩いた。吉崎は苦笑したが、彼はやはり不満であった。鼠がいなければ猫の生きがいも半減する。どこかにいきのいい鼠、それも牝鼠がそのキュートな髭面をのぞかせていてくれないかと、未練がましく画面に視線を注ぐのだ。
 ここは操縦室とは隔離された装甲車後部のトランクの中である。トランクといってもかなりの空間があって、小型バスの車内くらいはあるだろう。そこに、最新テクノロジーの粋を集めたあらゆる機材が積みこまれていた。壁面いっぱいにボルトじめされたラックに整理された機械群は、無数の色彩の発光体を点灯させながらあらゆるセンサーからインプットされてくる外部情報を解析し、照合し、比較し、推論し、判断して、回答をアウトプットする。特務庁本部地下にあるホストコンピューターの無限の計算能力の力も借りながら、それらが下す結論と指示はほとんどの場合、有効で錯誤がない。少なくとも今ここにいる二人の女子教育課の局員の頭脳より明晰であるのは確実だ。唯一、二人が勝っているものといえば、性欲くらいのものであろうか。残念なことに──特務庁の本来の職務にとってみても、東京のすべての女性族にとってみても──緊急に必要な国土の復興予算を大幅に削ってまで購入されたこのハイテクゴキブリ車の行動を統御しているのは、まさにその性欲にほかならないのだった。
 御坊が操縦室へ通ずるインターコムに向って命令を発した。
 「代田方面へ回してくれ」
 吉崎がその声にふりかえった。
 「課長!」
 声は華やぎ、満面は笑みに溢れかえる。
 「訪問査察、してみっか。彩ちゃんのアパートをさ」
 「さすが課長! 課長の部下思いはヒューマニズムの極致ですよ!」
 「ヒヒヒ。くるしゅうない、くるしゅうない。部下の笑顔こそ、上司にとって何にも勝る喜びに違いないんだからさ」
 師弟はうなずきあいながらこの夜の巡回における最高のディナーを心に思って股間を熱くするのである。
 装甲車はチラホラ出現する残業帰りのビジネスマンを乗せたタクシーを恫喝しながら最近やっと再建された環七の立体交差を走り、ジャンクションを旋回して一般道にすべりこんだ。
 この辺りの居住区はまだほとんど手がつけられていないため、あるのはコンクリートの残骸とプレハブの簡易住居ばかりである。そこを無機質の高性能ハイテク装甲車が走り抜けていく様は、昨今の日本のイビツな状況を端的に現しているといってよかった。金は、力のある者の元へと流れるのだ。予算は力のある官庁が独占するのである。
 「彩ちゃんの顔を拝むのは久しぶりだな」
 はしゃぎ気味の吉崎。二人ともスポーティな紺色の制服を着ていたが、吉崎は車内が暑いと上着を脱いでメッシュのTシャツ姿になっている。冷房はきいているが、彼は肥満体質なので暑がりなのだ。
 御坊課長はコーヒーの入ったマグカップを手にしてモニターを指さした。マグカップには海猫のキャラクター化されたロゴが入っている。子供への浸透は重要な戦略のひとつである。
 「出してみなさいよ。彼女のデータを」
 「そうしましょ」
 吉崎はキーボードを叩いて次々にデータファイルを開けていく。最後に出てきたのは東京>学生>女子>危険度イエローのディレクトリ。
 『菅野 彩 スガノ アヤ』が検索され、格納されてある全情報がモニターに表示された。
 『菅野彩──年齢十九歳 K大学法学部二回生 身長168センチ 体重51キロ 胸回り84センチ 胴回り62センチ 腰回り85センチ──』
 「おやーん?」と吉崎がモニターに顔を近づけた。
 「どうしたの?」苦いコーヒーを飲みながら、御坊は訊ねた。
 「先月よりおっぱいがふくらんだようですよ」
 吉崎はキーをふたつみっつ叩いて更新される前のデータを呼び出した。その時点でのバストは83センチであった。
 「発育盛りだからねえ」
 「どうですかね、それは」
 吉崎はさきほどまでの喜色満面ぶりにやや水がさされたような表情である。
 「このご時勢、一人暮らしの学生が太るような食料なんか、ないでしょう。ウエストもケツもそのまんまですからね」
 「なるほど、それもそうだな。してみると……へへへ、恋人でもできたってわけか」
 ムッと口を尖らせる吉崎。再びキーボードをカチャカチャ鳴らした。
 『検索対象者との接触した人間の表示──最近、一週間に範囲を限定しますか? y/n?』
 吉崎はyキーを打ちこむ。
 『接触度を次から選択してください。電話・対面会話・室内遭遇etc……』
 すべてを要求する。暫時、検索中の沈黙がつづく。
 「学生が一週間に会う人間の数ってあんがい多いもんだな」
 「そうですね。なんたって大教室の学生すべてが対象になりますからね」
 検索が終了し、表示が始まる。五十音順に氏名がざっと並んだ。もちろん一画面には収まらず、何ページにもなった。
 検索抽出の命令文を打ちこむ。『頻度順にソートせよ』
 先頭に来た名前を、吉崎は睨みつけた。男の名前である。
 『佐伯隆一 二十二歳……』
 「こいつが恋人かい?」
 吉崎は無言のままかすかにうなずく。
 「ほほう、彼氏のアパートにも何度も通ってるようじゃないの。おっぱいが巨きくなるわけだよな。たっぷりモミモミされてるんだ、彩ちゃんは」
 「……どうやら、こいつにオルグされかかってるようです。もともとがイエローですからね。遠からずレッドになるんでしょう」
 御坊の目が多少、鋭くなる。
 「この男、『コマンド』の一味なのか?」
 「幹部候補生ってところですかね。指導力があって頭も切れる。それに……美形です」
 「お似合いのカップルの誕生だ」
 吉崎は頬をひきつらせながら御坊の顔を睨んだ。この上司、優しいかと思えば、突如、残酷なほど冷たくなる。精神構造のどこかに欠陥があるんじゃないだろうか。もっとも、吉崎だって人のことは言えないのだが。
 吉崎はモニターに菅野彩の顔写真を表示させた。美しいセミロングの黒髪に縁どられた細面の美貌がカラー画像で映しだされる。じゅうぶんな解像度をもっているため、肌の質感まで忠実に表現されている。彼女はやや横向き加減で切れ長の魅力的な瞳を傍らの人間へ向けているようだった。
