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1-12-12 奉仕の実態 母娘の絆 そして・・・ 皮相のエピローグ

「失礼。退いて頂戴──」
「どうする気なの、オバサン」
同様のスキンヘッドだが、体型はそれぞれ差があるようだ。ただの肥満もいれば、筋肉質のがっしりした逆三角形もいる。とにかく見上げなくてはいけないほどの身長であるのは共通している。
「どうするって、グラウンドの彼らに用事があるんだわ」
「ここには何をしにきたの。それは済んだのかってこと」
「陸上部に案内されてきたわけだけど、どうやらグラウンドにいたみたいね。だからこちらから足を伸ばさないと。さあ早く道をあけて。急いでいるんやから」
圭が無理に通り抜けようとしても人垣はバリケードをつくり行く手を阻んだ。
「ちょっと。あなた達こそ何よ。陸上部員じゃないでしょう。関係ないわ」
「勘違いしているね、オバサン──」最も太っていると思われる男子が見下ろしていう。「たしかに直接登録しているのは陸上部の後援会なんだろうけどさ。ボランティアの対象はこの三階にあるすべての部なんだからね。ちゃんと平等に働いてもらわないと、すぐに支障が出ちゃうじゃないか。困るんだよね、そういうことじゃ」
「・・・」
どうやら彼らこそ思い違いをしているようである。彼女を清掃などを担当するボランティアと誤認しているのだ。
「人違いのようね。私はこの学校の視察に・・・」
話の途中で、圭は自分の二の腕が男子によりわしづかまれるのを目撃しなければならなかった。
「とりあえず部室へ入っておきましょ。遅刻して困るのはオバサンのほうなんだからさ」
二の腕は片方だけでなく両方が握られ、その途端、身体が浮く感覚を味わうことになった。
取り囲んでいた一団が動き始める。圭が向おうとした階段の方向とは逆の、陸上部の部室のさらに奥へである。
「・・・ちょっと何よ、離して。痛いじゃないっ」
足をバタつかせ、腕を拘束から抜きとろうともがく。
しかし苦痛を被るのはこちらばかり。
効果もまったく上がらない。
毛刈りの場へ運ばれていく小羊のように女闘士議員は柔道部の看板の下がっている部室へ連れこまれてしまった。
児島桃枝救出は?──ああこんなことをしている場合ではないのに──。
柔道部の部室は部室であって、稽古用の道場とは別物であるらしい。畳も敷かれておらず、隣の陸上部のそれと部屋の構成はほとんど一緒にみえた。
彼女は一つのパイプ椅子にどすんと落とされた。
「これまでのオバサンは、まずトイレ掃除から始めたけど、どうする? 別に順番に決まりがあるわけじゃないけどね」
だから私はボランティアじゃないって──そう抗議を続けようとした圭だったが寸前で思いとどまった。どうも彼らの様子と言動には重要な謎が含まれているような気がするのだ。
陸上部の後援会・・・例の一之瀬佑香の父親が代表を務めているというサポート組織である。甲子園に常連出場するような名門野球部ならいざしらず、高校の一課外活動に対しては異例の規模の体制が構築されている。選手の父兄だけでなく部外者にも参加を呼びかけるくらいなのだ。何とも突出した存在であるが、そこから派遣される形でボランティアが来て、陸上部のみならず他部の面倒も見る・・・『美談』? いや『河徳学園グループ特有の』というカッコ書きも見え隠れしてはいないだろうか。
志方和美もこの一員として行動させられていることを忘れてはならない。
まさにパシリ=奴隷のようにである。
ここはスキンヘッドの彼らが誤解しているのを逆手にとり、調査取材を敢行するのがベターかもしれぬ。残念ながら児島桃枝の救出はもう間に合うまい。だが衣類や下着は残されているのだから、いずれ隣の部室に戻ってはくるはず。そこを捉えることは可能なのだ。
柴山議員は頭を切り替え、慎重に言葉を選んだ。
「・・・陸上部の後援会が陸上部以外にも善意の手を差し伸べるというのはよいことだと思うわ。やっぱり・・・中西コーチの発案だったのでしょうね・・・」
中西の名を聞いた途端、屈強柔道部員達の背筋がピンと伸びた。
「いつも中西先生には正道をご指導して頂いておりますっ」
「中西先生は命令しません。中西先生はいつも大衆の側に寄り添い、大衆の自発的意思を尊重なさいますっ」
「『善意の手』?ではなくて『奉仕の手』ですよ。つまりすべてはオバサン達の意思でそうなっているわけでしょ。なので怠けるなんて有り得ない話ってわけ」
中西への支持は強烈で部の枠を超えている。おそらくこの階にある部はどこも彼の色に染まっているのだろう。
「・・・でも陸上部への奉仕が中心になるのは仕方がないわよね。陸上部の後援会なのだから。他の人・・・他のオバサンはどのくらい柔道部さんへの奉仕に時間を割くのかしら。トイレ掃除のみ、かな」
「だから大衆による奉仕なので種類や時間も大衆の心次第。わかりますね」
