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  頬ずりされる

 人見が行ったのをたしかめると、寛治の表情がにわかに弛んだ。
 「悪かった悪かった」と千夏の両頬を両手で挟んで紅潮している往復ビンタの痕を撫で回した。「こうでもしないと、あいつを信用させることも、追っ払うことも出きんからな」
 「じゃ……」千夏はふらふらしながらも、寛治を見つめた。
 「そうじゃよ。それにあんた、あのままじゃと何かいいだしそうな気配じゃったからなあ。とっさに強行手段でカモフラージュしたのじゃ」
 寛治の意外な言葉に千夏は緊張の糸がどっと弛み、身体を寛治に預けた。
 「よしよし──」
 肩を抱き、ポニーテールの頭髪を撫でながら、寛治は腹の底でほくそ笑んでいる。
 (なんのかんのといっても、所詮、女の浅知恵というやつだな。騙すのなど、赤子の手を捻るも同然じゃ。ホッホッホ)
 吉沢千夏の信頼をそこなうことなく──いやいや、それどころかかえって増しているといっていい──サディステックな欲求を満足させられて寛治老人はすこぶる機嫌のいい顔つきである。手にまだ残る千夏の柔かい頬の感触が官能的だ。しかも見よ、胸のなかでは二十六歳の女盛りの肉体のぬくもりがじんわりと伝わってくる、男にとってこの上ない状況にもなっている。じっとりと素肌を濡らした汗の匂いが甘酸っぱくたちこめ、黒髪の芳香とともに鼻孔を刺激するのだった。
 「辛かったろう」
 寛治はすっかり救援者になりきって、いった。それは吉沢千夏教諭攻略の今後のスケジュールにも重要なところであるのだ。
 「よく耐えている。感服しましたぞ。若いのにこうまで自分の身を犠牲にするとは」
 「……いえ、行き掛かり上、こうなったまでで……」
 千夏は寛治の胸から顔を起こし、羞かしげにいった。その顔がぷっくりとふくれがっているのが、なんともおかしく、危うく吹き出すところであった。
 「なんのなんの。なかなかできんことじゃよ。そうだ。話を聞いて、これをもってきたぞ」
 寛治は懐から冷たそうな缶コーラを取り出した。千夏は嬉声を発してそれをひったくった。リングプルを剥がすのももどかしく、しゃぶりつく。水分に対する飢餓感は凄まじいばかりで、寛治の視線など忘れ喉をゴクゴクと鳴らすのだった。
 (壜だともっといい顔が拝めたのにな)
 老人はそれでもじゅうぶんに浅ましい千夏の飲みっぷりに目を細めている。最後の一滴まで喉に流し込むと、千夏はまだ足りないのか、舌ベロを大きく差し出して缶の表面についた水滴まで舐め回してしまう。
 「……いやだわ。私……」
 自分の女とは思えない欲求だけの行動に、千夏は苦笑せざるをえなかったが、寛治はいやいやと手を振った。
 「こんなサウナのようなところに放りこまれているんだから当たり前じゃ。気にすることはないぞ」
 「寛治先生」と千夏はいった。「私、結局、横内まゆみを助けることができませんでしたわ」
 「うーむ。それを思うと少々、辛いところはあるな。わしだって協力を約束しながら何もすることができなかったんだから同罪じゃよ」
 巧みに協調関係をちらつかせる。孤独な囚人には拒絶しがたい苦悩の表情だろう。
 「しかしだ。まったくこちらに光がないかというとそうでもないのだぞ」
 「どういうことですか」
 食い入るような千夏の目付き。藁をも把みたい心境だ。
 「あんたがこうして耐えているおかげで、やつらもずいぶん気が大きくなっているようじゃ。もう何も恐いものもなくなったということじゃろ。まさかこのわしが敵だとは思いもよらぬじゃろうからのう。ホッホッホ」