 冴えた額は理知的な彼女の性格を示している。まったく化粧はしていない。なのに頬は艶やかで若さに輝き、唇は朱色に濡れている。聡明そうな柳眉。鼻筋が通り、尖り気味の鼻。口はやや大きめか。いずれも整い、二十歳前とは思えない落ち着きとゾクッとするような大人っぽい美貌を演出していた。
 「いや、吉崎、お前が執着するのもよーく理解できる。これは上玉だ。逸品だ。丸得だ。特務庁女子教育課としては、国家の宝として管理監督せねばならない。つまらぬ虫がたからないようにな」
 「ええ、そう思いますよ。とくに彩ちゃんは家族が震災で全滅して天涯孤独の身の上ですからね。我々が守ってやらないといけないんです」
 「そうそう。おっぱいをモミモミされたからってバージンを失っているかどうかはまだわからない。頭のいい娘だし、あんがい一線は守っているかもしれん」
 アイ・ホープ・ソー──吉崎は胸の内でつぶやきながら画面の彩の美貌に見惚れつづけた。
 ゴキブリは狭い路地を器用に縫っていく。何といっても六輪すべてが独立駆動で、その場で三百六十度回転さえ造作なくやってのけるのだ。巨大な図体などちっともハンディにはならない。
 二階建のプレハブが固まって並んでいる地区にでると、スピードが緩み、やがて停止した。
 「おい、彼女の部屋、明かりがついてないぞ。もう寝たのか?」
 「まさか。まだ九時半ですよ。いくら電力規制が徹底してるからって、あれは十一時からだし……」
 「と、すると、おい、ひょっとすると──」
 二人は顔を見合わせた。どちらからともなく、どちらも期待していた言葉が口に出てきた。
 「まだ帰宅していないんだ!」
 これは天の恵みと言わねばならない。海猫の特権を考えれば、彼女が在宅しており、何らやましさのない生活を営んでいたとしても、令状なしで乱入し、好き放題に蹂躙することはできる。しかしそれはできれば避けたい。少しでも海猫のアラを探して司法捜査の主導権を奪回せんと狙っている一般警察ならびに検察当局に利用されないとも限らないからだ。なに、あんな腰抜けどもに大した真似はできないのだが、ことが騒がしくなると、特務庁内での女子教育課の立場が危うくなりかねない。ただでさえ泡沫部門として軽んじられているのである。無益ないざこざはないほうがいいに決まっている。
 しかし、未成年である菅野彩が外出自粛令に背いてこの時間まで帰宅していないとすれば、何にも気兼ねはいらなくなるわけだ。大っぴらに捕獲・詮議ができるのである。
 「吉崎、ベッドを用意しとけ。たっぷり時間をかけて吟味してやろう。精液検出装置も忘れるな。ちゃんと手入れはしてあるんだろうな?」
 「そりゃ、もちろんですとも。俺のザーメンのついた二ヵ月前のパンツ、ちゃんと血液型やDNAを割り出してますよ」
 「きたねえなあ、お前は! 洗濯くらいしろよな」
 吉崎は折り畳み式の簡易ベッドをセッテングした。ここへ捕獲してきた女を寝かせ、厳しく吟味するのである。仔細によってはこのまま本部へ直行し、婦女子教育房に放りこむのも可能だ。
 吉崎はベッドの四隅にある拘束ベルトの強度を試しながら、上半身裸にされてうつぶせに寝かされた──その体勢がここでの吟味の手順である──菅野彩の姿を思い浮べて目尻を下げている。
 「おおっ!」御坊が歓声をあげた。
 慌ててモニターのところに駆けよる。街灯もない、暗い夜道をスラリとした若い女性が小走りにこちらへ向ってくる。ブルーのジーンズにチェックの半袖シャツ。うえにピンクの薄いカーディガンを羽織った軽装だ。望遠で捉えると、やや汗ばんだその顔が確認できた。
 「彩ちゃんだぜ。少し慌ててるな」
 「課長、こっちも慌てないと。部屋に入ったら手こずりますよ」
 吉崎は制服に袖を通し、装甲車の胴部に面している自動扉を開けた。電気銃をもち、暗視ゴーグルつきのヘルメットをかぶる。御坊も同様の装備をして、飛び出していった吉崎の後を追った。重々しい軍靴の響きが冷たく街路に反響している。
 焦土化を逃れた貴重な街路樹に隠れながら、吉崎は女と、女のプレハブの間を断つように躍り出た。御坊は彼女の背後にまわりこみ、退路を阻むべく挟み撃ちだ。
 仰々しい風体の男が突如、現れたので、彩はギクリとその場に立ち尽くした。ゴーグルのなかの不鮮明な液晶画面に美人女子大生のこわばった表情が揺れている。
 彼女は自分の背後に迫ってきた高い靴音に気がつき、ふりかえった。同様の重装備の人間を認める。ここに至っては自分の置かれた立場を悟らねばならなかった。この男たち──たぶん男だろう──が海猫の一員であり、自分が彼らの陵虐を正当化するような法規違反を犯している現行犯である状況を。いや、もちろん、そんな法規などは認めるわけにはいかなかったが、少なくとも彼らの論理ではそうなるし、世間も消極的ながら承認を与えているご時勢なのだ。彩は真珠のような奥歯を噛みしめる。学生仲間から耳にタコができるくらい聴かされている海猫の噂を反芻した。それだけで、身体の隅々まで汚辱にまみれた気分になる。
 だが、彩の心に恐怖心ばかりがあるわけではない。毅然として反駁し、決して矜りを失わず、正論を通し、闘いぬこうという決意も同時に沸き起こっていた。そうでなくては『コマンド』入りをきめ、日本を暗黒の雲で覆う『海猫体制』の打倒運動に青春を捧げようとしている自分の理想に反することになるのだ。そして、彼との誓いにも裏切る結果になる……。恋人である佐伯隆一の面影を脳裏に浮かべると、彩は落ち着きを取り戻した。平素の怜悧さが蘇り、青ざめていたその肉薄の頬にも血色が戻ってきた。
 彩は怯えを排した視線を前方のゴーグル野郎に投げつけ、ふんと侮蔑の色をあらわにすると、何事もなかったかのようにゆっくりと歩き始め、あっさり彼の横をすりぬけた。
 唖然として見送る吉崎は彩の圧倒的な超然とした美しさに位負けした感じである。
 御坊が無線でわめきたてる。
