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 第四章 暗雲

 助役は村長より、さらに教養のない男で、典型的な田舎役人であった。いつも村長の顔色をうかがい、歓心を買おうと画策した。前例通り事が運ぶことだけに地道をあげた。部下には村長に輪をかけて尊大であった。
 彼は私の名前を呼び捨てると、車を回すようにと命令した。
 仕事も終りに近づいた夕刻である。
 昭和四五年は十年前と同様、政治の季節だった。全国各地で学生がデモをし、機動隊と衝突を繰り返した。しかしそれは大都市圏だけの状況であって、q村のような郡部の最奥地には無縁の話である。政治的に無知で保守的な村人たちは無気力に政府のやり方を支持しているようだった。
 助役がその一人であるのは当然である。私の運転する車の後部座席に乗り込み、ラジオから時事情勢が報じられるのを聴くと、助役は罵りを口にするのだった。
「誰のおかげで大学で授業を受けられると思っているんだ。ゴクツブシめらが!」
 私が若者の代表として彼の矢面に立たされるのである。
「ごたくを並べる暇があるんだったら、汗水垂らして働いてみろ!」
 私は彼のそうしたヒステリーを辛抱強く聞きながら、行く先を言うのを待つのだ。助役はよくそうしてサボタージュの時間を稼ぐのである。ようやく彼は行く先を告げた。
 芳田晃子の家だった。
「このクソ暑いのに、つまらん用事を言いおって」
 助役に仕事を言い付けられるのは村長だけ。日頃は機嫌を取って重用されようとするのに、陰口は彼のビタミン剤のようなものだ。
 昨年の三郎の死以来、晃子は一人暮らしを続けている。小学校の教師を、おそらく一日も休みはしなかっただろう。児童たちとの授業だけが、彼女を癒し、日常に復帰させるすべだったのだ。和良は葬式の時から、やはり帰省はしていない。一人きりになった母親を励ましに来ても良さそうだったが、春も夏も彼の姿はここには帰らなかった。一度だけ、その件について、私は彼女に主張したことがある。晃子との親交は密になり疎になりしながら、途切れてはいなかった。私は和良が何故帰って来ないのか、と彼を責めたのだ。晃子は寂しげに笑いはしたものの、親が子供の重荷になるようなのは御免だわ、と言った。晃子らしい前向きな意見である。
「和良は大学で色々とやっているようなので、母親なんか、忘れてしまっているのよ」
 私が、彼は何をやっているのかと問うと、晃子は肩をすくめて答えようとはしなかった。
 ……晃子に、助役は一体どんな用事があるのだろう。村長の立場に盲従している彼は、もちろん、晃子には厳しい評価を下していた。彼の理想とする女性像、母親像と、晃子の存在はことごとく反発しあってもいる。
「仕事などにうつつを抜かすから亭主が早死にするんだ」
「女が政治的な主張をするなど以ての外。女の浅知恵で口を鋏めば、国が乱れ、人々が惑うだろう。男に従って生きてこそ、世の中は安泰となる」
 こずるい助役は自分の意見を私に向かって言うだけであって、決して、他の誰にも言いやしなかった。私を信頼しているのではなく、そもそもまともな人間として扱っていなかったのだろう。
「母親としても失格だ」と助役は車の振動に揺れながら強調した。「あそこの息子はなんだ。父親の四十九日にも戻ってこなかったらしいじゃないか。どういう育て方をしとるのかね。あの女は」
 いまいましげに毒づく助役。
「しかも息子は流行に流されて、学生運動のなんとか言うグループのリーダーだって言うのだからね。まったく、村の恥だ、これは」
 和良がそうした運動に加わっているのを私はそのとき初めて聞いたが、驚きなど一つもなかった。むしろ、和良がもし加わっていずに、日和見を決め込んでいたとしたら、そちらの方が意外だっただろう。和良とはそういう人間である。晃子が和良の様子を訊ねられて答えなかった理由がわかった。村で噂になれば、晃子の生活にとっても和良の名誉にとっても良い影響はない。
 しかし、助役はなぜ知っているのだろう。村長のもたらした情報だろうか。村長は思想部筋に顔が広いらしいのだ。村長は何かを虎視眈々と狙っていて、晃子に対する諜報活動をしているのかもしれない。すると、今日のこの助役の訪問もそれに関係したものか……?
 晃子の家につくと、助役は無言で車から出ていこうとしたが、ふと思い直して私にこう言った。
「お前もくるんだ。芳田先生の教え子だろう。お前の顔を見れば、あの女傑も少しは軟化するかもしれない」
 私は複雑な心境だったが、上司の指示とあれば、従うしかなかった。私は助役の後をおって、晃子の家の玄関の前に立った。晃子は来訪者が助役だと知ると、疲労感を漂わせた表情をした。しかしその背後に私の顔があるのを発見すると、多少、それも和らいだ。
「あら、──さん、あなたもご一緒だったの」
 晃子は私を必ず、さん付けで呼ぶ。小学校の私の姿を知る恩師であれば、もっとくだけた呼び名を使いそうであったが、晃子はそうした面でも私の尊厳を守ろうとした。お前よばわりする元校長や助役とは大違いである。
 我々は家に入り、居間でちゃぶ台をはさんで晃子と向かい合った。存在を拒否してみても、晃子の濡れた瞳に見つめられれば、助役如きが平静を保つのは不可能である。晃子は黙って彼を見据えている。丸首のセーターを着ていた。首筋とその付け根の白い膚が見えた。助役は出されたお茶をすすり、煙草に火をつけて、そわそわとした挙動をつづけるのだ。
「で、芳田先生、先日の話、お考えになっていただけましたかな?」
 この発言からすると、助役は何度か晃子の元に通っているらしい。
 晃子は落ち着いた声で言った。
「そのお話でしたら前にも答えましたように、お断りさせていただきます」
 晃子は私が同席したからといって、とくに発言に影響を受けた風もない。
「こんないい話はないですよ。Mさんはそりゃあもう芳田先生をよく思っていらっしゃるのです」
 私は表情にこそ出さなかったが、ずいぶん驚いてしまった。助役はどうやら晃子に縁談を世話しようとしているようなのだ。出てきた名前のMは村の有力者の一人で、闇米で財をなした富農である。たしかに妻を亡くしていたはずだが、歳は六十を越えている。


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