 「で、光とは?」
 焦れったさそうに千夏は尋ねる。
 「山川の奴め。横内まゆみが千葉の風俗店で働いておることをポロッと洩らしおった」
 「千葉……」
 千夏は絶句した。まゆみが売り飛ばされた先は千葉だったのか。
 「まだ千葉のどこか、あるいは店の名前までは定かではないが、このまま内偵を進めていれば、いずれ白日のもとになるのは時間の問題じゃ」
 「寛治先生!」
 千夏は寛治に期待のこもった瞳を向けるのだった。
 「よしよし、みなまでいうな。わしも老骨に鞭打って全力を尽くすから、あんたも頑張るんじゃ。辛かろうがのう」
 ドラマであればここでもう一度、ガバと抱き合う師弟の図が想定できる。寛治も期待したが、さすがに女教師だけあって、そこまではプライドが赦さないらしい。
 (ケッ、もっともっとシゴキを加えてやらんといかんらしい。靖にもハッパをかけてやらないと)
 寛治は表面ではうむうむと頷きながら恐ろしい計画を考えていた。
 人見先生の足音が近付いてくると、寛治はガラリと態度をかえた。千夏は当然、演技だと信じているわけだが、寛治はそれをいいことにまた少しサディズムを楽しめる。
 「ウリャッ、何度いったらわかるんだっ。この小雀っ」
 突如、立ち上がった寛治は千夏の腰を荒々しく足蹴にした。千夏はあっと叫んで引っ繰り返った。寛治はまだまだ赦さず、首根っ子を掴んで強引に引き起こすとまたまたビンタを炸裂させた。
 ジーンと衝撃が脳髄を痺れさせた。いささかやりすぎだと千夏は思ったが、寛治に対する信頼は揺るぎないものに成長しており、林檎の頬っぺたにされても疑いはもたなかった。
 「寛治先生、買ってまいりました」
 「これはご苦労」
 「どうですか。吉沢の根性は」
 「まったくなっておらんわ。お前たちはいったい何をしておるのだ。こんな小娘一人、さっさと御せんでどうする。生徒が風紀を乱して退学するのもすべてお前たちがたるんでおるからじゃ」
 寛治に一喝され、面目丸潰れの人見は血相を変えて千夏に踊りかかった。
 「貴様。寛治先生に何をいったんじゃあ!」
 「な、何も失礼なことは……」
 人見の剣幕に怯えて、千夏は寛治に助けを乞うように視線を向けたが、寛治はさり気なく頷くだけ。その目は、耐えるのじゃ、といっているようであった。いきりな黒髪をわし掴まれて右に左に大きく揺さ振られた。顔だけでなく、身体も飛ぶように、である。小柄なだけにいいように弄ばれる。目が回っているところへ、軽く平手打ちがかまされた。
 「ヒッ、助けて!」
 「甘えるんじゃねえ、阿女っ」
 人見はとうとう千夏の鼻をつまみ、いやというほどねじりあげた。
 「ングッ」
 そして突き飛ばすと、仰向けに倒れた彼女の二肢を抱え込み、ゴロリと俯せに返し、自分はその柳腰に逆さ乗りに馬乗りになって、小脇に脚首を挟む要領で、逆海老固めに入るのである。どうやら、ここの体育教師たちは皆、プロレスファンらしい。身長156センチの吉沢先生が体重百キロはあろうかという巨漢に伸しかかられてはまったく無抵抗で、悲鳴すらあげられず、呻きを洩らしつつただ自由になる両手でバタバタとござを叩き、苦し紛れに掻き毟るばかりである。
 グイグイと人見は腰を責めたてる。ちょうど、寛治の位置からは千夏の折れ曲って逆立ち状態になっている下半身が正面に見えたが、彼女のジャージの上着がめくれあがり、臍窩がさっとあらわになっていた。まだ贅肉ひとつついていない下腹は苦痛に大きく喘いで肋骨を透かせている。もうちょっとでズボンもずれこんで、パンティの一部が露出しそうであったが、まさかそうしろと命じるわけにもいかない。それはこれから先のお楽しみだ。