 「何やってんだよ。吉崎、目を覚ませ。とっとと捕まえないと、今夜はお預けにするぞ。あの男にバージン、とられてもいいのかよ、お前は!」
 バージン……あの男……ふと、吉崎は我に返り、彩の背に外部マイクで呼び掛けた。
 「とまれ! 未成年者遊興目的外出自粛令違反の現行犯として捕獲する。神妙にお縄につくんだ!」
 彩はその声にふりむいた。
 「遊興目的の外出ではないわ。大学の図書館で勉強会をしていただけよ」
 りんとした透き通るような彼女の声が心地よく響く。海猫に夜、遭遇してこれほどしっかりした態度をとる女はそうはいない。ますます彼女の株はあがった。
 「それが真実かどうか、吟味するから一緒にくるんだ」
 「じゃあ、少なくとも現行犯じゃないわけね。法令の濫用は慎むべきですよ」
 そういえばこの女子大生は法学部だった。挙げ足をとられて吉崎はカッと頭に血を昇らせた。
 「うるせぇんだよ。さっさと来ねえか!」
 電気銃を彼女の胸に向ける。しかし彩は取り乱すふうもなく、吉崎に視線を置いたまま腕を組む。チェックのシャツのボタンがひとつだけ外れていて、首の筋肉のつけ根がのぞいている。たったそれだけの露出度なのに、妙になまめかしく感じられるのは惚れた弱みか。昇せあがっている分、こういう人を小馬鹿にした態度は許せない。恋人のあの男に見せているのであろう、尊敬と愛情に満ちた視線とは似ても似つかぬ冷たい視線が己れに向けられているのに、吉崎は耐えられなたかった。
 (力を見せつけてやるっ)
 この時代における男の価値とは何か、思い知らせてやる。
 彩の足元に向けて電気銃が発射された。青いスパークが暗闇を切り裂き、ゴーグルの液晶画面が白熱化する。
 「あっ──」
 彩の小さな悲鳴が響いた。と同時に彼女の華奢な身体は後に飛ばされ、仰向けに引っ繰り返った。ジーンズに包まれた二肢が跳ね上がってV字を作っている。
 吉崎を押し退けるように御坊が彼女に駆けよる。
 「バカ。そんなに大きなレベルで撃つ奴があるか!」
 その言葉が吉崎を昂奮から覚醒させた。知らぬ間に銃のパワーを示すメモリが致死量寸前のレベルまであがっていた。慌てて御坊の後を追う。
 「大丈夫だ。直接、身体には当っていない。放電の衝撃波で失神しているだけだ」
 近くに落雷があったのと同じ状況である。吉崎はゴーグルを外し、ペンシルライトで彩の顔を照らす。血の気を失った美貌が黒髪をほつれさせたままのけぞっている。朱唇が半開きになり、白い歯並びが見える。
 「よし。今のうちに装甲車に運びこんじまおう」
 御坊が右腕を、吉崎が左腕を、それぞれ両側から抱えこむようにして起こすと、そのままズルズルと引きずった。頭ががっくりと垂れて頭髪のなかに表情が隠れるのだが、その屈服した姿が吉崎にはたまらない被虐美だった。加えて、スニーカーの底を空に向け、甲のほうを地面に摩擦している足や、反っている腰部と、そのためにひときわプリプリと盛りあがっているヒップの丸みが愛しささえこみあげさせるのである。
 (女はこういう弱々しい姿こそ、様になるってもんだぜ、彩ちゃんよ)
 装甲車に連れこみ、扉を閉めた。これでもう何にも気兼ねする必要はない。社会とは隔絶された治外法権の空間なのだ。
 正体のないグニャグニャの彼女をベッドに寝かせる。
 二人はヤレヤレとしばしそれに見惚れ、それからヘルメットを脱ぎ、銃を置いた。グローブを外し、吉崎はまた制服の上着を脱いでシャツ姿に戻る。
 「まだ脱がさなくともいいでしょうね」と吉崎。
 「ああ。自分の手で裸になってもらわんとな。それがデュー・プロセスってやつさ」
 御坊はやや呼吸を乱している。若い吉崎のように無尽の体力があるわけではない。女とはいえ、人一人引っ張ってくるのはけっこう消耗するものなのだ。彼は煙草を取り出し、火をつけた。女子大生の寝顔を見ながら煙を気持ちよさげに吐き出した。
 彩の長い睫毛がスッと動いた。瞬く瞼の中のしっとりと濡れている眼球が映像を求めるようにふらついている。まずここが気を失う前に自分がいたアパートの前の見慣れた空き地でない事実を悟ったようだ。そして気を失った時点を思い出す。つづいて気を失った理由もフラッシュバックする。彼女の身体に緊張が走った。明確に、二人の海猫の局員の姿を認識した。
 彩は跳ねるようにベッドのうえに起き上がった。顔をぐるりとまわし、どうやらただならぬ場所に拉致されてきたのだと考えた。街中を我がもの顔に巡回しているあのゴキブリの体内に違いない。
 改めて二人の卑劣なファシストを睨みつけた。クローンのように薄気味悪い微笑をともども浮かべている男たち。
 「……こんな横暴は許されないのよ……」
 気丈にも彩は彼らの非道を真っ先に糾弾するのだった。
 「あたりかまわず武器を使用するなんて、どういうつもりなのっ」
 その眦を先鋭的に吊り上げた面相のなんと素敵なことよ。凄絶な美がなんら無駄もなく張りつめている。とくに切れ長の三白眼は胴震いがくるほど魅惑的だ。
 「容疑者が逃走を企てた場合、武器の使用はもちろん許可されているんだよ」
 御坊がいたぶるように低く静かな口調で反論した。
 「私、逃げてなんていないわっ」彩は彼へ射るように視線を飛ばした。
 「フフフ。まあ、そんなにとんがらないで。落ち着きなさい」
 「誤魔化さないで頂戴! 不当な扱いを受けて落ち着いていられるわけがないでしょう──」
 彼女の言葉が終わる前に吉崎が巨体をむっくりと立ちあがらせた。明るいところで見ると、いっそうその重量感が威圧的である。それにこの男だけ制服を脱いでいるのはなぜだろう。年上の男とは役割が違うということか。それはいったいどんな役割?
 彩は吉崎を見上げながら、慄えそうになる自分を叱咤した。
 「女子大生のくせに口の聞き方がなってないんじゃないか。目上の人間に対する言葉遣いじゃないだろ。あン?」
 「……私を、どうして大学生と知ってるのよ」
 疑惑がカァーッと募ってくる。これは行き掛かりの検問・捜査ではなかったのか。菅野彩を特定して最初から計画的に狙いをつけていたのだ。なぜ?
