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 第三章 融けゆく幸福

 和良とはその後もずっと親友として付き合っていた。中学に進学したころから、彼との学力差は圧倒的なものとなったが、それでも和良は友人の一番手に私をいつも選んでくれていた。和良の読書好きはいっそう高じてきて、とても中学生の読む本とは思われないような難しい書物を鞄いっぱいに詰め込んでいた。
 私は平凡な中学生だった。表面的には……。晃子への思いはこの時期から異様に進んでいた。
 小学校の卒業式の時、洋装に正装した晃子の姿は私を痺れさすに十分だった。晃子はあの一件のあと、政治的な行動も言動もとらなかったけれど、校長の体罰主義には猛烈に反対してこれを許さなかった。それは児童たちにも伝わってきていて、晃子の人気は不動のものとなっていた。校長は何かとこじつけては晃子の教育方針を粉砕しようとしたが、晃子は意に返さなかった。そのうち校長は県の教育委員会へ転出となり、小学校は晃子の主張が勝利し、平和な授業風景が続いている。
 私の心の片隅を支配する幼稚なサディズムは、いつしか正義の味方の女神である晃子と、それを苦しめる悪漢とを登場させて自慰を遂行させようとした。悪漢は言うまでもなく校長がその役を勤めている。卒業式には来賓として彼も列席したのだ。意図的に、晃子と元校長が視線を合わせないようにしているのが、私には理解できた。私の精神のほとんどは子供のままだったが、サディズムの嗅覚だけは別格の早熟を遂げており、晃子と元校長の確執をクラスの誰よりも早く発見していたのだ。私の妄想の中で、元校長は晃子を捕えてこれに激しくビンタを食らわせるのだった。鞭打ちや緊縛などにならないところが微笑ましい。ビンタは元校長の十八番であり、少年の経験における一番過激な暴力の一つだった。それでも、ビンタをされる晃子は上半身が裸であり、あの格好のいい乳房がそのたびに揺れるのである。
 フォーマルなジャケットを着た現実の晃子のブラウスの胸はやはりこの村の女たちの中で最もふくよかで盛り上がっている。サディズムに痺れて、私は卒業式の最中、勃起していた。晃子が卒業生の名前を一人一人読み上げていくのを、私は倒錯した気持ちで聞いていたのだ。私の順番がきて、彼女の唇が私の名前を読むと、その瞬間、私は少量の精液をパンツに放出し、汚してしまっていた。
 晃子の教師姿を生徒として見るのは最後になったが、かえって卒業した後のほうが晃子への接近は容易だった。彼女の教え子に対する律儀な平等主義が解けたからである。晃子は自分の息子の親友として私を厚くもてなすようになった。よく夕食や夜食を作ってくれ、一緒に食べる機会もあった。晃子にも愉快な気性があり、人参嫌いの私に動物の形をした人参をわざわざ作って食べさせようとしたときがあった。幼稚園児並みの扱いだ、と私が怒ると、意地悪な表情をして、あら、赤ん坊のつもりで料理したんだけど、と混ぜっ返すのだった。
 そんな楽しい食卓の一時には、彼女の夫であり、和良の父である三郎も、稀ではあったが同席した。三郎は物静かでほとんど会話には加わらず、ときおり、晃子のほうを子供の目もはばからずにじっと眺めていたりした。和良はこの父親によく議論を吹っかけた。私には到底、理解できない哲学理論を主張し、父親をやり込めようとした。三郎はたいがい相手にもしなかったが、一度だけ反撃し、和良をいとも簡単に立ち往生させた。晃子は父子の様子をニヤニヤと眺めていて、今日は和良の勝ち、とか、今日はお父さんの勝ち、とか、からかい気味に行司役をした。私が取り残されないように気を配るのも忘れていない。
 しかし彼女が三郎を見る視線にはどこか悲しげな色合いが含まれている場合もあるようだった。三郎は町の病院に通っているらしく、顔色もいいものには見えなかった。
 中学を卒業すると私と和良は別れなければならなくなった。q村には中学までしかなく、進学希望の生徒は町の高校を選ばねばならない。平凡な成績の私は最寄りの町の平凡な高校に平凡な点数で入学を許された。和良は都会にある県内一の進学校に合格した。私は村の自宅からバスで通い、彼は家を出て都会に下宿して通学した。
 一人息子と別居せざるをえなくなった晃子は寂しさを隠せない様子だった。道で見かける彼女の姿には、どこか元気がないのである。ただし、晃子の私への親密な感情は反比例するように高まった。和良の不在の代償を私に求めたのだろう。私の姿に和良の面影を重ね映しにしたのだ。立ち話を積極的にしかけてきたし、家にも招かれた。母親にもプライドがあるらしく、決して自分から息子の話題を持ち出したりしないのだが、私が水を向けると、時間を忘れて身びいきに熱中するのである。