 「どうだっ。まいったか!」
 人見は金切り声を発しつつ、これでもかこれでもかと絞めあげる。
 「うーン──まいった」
 顔を真っ赤にして床に押しつけている吉沢先生はそういうしかなかった。人見は何事か罵りながら、彼女の身体から尻を上げた。暴虐の嵐が去っても千夏はしばらく動けなかった。
 「いつまで休んでんだよ。さっさと仕事せんかあ」
 罵声とともに千夏は自分の肩に激しい灼熱感を覚えた。見上げると、人見は剣道の竹刀を手にしていた。あれを打ちおろしたのだ。その先端で今度は千夏のウエストのくびれを小突き、押し込んだ。暴力はエスカレートするばかりだ。気が付けばすでに宮城寛治の姿は消えていた。再び孤立無援の闘いが始まるのだ。千夏はノロノロと起き上がり、宛名書きのペンを取った。
 それから二三日は、千夏は反抗的な態度を見せずに作業に打ち込んだので、殴られることはなかった。鬼監督官たちもなんの理由もなく嗜虐の欲求を爆発させるわけにもいかないらしい。しかし理由はいくらでもつけられる。
 その日は昨夜の熱帯夜を引きずったうだるような暑さの一日で、教官室の反省室のなかは一日中、四十度にも達する熱地獄と化していた。もちろん仕事ははかどらず、五時を過ぎてもノルマを達成できなかった。
 「なんだとお!」土下座し、謝りつづける千夏を靖は一喝した。「貴様、その程度の単純な仕事もロクにこなせないで、教壇に復帰できると思っとるのか! 俺たちがこれほど親身になって付き合ってやってるというのに、そのザマはなんだ。おちょくってるのか、貴様!」
 また往復ビンタの制裁を覚悟している千夏に靖は宣告する。
 「よーし、今日はちょうど俺が当直の日だからな。お前にとことん付き合ってやる。残業でし残した分、すっかり片付けるんだ。わかったか!」
 「……」
 「なんだ、その顔は。何かいいたそうな表情だな。ン? いってみな」
 靖は竹刀を手で弄び、千夏の疲労した美貌を覗き込む。
 「……いいえ、何も……」
 「靖先生、この女、アレの日なんじゃないですか」
 人見はニヤニヤしながら耳打ちする。
 「アレ? なんだ、お前、生理だったのか」
 靖は大声で千夏にいった。千夏は消え入りたげに小さく頷いた。
 「そうかそうか。千夏もやっぱり女だったんだなあ」
 帰り支度を始めていた他の教師たちもぞろぞろと反省室の前に集まり、小さくなっている千夏に好奇の視線を投げ付ける。
 「そりゃ仕方がないわな」
 靖が温情を見せようとすると、一人の教師が進言した。
 「騙されちゃいけませんよ。女なんていうのは月よりの使者を都合のいいときに使うんだから。靖先生、千夏が生理休暇、取ったこと、覚えてます?」
 彼らは最近、名前を呼び捨てにしていた。女を完全に管理下に置いた自信の表れだろうか。
 「そーだな。そういえば休んだ話は聞いたことがないな」
 「でしょう。生理の情報に詳しい靖先生が知らないんだから、ないんですよ。最近の女子は体位の発達が目覚ましく、少々の生理では休む必要もないんですよ。それにこいつ、きっと軽いほうなんじゃないんですか。学校の仕事も休む必要がなかったのに、宛名書きなんてちっとも苦にならないはずですよ」
 靖は千夏の前に屈み込み、あごを掴んだ。
 「どうなんだ、千夏。軽いほうなのか」
 尋ねる靖から視線を外し、千夏はかすかに頷いた。
 「この野郎。どうしてそれを隠しておいたんだ。この俺様をたぶらかして、楽しようとしやがったな。ふてえ女だ」
 「どうして生理のことまで話さなければならないんですか」