 彩の心に再び佐伯隆一の顔が浮かび上がる。間違いない。彼への詮議の一環だ。隆一も言っていた。身辺に尾行や盗聴の影が見え隠れしはじめていると。ならば、余計、気を引き締めていなけばなるまい。自分ばかりか彼にまで厄難が及ぶのはなんとしても避けねばならなかった。
 「何でも知ってるんだよ」と吉崎は言った。「世間のすべてを一部始終、チェックしているんだ。とくにお前のような不平分子の卵にはな」
 「不平分子? なんの話だか、さっぱりだわ」
 彩はプイと横を向く。
 「しかしまあ、とにかくだ──」と御坊が灰皿に煙草を押しつけながらつづける。「この時間に一人歩きしていたのは事実なんだから。こっちとしても所定の吟味はしなくちゃならん。仕事だからねえ」
 そして御坊は吉崎にお茶を入れるようにと指示した。
 「ひと息つけば、落ち着いて協力的になってくれるだろう。頭のよさそうなお嬢さんだし」
 「いらないわ。変な薬が入っていないとも限らない」
 「馬鹿野郎っ。課長の暖かい心がわからんのか。根性の根まで腐ってるな、お前」
 「お前なんて言わないで頂戴。どうせ、名前だってもう知っているんでしょう」
 彩は冷笑を浮かべ、吉崎に挑戦するようにすっと立ちあがると、睨みつけ、両手を大きく左右へ広げるのだ。
 「さあ、どこでもいいから調べてください。おっぱいとかお尻とか、跨ぐらとか、集中して吟味するつもりなんでしょう。いいわよ、さっさとおやんなさいよ」
 おっ、とたじろぐ吉崎。勇ましい剣幕に、ではなく、つい目と鼻の先に迫ってきた彩のなまなましい素顔の美しさにだ。そしてこの匂い……。たちこめる素肌の瑞々しい芳香。黒髪の情感的な香り。香水もつけておらず化粧もなく、きっと朝シャンもしていないであろう、まったくの素の状態なのに、やはり若さのなせるわざなのだろうか。たまらない女のフェロモンである。
 「おやーん?」
 突然、吉崎は小腰を屈めて、彩の顔を覗きこんだ。
 「な、何よ……」
 「お前、こっちの頬っぺたにニキビがあるぞ」
 吉崎は彼女の右頬を指さした。ほんの小さな赤い発疹が頬の真ん中に突起している。
 「……だから、だからなんだって言うのよ……」
 男の目を遮るように頬に手を当てて隠し、卑劣な撹乱作戦に歯噛みする彩。
 「一週間前まではなかったはずだがな」コンピュータにファイルしてある画像にはどんなに拡大してもニキビなどなかった。あの写真は先週の前半に撮影されたものだ。
 「思われニキビか。それともアレのやりすぎで肌が荒れたか。彼氏はちゃんと愛してくれてんのか。何度も何度も挑みかかってくるんじゃないのか。駄目だぞ。欲望に任せてると、せっかくの可愛い顔が淫売みたいになってくるんだから」
 「……」
 吉崎の言葉には幾つもの恫喝が隠されている。この男は変質者だ。ニキビの存在まで観察しているとは常軌を逸している。恋人の有無をほのめかすのは彩の二十四時間の行動をリサーチしているからに他ならない。なんだか、単なる海猫によるコマンド狩りではないような気がしてきた。もっとどす黒い、イビツな欲望の渦が眼前にあるような気分である。
 「な、わかるだろう。女ってのはな。肌をちょっと吟味しただけでもどういう生活をしているか、すぐに見えてくるんだ。だから、ちゃんと素直に言うことを聞いて、俺たちにすべてを曝け出せ。そうすりゃ、優良婦女子になるための処方箋を作ってやるからよ。なーんの心配もないんだぞ。みんなお前のためなんだからな」
 吉崎は彼女の両肩に手を置き、ポンポンと叩いた。そのまま繊細な女らしい撫で肩をつかんで力をこめ、ベッドに腰を落とさせた。華々しく反駁して立ちあがった彩だったが、海千山千の女子教育課の局員にいつのまにかあしらわれ、御されてしまった感である。
 「さ、お嬢さん。上半身裸になって、ベッドに寝てもらいましょうかね」
 満を持していたように御坊ものっそりと立ちあがった。二人の大男に傍らに立たれ、見下ろされると、自分の無力さがひしひしと感じられる。冷汗が首筋に流れる。
 「……ヌードショーでもしろって言うの……」
 彩の声はかすれていた。さっきの勇ましさはトーンダウンしている。
 鉄火の女子大生をチビらせたことに、二人は顔を見合わせてニンマリとする。この瞬間こそが、海猫に入ってよかったと感激する言わば真骨頂なのだ。これがなかったら、嫌われ役は三日で辞めているかもしれない。
 「何もおっぱいを見せろといってるわけじゃない。俯せでかまわんよ。辱めるのが目的じゃないからね」
 「……愚劣だわ。どっちにしたって辱めじゃない」
 「もっと尊敬語を使わんか。この方は課長なんだぞ」
 吉崎の巨大な手が彩の頭を小突く。
 「触らないでっ。いやらしい」
 「愚図愚図してると──」御坊がこれ見よがしに深呼吸する。「我々が力づくで脱がせることになってしまう。つまらんでしょう。痛い目をみるなんて」
 脅しではない。彼らならやるだろう、と彩は思った。落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせる。こんな男どもは人間じゃない。ただの野獣だ。動物に肌を見られたって何が恥辱なものか。理屈はそうだ。だが、やはり落ち着くなどできない。頭が燃えるように熱い。恋人にしか見せた経験のない肌を変質者たちの淫靡な視線に晒す汚辱感はとうてい受忍の限度を超えている。しかし無理矢理、脱がされるのはもっと鳥肌がたつ。彼らの手がべたべたと肌に触れてくるなんて、思っただけで気絶しそうだった。
 「……わかったわ。あっち、向いていて頂戴」
 二人はゲラゲラと笑いだした。
 「お嬢さん、全然、自分の立場がわかっていないようだね。いいから、さっさと脱ぎなさい」
 御坊の目が冷酷になった。どんなに些細な要求さえ受けつけるつもりはないといった表情である。
 「──」彩は青ざめながらカーディガンの胸もとをつかんだ。細くて長い美しい指がかすかに震えている。唇を噛むように歯軋りしながら、ピンクのカーディガンを肩から脱いでいく。下は半袖のシャツなので、上腕の半分くらいのところから、ほっそりとした二の腕が剥き出しである。その腕から類推しても、彼女の裸身は輝くような玉の肌に包まれているに違いないと思われた。肌理の細かい肌だが、憤怒と屈辱に毛穴を浮き立たせている。
 さて、愛らしいカーディガンはすぐさま吉崎が取り上げた。
 「匂いを嗅いで、オナニーでもするつもり?」
 屈辱感に押しつぶされそうな胸から、必死に言葉を絞りだし、精一杯の皮肉を言う。
 「してほしいんだったら、やってやろうか?」
 ケケケと口元を歪めて嗤う顔ときたら、まるで醜怪なマントヒヒに似ている。カーディガンはとくに検査もされずに篭へ放りこまれた。