 高校生になると、私は毎晩、晃子を想って自慰に耽った。知識も豊富になっていたから、晃子は様々な責め苦を味わわされることになった。元校長はここでも大活躍してくれた。よほど覗き見た校長室での晃子との争いが私の心理に強烈だったのだろう。晃子を組み敷くのはいつもこの男であって、私自身ではない。自慰が終了した後、必ず私は晃子を助けに颯爽と乗り込む王子であり、元校長を打ち倒した。そこまでストーリーを続けて妄想を完結させるのが私の嗜好であった。サディストは卑怯なのである。
 最初のうち、学校の休暇ごとに和良は帰省していた。そのたびに芳田家には華やいだ空気が甦った。私も何度も食事に招待された。一向に成長しない幼稚なままの私とはまるで違い、和良は精悍な大人の顔つきになっていくのがわかった。理屈はさらに難解になった。頻繁に高校の保守的な体制を批判した。社会現象への視線も冷徹になっていた。晃子にも手に負えない感じである。父親とはほとんど会話をかわさない。ただ、私とは小学生の頃の想い出を屈託なく語り合い、笑った。
 だから主婦としての晃子は食卓の話題をそちらの方面に留めておきたい気分になったのだろう。ある日の宴では行水の話を紹介したのだ。
「──さんには、私の恥ずかしいところを覗かれちゃったことがあるんだ」
 悪戯っぽく笑う晃子。和良は興味を示し、尋問してきた。私は真っ赤になって、よく覚えていないとシラを切った。できれば、私と晃子の二人だけの秘密に取っておきたかった。もちろん、晃子にとってはまったく些細な事故であったに違いない。今日、突然、思い出したに過ぎなかったのかもしれない。
「おっぱいをポロンとね」
 面白おかしく語りながら最後にそう言って締めくくった。川遊びの日の一件は和良も覚えていて、なんだ、あの日、そんな大事件が勃発してたのか! と、指を鳴らした。私を告発するような目で睨み、肘で突き飛ばした。
「あの当時のおふくろのおっぱいは立派だっただろう? こいつ、俺にも黙っていたとは怪しいな。おふくろのこと、好きだったんじゃないのか?」
 和良のからかい半分の追及に、私が真面目に否定したので、大笑いになった。
「ま、心配してないぜ。今のおふくろのおっぱいはしなびてるから、高校生をノックアウトすることも出来ないさ。な、おふくろ?」
「ひどいわね! 今だって、これでなかなか、たいしたものなのだから」
 晃子は三十代後半だったはずだが、十年前と少しも魅力が衰えていない。髪の毛が多少、短くなったくらいである。体型も維持されていた。元々が細身だったから脂肪がついたとしても変化が気にならない。胸や腰はおそらく魅力を増したのではないだろうか。
 変態ではない正常な芳田家の人々は話題をすぐに変えた。和良は行水の話から先に進んで元校長の近況について訊ねた。
「村長選挙に立候補する噂があるんだって?」
 驚いたことにそれは事実だった。県の教育委員会でもあの男は如才なく立ち回ったらしくかなりの要職についていたので、村の政界の常識としてはそうなってもおかしくはないのだったが、村民の支持が特別大きいわけではなかった。
 晃子はやれやれといった表情で呆れている。
「村長のポストなんて、村の長老数人の意向で決まっちゃうのよ。民主主義はまだまだここまで浸透していないのね」
「そうなると、おふくろも困った立場になるよな。せっかく学校からいなくなったと思ったら、今度はもっと上の身分で復帰するんだからさ。あいつとは仇敵だものな」
「あんなのに負けないわよ。でも苦労はさせられそうね。困っちゃうな。また目尻のしわが増えちゃうよ」
「へへへ、いっそのこと、おやじが対立候補として出馬すればいいのさ」
 和良はジョークのつもりだったらしいが、父親は少しも笑わなかった。誰の目から見ても、三郎の病気は進行しているようだった。入院も考えなければならない状況である。夕食の空気が一気に冷え込んだ。晃子は心痛に沈んでいる。和良は青年らしい男親への反発と病人に対する彼らしい優しい心情との板挟みになって沈黙した。私はいつになく積極的に太鼓持ちの役を引き受け、校歌でも唄いましょう、と下手糞な音程を聞かせたが、場は盛り上がらなかった。
 学年が上がるに連れて、和良は休暇にも家に帰らなくなった。部活動が忙しいという理由らしい。晃子の表情がまた寂しげなものになった。そして三郎が入院した。悪い話は続くもので元校長が無投票で村長に当選した。晃子の笑い顔をなかなか見られなくなっていった。


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