 さすがに千夏もムッとして言い返した。寛治老人との約束を律儀に守り、生来の気の強さを押さえに押さえてきたのだが、女の弱みをほじくり返すような卑劣な男たちに血が頭に昇ったのである。だいたい生理は精神的なものが大きく作用するので、この所の苛酷な状況とプレッシャーにいつもの体調ではない千夏が苦しんでいるのも不思議ではないのである。
 「報告する義務があるとは思いません」
 キッパリと言い捨てる千夏。汗ばんだ顔が青ざめている。
 「おっと、こいつは大きく出やがったな。久々のヒステリーか。やっぱ、生理だわ。肌の色も濁ってるしよ」
 靖は千夏の頬を指先でつついた。まるでヤクザが売り飛ばされてきた女の肉を品定めしているようなムードである。
 「ベタベタ触らないで!」
 「うるせいっ」
 靖の手が頬を張り飛ばした。
 「甘やかしてりゃ、いい気になりやがって。いいか。俺はな。保健体育の教師でもあるんだよ。その俺が女の身体の機能について関心をもつのは当然なんだ。そしてその個人差をよく理解することによって、最適な指導方法というものを構築していけるんじゃねえか。女の精神状態は生理の周辺で大きく影響を受けるんだからな。それを考慮しつつ、管理する。男として当たり前のことだ」
 「そんな偏見がまだ残っていたなんて、驚きだわ」
 千夏は打たれた頬を押さえながら睨み返した。
 「フフフ、いい顔だ。吉沢千夏先生の怒った顔はやっぱりいちばん綺麗だぜ。よしよしそのくらいの元気がありゃ、残業だってどうってことねえだろ。今夜はマンツーマンでじっくり語りあおうじゃねえか。なあ?」
 そういうと靖は指を弾いて彼女の額を痛打した。
 他の教師たちが帰路につき、靖が校内の巡回を一通り終えて帰ってくると、物音ひとつ、生徒の騒めきひとつ、聴こえてこない恐ろしいほどひっそりとした教官室に二人っきりとなった。反省室の扉は開け放たれたままだから、なにかとちょっかいをかけてみるには好都合だった。
 「千夏はバスト、いくらなんだ」
 麦茶と煙草を両手にもって、仮眠用のベットに胡坐をかいた靖は憤然としてペンを動かしている千夏に詰問する。
 「答えたくありませんっ」
 「ペチャパイだから、八十もないだろう」
 「どうぞ、お好きなようにお考えください」
 相手にしない千夏。
 「オッパイは駄目だけど、ケツは安産型だよなあ」
 などと勝手に喋りつづける靖だが、千夏に無視されてムスッとして、小型テレビのナイター中継を観戦しはじめる。もちろんチラチラと千夏の横顔を盗み見ては相好を崩す助平さは忘れない。靴下を脱ぎ、指の間の水虫をボリボリとかきながら、退屈な当直の夜の慰みを味わっている。
 夜になっても気温は一向に下がらず、二日連続の熱帯夜は確実だと思われた。靖はたまらず冷蔵庫からビールを取り出してきた。当直も業務の一部なのだから、飲酒は規則違反であったが体育教師は何をやっても赦されるのが栄宮学園の常識なのである。
 「こっちへきて、酒の酌をすればノルマを免除してやってもいいぞ、千夏」
 「お断わりします」
 コップを一気に空けてもう目の縁を赤くしている靖を軽蔑したように見ながら、千夏はそっけなく断る。
 「そんなにツンツンしなくてもいいじゃねえかよ」
 靖はベットをおりて、千夏の傍らへ寄ってきた。
 「気取るほどの美人じゃあるまいし。ただちょっと、めんこい顔ではあるけどなあ。わかるか。美人とめんこい女との差?」
 千夏の耳元で囁き、臭い息を吹き掛ける。大げさにゲップまでしてみせる。
 「あっちへ行ってください。仕事ができないじゃないですか」
 「仕事ができないじゃないですかあ──」