 彩はシャツのボタンに指をかけながら、自分は悪い夢を見ているのではないかと本気で考えていた。ただ公道を歩いていただけなのに、なぜ裸にまでならねばならないのか。これでは太平洋戦争中の特高時代よりも悪いではないか。
 (打倒すべき社会なのだ)と、彩はそれまでの決意をいっそう強固にする。絶対にこのままではすまさない。(このオトシマエは必ずやつけてやるから)
 ひとつ、ふたつ、と、胸もとが肌けていく。今や、青ざめていた容貌に紅が戻り、あらわになりつつある首筋から胸もとにかけての雪白の肌も桃色に染まっていった。
 そのもう少し下、ふっくらと盛り上がりを見せはじめている胸部にベージュの下着のVゾーンがくっきり露呈しはじめると、見下ろしている二人の鼻息がますます耳に響いてくるのだった。


   厳しい追及

 彩はスリップをつける習慣がなかったので、ブラジャーだけの上半身を男たちに晒すハメになった。シャツは御坊に奪い取られた。女体のぬくもりや、曲線の丸みが残っているそれを女子教育課の課長は毛むくじゃらの短い指で撫でまわしている。
 それにしても、現出した菅野彩のまばゆいばかりの上半身の美しさはどうだろう。均整の取れた骨格に、過不足ない肉づき。艶やかな黒髪が垂れかかる優美な肩から腕の細さへつらなる華奢なライン。ベージュのショルダーストラップに区切られた胸もとのすべらかさ。そして着衣のうえからは想像できないほどのボリュームのある双乳……。ブラのカップの縫い目がはち切れそうなくらいの若々しい弾力感。深い谷間のつくる翳り。せめぎあう肉丘の裾の露出。これで八十四センチとは信じられない。九十近くはあるような気がする。データを抽出した原簿が間違っていたのではなかろうか。
 視線が集中するむっちりとした双乳に、彩は片腕をまわし、もう片方で臍窩を隠した。その臍窩は綺麗な縦長をしていた。青いジーンズのベルトを巻いた腰まわりが腹の肉に食いこんでいる感じがセクシーだった。
 「なかなかいい身体だよ。トランジスタ・ボディってやつじゃないか」
 御坊は涎がでそうになるのをこらえながら、凝視している。さしもの彩も耐えきれずに顔をうなだれさせているので、見下ろしている御坊の角度からは汗ばんで光っている直線的な鼻筋と尖った鼻頭だけがのぞけるだけだが、チリチリするような勝利感と嗜虐感に酔わずにいられなかった。
 一方、吉崎のほうは重症といえる。昂奮に喉が渇いてかすかな音声すら発せもできない。
 (美しい、美しい……)うなされるように心で同じ言葉を念じるだけだった。美しいだけでなく、たとえば乳ぶさの巨きなども、いかにも大きな男の手のひらで包みこんでモミモミするのに理想的なサイズなのだ。頬ずりしたくなるような乳白色の肌も、強くつよく抱き締めたい衝動に駆られる細身の身体つきも、どれをとっても男に愛されるために造り上げられた見事な芸術品に違いなかった。その男が自分でない現実は吉崎にとって致命的で泣きだしたいほど苛酷なものであった。
 「おらっ、なに休んでんだ。ブラジャーも取るんだよ」
 職務に戻った吉崎は憎々しげに靴の先でベッドの足を蹴る。振動に彩は首をあげ、猛烈な憎悪に充血した瞳を吉崎に向けるのだった。呼吸の激しさが、彼女の感情を物語っている。鉄火の性格には耐えがたい成り行きであろう。きつく結ばれた唇がふとゆるみそうになり、エキゾチックなその口から苛烈な抗議の言葉が今にも噴出しそうになった。が、彼女には衝動的な若いばかりの行動を抑制する知性が備わっている。グッと血を呑みこむような気分で感情を押さえ、手を後にまわして背中の留め金を外した。バストの位置が微妙に変化した。そのかすかな蠢きに生々しい女体の色香を感じるとともに、彼女の乳ぶさの力のみなぎりの充実ぶりに感心するしかない。ほとんど、ブラジャーなど必要のないくらい、フィジカルが強いのだろう。
 彩は視線を床に落とすとブルブル慄える上品な肩先を手で押さえ、バストを吊っているストラップをずらしはじめた。
 ゴクリと生唾を咽喉に下す男たちの露骨な好色の音に美人女子大生は脂汗を額に滲ませて嫌悪する。黒髪からはみだしている形のいい耳が真っ赤に染まっている。指先がストラップをつまみ、ミリ刻みで腕へとおろしはじめたが、途中で押さえきれない感情が爆発したように、乱暴に、両手でブラジャーを毟り取った。そしてストラップの千切れた残骸を目を丸くしている吉崎の顔に投げつけた。
 「満足した? 変態のファシスト!」
 吉崎は受け取った柔らかいブラを握り締めつつ、丸出しの乳ぶさに圧倒された。まさに理想的な吊り鐘型の肉の房がたわわに実っていた。網膜が刺激される白さ。そして乳頭部の可憐な桃色の輪と突起……。彼女は抗議の手段として、それを隠そうとはしなかった。いいだろう。ならば宝珠のような輝きを見せつける乳肌に透けている緑色の静脈の一本一本まで観察してやろう。吉崎はうっとりと、それを手のひらで包みこみ、力の強弱を加えながら揉みしだく快感を想像した。甘美な愉悦が体内を走り抜ける。愛撫に硬くなった先っぽの尖りをつまみ、あるいは口に含み、この女のか細い啜り泣きを聞く悦楽はいったいどれほどのものだろうか。
 感動の波紋は果てしなく広がっていくのだが、吉崎が発した言葉はまるで心とは正反対の薄汚れた、侮辱的なものだった。
 「お前、乳輪、デカイなぁ。年増女みたいじゃないか」
 これぞ変質者の真骨頂なのか。女が美しく気高くあればあるほど、踏みにじり、おとしめてやらねば気が済まない。なにも彩の乳輪が本当に巨きいのではないのだ。たしかに彼女の乳輪よりも小さな乳輪をもった女は少なくないだろうけれど、それは彼女の清楚な魅力や可憐な娘らしさをそこなうほどではない。だが、吉崎の中傷は彩の心を爛れさせるにじゅうぶんであった。そんなものの面積の広狭で人間性の価値を判断されるなど、信じられない屈辱である。女を肉の塊として見ている男の本音を露骨な形で表現されて悔しくてならなかった。不覚にも涙がこぼれそうになったが、必死に我慢した。弱気な自分がまた情けなくなる。
 「オラ、露出狂の女子大生っ、まだ気がすまんのか。いい加減にしてその助平なチチを隠してベッドに寝ろ。胸が悪くなるわ。色仕掛けで吟味の手を緩めさせようって魂胆らしいが、見え見えだぞ、菅野! 甘ったれるな!」
 どこまでも卑怯で狡猾な連中。彩の血気盛んな若者の堂々とした行動も、彼らにかかると、逆手にとられ、いいように辱められるのである。
 変態呼ばわりされた彩はキリキリと奥歯を噛みしめながら、上体をベッドに伏せていく。マットは一応あるものの、薄っぺらでスプリングの冷たく硬い感触が伝わってくる。マットのカビ臭い匂いも辟易とさせられる。
 完全に俯せの身体をベッドに横たえた。
 「バーカ、靴を脱がない奴があるか。菅野、お前、それでも最高学府の人間か? 俺は高卒だけど、その程度の常識はあるぞ」
 吉崎はチクチクとからかいながら、ソックスに包まれた彼女の足首をわしづかんだ。スニーカーの紐をほどきはじめる。
 「いい。自分でやる」
 彩は起き上がろうとしたが、傍らの御坊に剥き出しの背中をピチャッと手のひらで押さえつけられた。
 「いやっ、何するのよ!」
 脂ぎった不気味な感触。ジットリと掻いている汗はまさに変質者のそれ。汗の成分に弱い酸が混じっていて女の柔肌をジュクジュク腐食させていくのではないかと思った。
 「騒ぐな、菅野! いったんこのベッドに寝たからにはこっちが許可するまで起き上がってはいかんのだ。ほら、ここの、頭のところの鉄パイプを両手を万歳させてつかむんだよ」
 「……」
 背中を撫でまわされるおぞましさにこらえ切れず、彩は言われたとおり、腋窩を晒して腕をのばした。ヘッドレストのように鉄パイプが横に張っており、やや、腕をもちあげる格好で握り締める。
 吉崎は左右のスニーカーを脱がせた。
 「菅野、なんだか足が臭うぞ。どれ、ソックスも脱がせてやる」
 「あっ、何よ。やめてよっ」
 「ほらほらほら! 動くんじゃない!」
 御坊が怒声をはりあげ、手のひらを広げて動きだそうとする彩の繊細な背中を猛烈な勢いで叩いた。
 「痛ッ──」彩は仰けぞって苦痛に歯を剥いた顔を晒した。
 「動くなと言われたのをもう忘れたのか、菅野。頭の悪い奴だな」
 「そうだぞ、菅野。あんまり過ぎると治安局に対する不服従の罪で、このまま捕獲しなくちゃならなくなる。そうなるのは嫌だろう」
 吉崎はソックスを巻き上げると口惜しそうに内側へ折り曲げている足指の先から抜き取った。パンストはつけていないのでこれで素足になる。すべすべしたピンク色の踵と清潔な足の裏。足首がまたほっそりとしていて、たまらない。
 吉崎は足の裏をくすぐって悲鳴をあげさせてから御坊と並んで彼女を見下ろした。
 シミひとつない美麗な背がうっすらと生汗を掻いている。いや、シミといえば御坊がさっきバッシングした部分が五本の指の形もまざまざと赫く痕になっていた。吉崎は御坊と顔を見合わせてニタニタと笑った。
 腕を頭の先へ、持ちあげ気味に伸ばしているため、肩甲骨がクリクリと浮きだしている。背中の皮膚の色とは微妙に違う腋の下はこういうインテリタイプ、行動派タイプの女子大生には珍しく無駄毛が処理されてある。不器用なのか無頓着なのか、剃刀の傷が小さく残っていた。乳ぶさが身体とマットの間に挟まれてムンと潰れている。乳肉が横からはみ出しているくらいだ。肋骨を透かせている脇腹が噴辱に喘いでいる。ジーンズがぴっちり貼りついている臀部の丸みがなおさら強調されているようだった。
 「……さ、さっさと済ませてよっ。肩が痛いわ!」
 黒髪を振って腕の狭間から顔をこちらに向けると、彩は抗議した。赤ら顔は汗ばんでいて、どうやら涙のひと雫が頬を伝わったらしい。
 「だ、か、ら、早く済ませるためにも動くんじゃないの」
 御坊の鷲手が彩の後頭部をつかみ、マットに顔面を押しつける。
 「ンンーッ……」目と鼻と唇がマットに密着し、平面にされた。
 御坊はそのまま彼女の黒髪をまとめてひとつに束ねた。うなじ、生え際が一回りあらわになり、栗坊主状態。根元をギュッと握り、輪ゴムで二重三重に留めた。豊かな頭髪はパイナップルの葉のように頭頂部から噴出している。これで表情はなにもかも男たちの目に映るようになる。
 「終わるまで我慢しろよな。こっちも菅野のブス顔が完全露出でちょっと辛いが、我慢するんだからよ」
 いつのまにかブス呼ばわりされている。女を侮蔑する方法にかけてはとことん洗練されているといってよかった。
 「まず栄養状態を調べるからな。皮膚を一ミリ角、切り取ってコンピュータに分析させる。栄養失調の場合はすみやかに保護して治療する。将来の母体の健全化と擁護は女子教育課の使命だ。栄養の取りすぎは矯正の対象になる。このご時勢に非労働者である大学生の分際で贅沢三昧は見過ごすわけにはいかないからな。さて、菅野はどっちかな」
 御坊は束ねられた黒髪を握って顔を起こさせた。マットに抑圧されていたため、鼻の頭がピンク色になっている。目はまだまだきつくファイトは衰えていない。
 それを嗤いながら御坊は尋ねた。
 「え、どっちなんだ? けっこううまいものを食ってんだろ。大学にはそういうルートがあるっていうからな」
 「……あるなら、教えてほしいわよ……」
 「へへへ、どうでもいいが、お前、本当にブスだな」
 御坊は再び手に力をこめてマットに美貌を沈めさせた。怒りの呻きが心地よい。
 吉崎がピンセットとプレパラートを持ってきた。
 「ほんのちょっと、チクッとするだけだ。注射より痛くないさ」
 「……あなたたち、医師免許だって持ってないくせに」
 「顔をあげるなっ。菅野彩! 本当に捕獲するぞ!」
 「あんまり聞き分けがないと痛くしてやるぞ。それともお尻の肉にするか。パンツも脱いでさ」
 「好きにするがいいわっ」
 攻撃的な言動は、また挙げ足を取られて陵虐されるかもしれないと思ったが、黙っている気分でもない。
 吉崎は嘲ら笑いながら背筋が薄れて消えかかり、豊満な臀部の盛りあがりになっていく腰のくびれの部分の肉をつまんだ。贅肉がない女なのでそれ自体、そこそこの苦痛がともなう。つまみあげた肉にピンセットの尖った先端をあてがい、表面の皮を慎重に挟む。
 「ウムム……」
 「動くな。余計、痛いぞ」
 御坊が頭部を押す手に力をこめながら囁く。今、彩の顔がどんなになっているか、想像してニタついた。
 それは小さな小さな皮膚の一片であって、出血もなければ肉眼で痕跡を確認するのも困難なくらいであった。ピンセットの先にこびついたものをプレパラートへ移し、さっそくコンピュータにかける。結果は液晶パネルにすぐ表示された。ほとんどの数値はボーダーラインぎりぎりで正常の範囲内だった。ただカルシウムと炭水化物の摂取量が一線を割りこんでいるが、これとて不思議な数字ではない。日本のほとんどの女性は平時でもカルシウム不足だし、肉類脂物が少ない現状なのだから当然の結果といえる。大学生の中には飽食時代を忘れられず、米軍からハンバーガーだのフライドチキンだのを闇ルートで手に入れている者もいるらしいから、彩の品行方正さが忍ばれるわけだ。
 「まあだいたいパスだな。この程度なら後で三十分くらい栄養補給をしてやればいいだろう」
 御坊はモニターを覗きながら言った。
 「お次は体毛のチェックだな。これは遺伝子に欠損がないかどうか、即座に分析できる有り難い検査だ。もしおかしな因子が発見されたら、深刻な場合、卵巣の摘出といった去勢手術が義務づけられる。まあ、それは人口の一パーセントにも満たない数だから心配はいらない」
 彩は己れの頭髪を握っている御坊の手を激しく首をふって振りほどき、ふりかえる。
 「そんな非人間的な検査、拒否するわ。だいたいなぜ、女だけがそんな検査をされなきゃいけないのよ」