 千夏の声色を真似て、一人でバカ笑いしながら、ひょっこりと手を伸ばして彼女の黒髪に触った。もともとは光沢があり、柔かな毛質であったが、この煉獄での軟禁生活に入ってから、痛みがひどく透明感が薄れがちの千夏の頭髪である。それでも酔い始めている靖には陶然とさせるにじゅうぶんな女の髪であった。指に絡め、弄ぶと、束ねていた部分からハラリハラリと首筋に垂れ落ちてきて、同時に汗の匂いの混じった芳しい香りがふっとたちこめるのである。その首筋からうなじにかけての線の綺麗さときたらどうだろう。形のいい耳は淫靡な視線を感じているように紅潮し、頬の赤さへとつらなっている。スベスベの頬にはまったく化粧っ気がなかったが、それはまだ十代のように瑞々しくもあり、肌理が細やかなのだ。あごのラインはあくまで女性的で、きつく結ばれた唇をいっそう印象的なものに見せている。口元、鼻の下の感じは幼さが残り、彼女の童顔の雰囲気の中心といえる。鼻筋がはっきりとした鼻は癖がなく、細めの両目も愛らしい。
 どこにあの火のような気の強さが隠されているのかと思うほどのかわいこちゃんだ。そういう思いが強まれば強まるほど、苛めてやりたくなるのがサディストの性といえる。
 靖はいきなり彼女の額に手をやり、そこへかかっている前髪を頭にもちあげて、額を露呈させた。
 「何をするんですか!」
 驚いた千夏だがビンタを恐れて睨みつけるだけだ。
 靖はといえば彼女の複雑な表情を愉快そうに眺めている。
 「お前、こうしたほうがよく見えるぞ。うん、こっちがいい。お前みたいな子供っぽい顔は額をだしたほうがいいんだ。明日からこうしてこい」
 「いやよ。離して」
 とうとう耐えきれずに手にしていた封筒を投げ捨て、靖の手を払い除けた。
 「てめえ、俺様に逆らう気か」
 靖は声を荒らげ、拳を振りあげる。はっとして身をすくめる千夏。
 「ヒヒヒ、なーんてな。殴ったりしねえからこっちへきなって」
 やおら拳を下ろし、肩を抱き寄せた。
 「仲良くやろうぜ。夜は長いんだ」
 靖の目が充血しているのに気付き、千夏は身の危険を感じた。
 「いや、いやだったら」
 「千夏ちゃーん。チュウしようぜ、チュウ──」
 靖の唇が醜く突き出された。
 千夏は必死に両手を靖の胸に突っ張って顔を遠ざけさせながら、自分も身体をねじり逃げようとする。
 「宮城先生、しっかりしてっ。酔ってるわ。いやっ、来ないでったら!」
 「酔っ払ってるわけがねえだろ。ビール一缶なんかでよ。正気だよ。正気──」
 靖は柔道三段の実力者なのだから、小柄な女などその気になればすぐにねじ伏せられるのだが、むしろ千夏の抵抗を楽しむように力をセーブしている。彼女の細い腕──ジャージの上着を腕まくりしているので、華奢な白い腕があらわだった──が渾身の力をみなぎらせて分厚い自分の胸板を押し返そうとしている様はなんとも、いたい気で、そそられる。恐怖と噴辱の混じった紅潮した女教師の表情こそ、生唾ものだ。その火照った頬っぺたに唇を密着させ、顔中、ベロベロに舐め回してやりたい欲望が、靖の身内にドクドクとわきだしてくる。
 「ほらほら、おとなしくしろ。チビなんだから俺とやりあおうなんて、無理に決まってるだろう」と、靖は千夏の両の手首を掴んだ。
 「あっ、いやっ」
 千夏は叫んだが、男の恐ろしいほどのうで力の前にはびくとも振り解けない。
 「みろ、もう捕まっちまったじゃねえか。ヒヒヒ、細っこくてスベスベした手首だぜ」
 じわじわと握り締めていく。千夏の顔が苦痛に歪んだ。指が痺れ、血がとまり、作っていた可憐な拳が無理矢理開かせられる。巨体がグンとのしかかってくると、千夏はあっという間に床に仰向けに倒された。
 靖は千夏の手を胸前で交差させ、右手を左の腋の下へ、左手を右の腋の下へ、それぞれ押しつける。狂暴な精神病患者に着せる拘束衣のような格好だ。体力に圧倒的な差がないとできない押さえこみの姿で、余計、ジャジャ馬の屈辱感を煽るのである。その表情を見下ろしながら、靖は臭い息を吹き掛け、けしかける。
 「手が不自由なら脚を使えばいいじゃねえか。思い切り蹴りあげて、キンタマを潰すんだ。しっかり致命傷を与えるようにやらんといかんぞ。中途半端じゃ、かえって男の怒りを買って、顔がメチャクチャになるくらい殴られるからよ」
 激しく藻掻いているその身体をゆっくりと巨体が下敷きにしていき、とうとう鼻と鼻が擦れあわんばかりのニアミス状態になった。
 「……あ、あなた、それでも教師なのっ」
 千夏は挑戦的な視線を靖に向けた。
 きっとレイプの恐怖に心臓は縮み上がっているのだろうに、この気丈さはやはり見上げた根性といえる。
 「フフ、吉沢先生、あんた、めんこいよ。俺が今まで抱いた女のなかでも七等賞か八等賞には入りそうだぜ、クックック」
 そういって、自分の鼻頭を千夏の嫌がる鼻頭に触れあわせる。前髪の乱れている額にキスをした。
 千夏の口から初めて女らしい悲鳴が弾けた。
 「この程度で、そんな騒ぎようじゃ、俺のオ×××ンをみたらどんな声を出すことになるんだ? ン?、千夏」
 靖は苦笑しつつ、もう一度、おでこに口付けする。汗と黒髪の味が口中に広がって、頬のゆるむ愉悦に舞い上がる。
 「レイプなんかしたら、絶対、警察に駆け込むわよ」
 「よしよし、わかったわかった」
 靖はまったく取り合わず、不精髭の生えた横面を彼女の頬に密着させ、グリグリと頬ずりだ。
 「おーっ、柔らかくて、蕩けそうな頬っぺただぜ」
 靖の陶然とした声とは逆に、千夏は不潔感一杯の顔を背けるが、この態勢ではたかがしれている。どこまでも追ってくる靖の脂ぎった顔に、すぐに密着され、チクチクとした髭の感触に鳥肌をたてるのだ。
 「あきらめて俺のモノになるか、それとも最後まで暴れてヤキを入れられるか、どっちにする。前のほうならすぐに職場復帰させてやるが、後のほうなら秋まで、いや、いつまでだってこの小部屋に閉じこめておくことも可能だ。さあ、どっちにする?」
 千夏は硬く唇を結んで靖を睨み付けた。
 「……本当にすぐに教壇に戻れるの?」
 「当たり前だぜ。自分の女をこんな惨めな環境に置いておくのは忍びないからな」
 靖は請け合った。
 「本当なのね。絶対ね?」
 千夏は絞りだすようにいう。
 「絶対だとも。悪いようにはしねえぜ。俺みたいな硬派は自分の言葉に責任をもつんだ。心配するな」
 その言葉に小さく頷くと千夏は観念したように瞳を閉じた。形のいい唇が、ふっと半開きになった。靖は生唾を嚥下し、その唇にむしゃぶりついた。力任せに押しつけられた唇だが、千夏は拒絶せずにされるまま。十字にあわせて吸い上げてくれば、かすかに鼻息を乱して赫い舌をのぞかせる。それを靖の舌が絡めとり、たっぷりと刺戟した。そして己れの唾液を泡状にし、舌を筒にしてトロリと流し込む。ねっとりと糸を引きながら千夏の緋色の口腔に落ちていくと、千夏は眉根に小皺を刻んで呑み込んでいく。その表情の色っぽさときたら、日頃の吉沢先生の童顔からはちょっと想像もできないものなのだ。
 靖は呻きつつ、発情しきって挑みかかろうとし、ふと気付いてジャージの上着を脱ぎ捨てようと上体を起こした。
 その瞬間を待っていたように、千夏は全身の力を集中させて、靖を突き飛ばした。ふいをつかれ、さしもの巨漢教師もグラリとバランスを崩した。寸でのところで足を踏張り、転倒は免れたが、千夏の気合いもろとも蹴りあげたキックが見事に股間中央へ命中すると、「ウギャ」と苦鳴を発してもんどり転がった。