 優性保護法の改悪強化も特務庁の仕業といわれている。
 「菅野、簡単な理屈じゃないか。女は国の宝だ。民族の繁栄の礎だ。それに不良者が混じっていたらどうだ? 国の将来は暗いぞ。お前は頭も顔も駄目だが、子供くらいは産めるだろう。こんなに巨きなケツとおっぱいを持っているんだからな」
 「そうそう。安産型のケツしてるよ」
 摘出しなければならない不良因子は、それはまさにこの男たちに違いない。いつか、必ずこの国から一掃してみせるわ……。彩は眉をピリピリさせて沈黙する。
 「なんだ、菅野、その顔は。なにか腹に一物ある顔してるぞ」
 吉崎は目ざとく指摘する。御坊もどれどれと髪をつかんで自分のほうに向かせる。
 「なるほど不遜な顔だ。世間を小馬鹿にしてる態度だ。少し思い知らせたほうがいいんじゃないか」
 「そうスね。さっきから、こいつ、反抗的ですからね。こっちが紳士的なもんで、舐めきってるんですよ」
 「紳士的?! は!」彩は思わず失笑した。「女を裸にするような紳士がどこにいるのよ!」
 二人の海猫は芝居っ気たっぷりに視線をあわせ、うなずいた。
 「……なによ……何する気よ?……」不気味なムードに彩は恐怖感を抱いた。
 「体毛検査は──」と、御坊はさきほどのピンセットをエタノールで消毒しながら言うのだ。「通常、頭髪を用いているが、別に頭髪である必然性はない。どこの部位の体毛でもかまわない。頭髪なら最も苦痛が少ないし、女性にとっても羞恥をともなわない場所であろうから選んでいるにすぎない。すなわちこちら側の好意であるわけだ。もちろん好意というのは相手が友好的な態度を示してこそ発揮されるものであり、反抗的だったり非協力であったりすれば、発動されえない美徳なのだ。当初からの菅野彩の言動、行動には一片の協調性も見られないばかりか、幼稚で無思慮な反抗的態度に凝り固まっていると判断できる。よって、我々も遺憾ながら心を鬼にして強権的対応を選択しよう。そうするのが長期的に見て、未熟なお前の心根を一歩でも優良婦女子に近づける先鞭となるはずだ。愛の鞭を下すのに恐れる我々ではない」
 言い終えると、彼は彩の鼻先でピンセットをカチカチと鳴らしてみせる。
 「菅野、最近、お前、鼻毛切ったか? あーん?」
 「バ、バカなっ──」
 彼らの陰湿な企みを知って美人女子大生は狼狽した。
 「ま、強権的対応なんて言ってもたいした話じゃないわな。鼻毛を抜かれるくらいだもの」
 嬉しそうな吉崎。彼の手には奇妙な形をした道具がぶら下げられている。二股に分かれた小さなフックである。
 「菅野の鼻って、尖っている、どちらかと言えば獅子鼻系だろう。上向いてアグラをかいているような鼻だったらピンセットも入れやすいんだけどな。お前のはこんなものでも使わないと駄目さ。ほら、これを両方の鼻の穴に差しこんで、この鎖を上に引っ張れば、見事な豚鼻の出来上がり。鼻毛摘出の作業もやりやすいってわけさ。合理的だろ?」
 と、吉崎はその鼻枷を自分の団子鼻に取りつけて、実演さえしてみせた。鎖がピンと引かれると、醜い肉の塊が持ちあがり、いっそう奇妙な形になる。鼻孔が天井をむき、鼻筋に何重も横皺が刻まれた。嘔吐感をともなう不快さが彩を襲った。自分の鼻がああなるのを、いやでも想像してしまう。そしてピンセットを差しこまれ、鼻毛を引き抜かれるのだ。この汚辱感に比べれば、いっそ、局部の陰毛を剃られたほうがまだマシのような気がしてくる。
 「いやよっ、やめて!」彩はとうとうつかんでいた鉄パイプを離し、跳ね起きようとした。「バカにするのもいいかげんにしてちょうだいっ」
 上体がベッドのうえに起き上がると、双つの胸のふくらみがプルルンと垂れる。それまで固いマットに押し潰れていたので、その模様が肌にギザギザにうつり、乳首が乳輪のなかに引っこんでしまっている。自分の剣幕が当然彼らの激しい鎮圧行動を招くと身構えていた彩だが、予想に反して彼らはボォーッとしたようにその揺れる美乳を凝視しているだけだった。
 その機を逃すまいと、彩は身をこごめて二人の間隙を割るように体当たりを食らわした。素肌に御坊のカチッとした制服がめりこんでくる感じ。鍛えあげられた吉崎の肉体もコンクリートのようにごつごつとしていて、対抗するにはあまりに女の皮膚は柔らかすぎた。まるでラクビー選手の突進のトレーニングのように、びくともしないふたつの人形がつくる壁を踏みしめる足をスリップさせながら彩は懸命に押した。が、その努力に費やしたエネルギーの何百分の一の微小な力が、男たちの棍棒の腕にもたらされただけで、彼女の身体はいともたやすくベッドに叩きつけられた。
 彼女は仰向けに倒れたが、見事な双乳はほとんどペシャンコにはならなかった。皿に落とされたプリンのようにゆらっと一二度、ブレただけである。
 まとめられた黒髪──それはこういった場合も想定してそうされていたのだ。簡単にわしづかめる──を吉崎が握った。彩はその手首に小さな歯で噛みつこうとした。一瞬速く、吉崎の反対の手が頬に飛んだ。美しい音が響いた。彼女の顔は鼻の骨が曲がるような力に振り飛ばされ、腰もそれにつづいて捻りながら突っ伏した。顔の半分が燃えている。目が開けていられなかったが、そのつぶった瞼の裏側は花火大会だった。抵抗をやめるかどうか、即断を迫られた。
 彩は乾坤一擲の力を両腕にこめて、握りあった双つの拳を砲丸投げのように振りまわした。吉崎の鼻面を狙ったつもりだ。残念ながら彼は敏捷な動きで攻撃をかわし、一歩、外へ後退した。
 「えいっ──」黄色い気合いの声とともに彩のスラリとした下肢が伸び、彼の股間を蹴ろうとする。衝撃が足首に走った。命中したのではない。吉崎の手がキャッチしたのである。残った片足をバタつかせたが、つかまれた足首を捻りあげられると、身体がねじれていくのに抗えなかった。
 「そろそろ、ヒステリーも燃料切れ、だろうな」
 御坊の声がちっとも動揺していない事実に彩は敗北感を覚えた。
 御坊は必死にマットに突っ張って身体を起こそうとしている彩の手をつかみ、再びベッドの鉄パイプに持ってくる。それまでしまわれていた拘束ベルトを取り出すと、折れそうなほど細い手首に巻きつけ、キッチリ締めあげた。
 「……ウウッ……ち、ちくしょう……」
 「そんな汚い言葉を使ったら、天国の両親が嘆くぞ」
 両腕の自由を奪うと、頭髪をもって顔を起こす。真紅に染まった美貌へ往復ビンタを弾けさせた。彩の首ががっくりとマットへ折れた。
 「若者の暴走には社会は厳しくあらねばならない。吉崎、ズボンとパンツを脱がせ。御灸をすえるんだ」