 千夏はさっと飛び起き、体育教官室を駆け出そうとする。
 「き、貴様っ、このまま逃げたら首だからなっ」
 背に浴びせかけられる恫喝に千夏はひるんだが、それをふっきるように扉に体当たりして、外へ飛び出した。
 しかし暗い学校を抜け、夜の街を走り、やっと自分のアパートにたどりついてバスルームに飛び込み、全裸になって頭からシャワーを浴びると、言い知れぬ後悔が彼女の胸に沸き起こってくるのだ。靖のいうとおり、このままあの小部屋での謹慎生活を拒み続ければ、学園側はこれ幸いと千夏を解雇するだろう。それは一切の希望を断たれることを意味している。横内まゆみを発見救出し、山川教頭たちの悪事を白日の下にさらすという当初の目的はまったく泡と消えるのだ。
 (どうしよう。いったいどうすれば……)
 衝動的に靖の欲望をはねつけたのは失敗だったか。いや、と千夏は首を振った。それはどうしても耐えられない屈辱だ。あの宮城靖に抱かれるなんて、死んだって御免である。しかし強姦未遂などは密室の出来事と取り上げてもくれないだろう。彼らは一方的に千夏の非を責めてくるに違いない。ああ、本当にどうすればいいのだろうか。
 素肌にバスローブを羽織り、寝室のベッドに横たわる。うっかり目をつぶると、迫ってくる靖の顔が網膜の裏側に蘇ってきて、千夏をおののかせた。どうやら今日はろくに眠れないらしい。
 ドアの呼び鈴が彼女を驚かせた。時計をみると、それでもまだ九時を少し回ったところだが、こんな時間に訪れるのはいったい誰か。まさか靖が追い掛けてきたのでは……千夏は緊張して玄関に出る。
 「どなた?」
 「鈴木です。山川教頭も一緒です」
 早くも彼らの攻勢が開始されたのだ。
 「夜分恐れ入りますが、用件は吉沢先生がよーくご存じでしょう。事情を聞きにまいったのです」
 「ハイ……」
 こうなったらもう腹をくくるしかあるまい。当って砕けろ、だ。千夏はロックを解除した。
 「今晩は。吉沢先生──」
 ヌッと顔を現した山川教頭。そしてそのすぐ後につづいて鈴木学年主任の姿。
 「どうぞ」
 「吉沢先生、えらいことをしでかしてくれましたねえ」
 山川はズカズカと部屋にあがってきた。そしてさらに三人目の男が姿を見せた。なんとそれは宮城寛治老人ではないか。驚いている千夏に寛治は山川たちに気付かれぬように、素早くウインクをしてみせた。うまくあわせろ、といっているのだ。どうやら何かわけがあるらしい。千夏はかすかに頷き返した。
 「今夜はね。学園始まって以来の不祥事ということで、大先輩の宮城寛治先生にもこうしてご足労願ったのですよ」
 鈴木が千夏を突き刺すような視線でネメつけた。火照り気味のバスローブ姿が艶かしい。
 千夏はその視線を黙殺して言った。
 「部外者の方が同席するのは承服できませんわね。帰って戴きたいですわ」
 「たわけ者っ」寛治の一声が飛んだ。「わしは栄宮学園の相談役じゃ。不祥事があれば出向くのは当然じゃろうが」
 「吉沢先生、口に気をつけてくださいよ。寛治先生は私事を捨てて学園に尽くしていらっしゃる尊い先生なんだから。謹慎中のあなたが意見してどうするんですか。さあ、こっちへきなさい」
 鈴木は千夏をたしなめ、彼女の肩を掴んで、テーブルのほうへ連れていこうとする。
 「触らないでくださいっ。いやらしい」
 千夏は鈴木の手を払いのけ、睨みつける。
 「なるほど。靖先生が言ったように、こりゃかなりのヒステリーだ」
 鈴木の言葉に山川が含み笑いをする。寛治はそ知らぬ顔をしている。
 「……着替えてきますから少々お待ちください」
 「いいですよ。知らぬ仲じゃなし。それに時間がないんだから。さっさと済ませて我が家に帰りたいんだ、こっちは」と、山川が遮った。
 「でも、やっぱり……」
 「座れといったら座らんかあ!」
 一喝したのは意外にも寛治であった。寛治はさっと千夏のローブの襟足を捕まえて振り回すようにテーブルの椅子に座らせた。なるほど、こうまですれば二人の秘密の協調関係を山川たちに悟られないだろうと、千夏は内心思ったが、襟刳りが肌けてピンク色の胸もとが露出したのには閉口した。慌てて整え、より憎悪をリアルに見せる芝居を打つ。
 「乱暴はよしてくださいっ。女を半裸にするのが宮城一族の伝統なんですの」
 「なんだとぉ、貴様ぁ」
 寛治は殴りかかろうとしたが、山川がまあまあとなだめた。山川も鈴木もじつはおかしくて吹き出しそうになるのを必死にこらえているのである。騙しているつもりが、逆に騙されているとも知らず、芝居に興じている吉沢千夏のけなげな姿と、すっかりその気になって、いいように彼女を玩弄する寛治の狂暴さは爆笑ものなのだが、ここで笑ってしまっては元の木阿弥。胸の奥で噛み殺すしかない。
 四人はテーブルに座った。山川は咳払いをし、重々しく千夏に向って言った。
 「吉沢先生、職場放棄をなさったそうですねえ」
 「……結果的にはそうなりましたが、もちろんこれには訳があります」
 千夏は毅然として山川を見返している。横に寛治がいると思うと心強い。
 「まずは靖先生の言い分を聞いて戴きましょうか。なにしろ彼は被害者なのですから」
 「被害者ですって?」
 千夏は失笑を口元に浮かべた。
 「まあまあ、そう昂奮なさらないで。靖先生はこういっておられるのです。吉沢先生が生理のためノルマを達成できなかったので、早く帰って休んだほうがいいと諭したところ、自分は軽いほうだからまだまだ頑張れる、少しでも早く宛名書きを済ませて教壇にたちたいからと懇願するので、残業を許可したが、それは偶然、その日、当直であった自分を誘惑するための計画であったらしい。ほどなく吉沢先生の挑発行動が始まり、自分は、なにしろ勤務中でもあるし、我々は生徒に不純異性交友を諌める立場にいる聖職者なのだからと、正気に戻るよう何度も注意を喚起したが、あまりに熱心に情実を乞う姿が哀れであり、また傷つけぬように断るのに苦吟しているうち、吉沢先生はとうとう怒りだして、暴れだした。もちろん押さえつけるのは簡単であったが、密室に二人きりという状況をふまえ、また吉沢先生が嫁入り前のうら若き女性であることも勘案して、させるに任せたが、やがて自分の急所に蹴りを叩き込むと『もう二度とここへは来ない』等の捨て台詞を残して出ていってしまった──
 というのが病院で聴取した靖先生の供述なんですがねぇ」
 「病院?」千夏は聞き返す。
 「当たり前だろ。辜丸打撲で全治一週間という診断だよ」と鈴木。
 「女教師が男性教師の股間を蹴りあげるとは、まさに開学以来のチン事といえますな」
 山川はだじゃれを飛ばして笑ったが、寛治がバカモンと一喝する。
 「こんな唾棄に等しい不祥事が勃発しようとは、わしは嘆かわしくて声も出んわ。しかも被害者とはいえ、一方の当事者が実の甥ときては黙ってはおれんぞ。教頭、この始末、どうつけようというのじゃ。え?」
 「待ってください」千夏が遮った。「私の話は聞いてもらえないのですか?」
 「そんなことはない。こうしてわざわざ来ているのはそのためだよ。どうぞ、弁解してください。生理がきつかったんでしょう」
 教頭の目が淫靡だ。