 吉崎は無言でうなずくと──もうその目は欲望でギラギラになっている──ジーンズの腰に手をかけた。顔を張られて力が抜けているのをいいことに、腰を浮かさせ、ベルトを外す。抜き取り、ボタンを毟りとるとジッパーをおろした。ベージュのパンティがムッをふくらみを見せる。くびれた腰にピッチリ身についているジーンズを、ヒップの丸みをくぐらせながら剥きおろした。ピチピチの双臀がパンティをひとつの皺もなく張りつめさせていた。真っ白な脚線が露出していき、とうとうジーンズが取り去られる。無造作にパンティのゴムに手をかけ、一気にさげる。
 彩は意識があるようだったが、言葉は発しなかった。哀訴するのは惨めさをつのらせるばかりと判断したのだろう。ドロドロの溶岩のような屈辱が彼女を苛んでいるのは、曝け出されているうなじから、そのつけ根までが朱色に染まっている変化からもわかった。
 ついに男たちの目の前に出現した桃尻……。ムチムチと若さがみなぎる発育途上の球体だ。それほど巨臀ではないが、腰がよくくびれているので、グラマラスに見える。臀丘は白人族のように丸く、クリクリしていた。スッと通っている割れ目はキュートで、その底にあるはずのヘアバーガーをいやでも連想させてくれる。今は太腿をぴったりと閉ざして空気の侵入すら拒んでいた。
 吉崎と御坊は協力して左右の足首をベッドの隅の皮ベルトに拘束した。
 「……ああ……」
 さすがに小股に開かされる恥辱は彼女の口を緩めさせ、ちくしょう! などと吠えたてたさっきの剣幕とは正反対の弱々しい声を洩らさせるのだった。
 足も手と同じようにマット面からほぼ十センチくらいの高さに持ちあげられている。ベルトが短いので膝に余裕がなくなり、下肢全体がしなりながら浮き上がっていた。胴体部だけがようやくマットについているドぎつい格好であるわけだ。股関節が痺れるように痛んでいるはずである。
 当然、跨ぐらの様態は生え具合と媚肉の構造まで観察が可能だった。二人の男のこれまでの言動を考えれば淫らで聞くに耐えない指摘がなされるのは避けられるわけもない。しかし彼らはどこまでも狡猾だった。声を上げてあげつらうのを控え、ヒソヒソと小声で囁きあい、じゅうぶんに間を取ってからカッカッカと失笑を漏らすといった、羞恥を煽るような卑劣さを見せるのである。
 塞ぎたくてもふさげない耳はどうしても会話のすべてを聴こうと神経を集中させてしまう。それがまた口惜しい。
 「……土手が……じゃないだろう、きっと……モジャモジャ……」
 「……けっこう……でるんじゃないですか……色も……名器かも……」
 カァーッと頭に血が昇り、額から流れてくる汗が眉を濡らし、瞳に流れこんでくる。
 「菅野、少しは応えたか。あん?」
 「暴れなきゃこんな目にあわずにすんだものを」
 二人は頭のほうへまわってきた。どんなに嫌がっても頭髪を握られれば恥ずかしい赤ら顔を晒さねばならない。あまりの屈辱感に歯の根があわなくなり、カチカチと鳴った。
 「凄い格好にされちまったなあ、え?」御坊が熱に火照っている頬をつつく。
 「……」
 「お前は犯罪を犯したんだから、仕方ないんだぞ。逆恨みするなよ。自業自得、わかるな」と、吉崎。
 彼は弓なりに反っている背中を撫でさすった。
 おぞましさか、それとも緊張しているので敏感なのか、そうされると彩の目が細くなり、大きく息を吸いこんだ。美しくカーブしている小鼻がヒクヒクと微動する。
 「さて、最初からやり直しだな。体毛による遺伝子チェックだ。覚悟はいいだろう。この際、一本残らず抜いてやるからな」
 頬のニキビをピンピン弾いていた指が彼女の鼻頭をこねまわした。口をへの字に結び、からかいに耐える彩。
 吉崎が例の鼻枷を持ってきた。彩の呼吸が荒くなる。今にも叫びだしたいのだろう。汗ばんでいる顔に新たな生汗が玉になってしたたった。十九歳の裸身から立ち昇る甘い汗の匂いはどんな香水よりも刺激的で気をそそった。面白いのは、薔薇色に輝く頬に掻いた汗の匂いと、頭の地肌を濡らし、漆黒の黒髪に浸透させてきたその匂い、あるいは肩甲骨のあえかな窪みにたまった汗水の匂い、とくに脂ぎっている感じの腋の下の滲み、尻梁に玉となって浮かび、狭間へつつと流れこんでいく汗の匂い……等々は、それぞれに微妙に種類が違うような気がしてならない事実である。どれも捨てがたい蠱惑の媚薬であったが、それらがブレンドされひとつになった体臭こそ、生唾もののフェロモンといえた。
 このフェロモンがいっそう濃厚になるのはセックスの最中の助平汗なのであろうが、さて、美貌の芯とも言える鼻を醜く歪められたときに絞りだす苦渋の汗の匂いはいかがなものであろうか。
 御坊が逃れようもないように髪とあごをしっかりとつかんで固定した。吉崎は鼻から激しく呼吸して身体全体さえもわななかせている彩を小気味よさそうに眺めながら鼻枷を額から垂らした。残虐な鈎状のフックが鼻筋にコツコツとあたる。
 「……赦して……」
 決して口にすまいと決意していた哀願の言葉が反射的にこぼれでた。大きな黒目がギョロと動いて吉崎を見上げる。
 「へへへ。三十分前にその殊勝な声が聞けていたらな。ま、観念することだ」
 冷たいフックの先を鼻孔に差しこまれると、彩は生まれてこのかた経験のないほどの汚辱に襲われた。軽い力が柿の種状の美しい鼻孔の肉の縁にかかってきた。柔らかく筋肉のかけらもない小鼻が押し上げられる。
 「う……ううっ……」額に力が入って皺が生まれ、眉が逆八の字に吊り上がり、寄った。スッとかたちよく尖っていた鼻頭が潰れながら引っ張られ、しだいに鼻孔が縦長になっていく。鼻筋には圧縮された肉の皺が刻みこまれ、色も艶やかなピンク色から濃くなっていき、プチトマトのように染まりつつあった。
 「もっと顔の力を抜かないと、かえって痛いんだぞ」
 彼女の容貌から美のかたちが消滅しつつあった。鼻の面積など顔のなかの十分の一も占めていないだろうに、ただそれだけをめくり返しただけで、無残絵さながらの惨状である。引き伸ばされた鼻孔は豚を連想させる。考えてみれば名画のなかにひとつでも汚点があれば、それは名画としての価値がなくなる。いや、他が素晴らしいばかりに汚点がかえって際立って、より醜い印象を与えるのかもしれない。今の彩もそうだ。美が無に帰したばかりでなく、マイナスに転じて豚にも劣る醜悪を晒しているのだ。
 充血した目から涙が溢れてきた。噴き拡げられた鼻孔からは透明な洟汁も流れてくる。鼻につられるように、上唇も持ちあがり、白い歯と珊瑚色の歯茎がかいまみえる。
 それでもまだフックはグイグイと引き上げられていく。
 「あ、ああッ……ちょっと、ちょっと休んで……」
 「甘えるな、女子大生! 労働者はなあ、毎日もっと辛い目にあっているんだ!」
 わけのわからない理屈を言いながら、御坊は黒髪とあごを手放した。そうしても、すでに彼女は暴れられない。ちょっとでも顔を揺らせば、激痛が鼻骨に走るであろう。
 御坊はピンセットを手にして戻ってきた。


  
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