「ちなみに昨日のオバサンはどうでした? ちゃんと奉仕したの彼女?」
「あぁそりゃね──」ここで初めて部員達の表情が緩んだ。目尻が下がり鼻の溝が間延びする。「──チュウチュウは何でも手際よくやってくれるよ。マメだしね」
「チュウチュウって・・・」
「昨日のオバサンのニックネームだけど。奉仕への敬意だよね。オバサン呼ばわりするのもおかしいでしょ」
いい大人につけられる語感ではない気がする。敬いではなく蔑みだ。
「ああ、スズキ・ヨウコさんだっけ?」
カマをかけるような訊問。
「ちがうよ、志方和美。カズミがネズミだからチュウチュウなんじゃないか。誰だよスズキ・ヨウコって」
和美の名が出てくることについては、ある程度、予想の範囲内ではあった。桃枝からもそう聞かされていたわけだ。しかし元教師で体罰根絶運動の中心でもあった彼女が、この旧校舎の三階まで足を運び、体罰の巣のような運動部のボランティアをする・・・やはりショッキングな事実ではある。
「オバサンもすぐにつけられるぜニックネーム。奉仕が順調に何回か続けられればだけど」
ニヤつく部員に、気を取り直してさらに探りを入れてみる。
「・・・さっきグラウンドで胴上げされていたオバサンも奉仕に参加するんでしょう」
さあねと首を振る巨漢生徒達。
「やるかどうか、何をするかしないか、ぜーんぶ本人の意思尊重だから。でもまあ陸上部にあんなに歓迎されているってことは、後援会の一員として認められたんだろうから、なんかはやるんじゃないの。鉢巻きしてたのわかったでしょう、研修期間が終わればはっきりするよ」
児島桃枝が中西益雄の僕となるべく研修って・・・。
探偵社所長の仕事を休んでまで?
馬鹿げた話である。世間の常識がねじ曲げられた異次元空間のようだ。この学園は。
「おい、そろそろ時間だぞ、みんな!」
一人が咆哮をあげると全員で鬨の声のような返事をする。腹式の独特のイントネーション。部の伝統儀式のような狎れが感じられた。
すると一斉に、彼らは学生服を脱ぎだしはじめたのである。
「──っ」
驚く彼女をまったく無視して、今度はズボンのベルトを緩めていく。
「オイコラッ!」
怒鳴りつけられたのが自分であることに圭はゆっくり気がついた。
「え、私?」
「貴様以外に誰がいるっ。とっとと道着の準備を奉仕せんかぁ!」
ボランティアをしろと命令しているらしい。三十歳近く年少の彼らに顛倒した論理で面罵される口惜しさはむろんあるのだが、今はこの場を切り抜けたいという気持ちが上回っている。陸上部も帰還してくる頃だ。おそらくここで柔道着に着替え、道場へ向うのだろう。だったら早くそうさせてやればいい。
圭は椅子から腰を浮かしながらキョロキョロした。
「ええと・・・道着はと言いますと・・・?」
「ロッカーに決まっとるだろうがァ。神聖な着替えの時間を汚す気かァ、男子が修行の場へ赴くその一歩、滞りなく送りだすのが婦女子の務めじゃろうがァ!」
ガァガァガァガァ、性差別主義プロパガンダを並べ立てる高校生に指図され、圭は逆毛立つ感情をこらえながらロッカーの前に腰を屈める。
鍵はかかっていないようだった。
すぐさま開けば、部屋の空気よりもさらに濃厚な男性臭が襲いかかってきた。
タンパク臭がより勝った強烈さである。
柔道着はたしかにその下段に畳まれ、帯で結ばれ置かれている。
ロッカーにはその他にも私物が収納されていたし、小さな鏡なども吊るされている。圭は志織という娘を産んだだけで息子を授かってはいなかったが、思春期の男子の部屋と言えばこんな様子なのかもしれなかった。
鏡の横にはブロマイドと思われる女性の写真も貼り付けられていた。
下着も水着もつけていないバストショットで、小麦色の肌と肩まで届く黒髪が若々しい二十代半ばのモデルである。記憶にある女優やタレントの顔ではない。そもそも流行りの美人ではないのだが、そこにもってきて、ほとんど化粧をしておらず、しかも笑顔からは程遠いブ然とした表情なのがずいぶん異質である。
素人のモデルを素人が撮影した写真なのだろう。
日焼けを逃れたストラップの痕が両肩から胸へ続いていたが、フレームの切れ目にかかっている双乳の谷の始まりあたりまで鮮やかに白肌のラインになっている。
まるでユニホームのデザインのように・・・。
圭は息を飲んでモデルの顔を再び見た。
この顔は初めてだが、この顔に似た顔の持ち主には何度も会っていた。
とくに形の明るい鼻筋がそっくりだった。
ブロマイド写真の最下部には文字がインサートされている。

『RinRin』

モデルの芸名のようだが、これは愛称なのだ。
R高校陸上部部員が命名した奉仕女のニックネーム。
モデルの名は志方有希──この学園の教員であり志方和美の娘。
母親や桃枝からの伝聞によってのみ知識があるに過ぎないけれど、そう断定してまちがいない。
文字には日付が入っておらず、この撮影が彼女の奴隷期間のどの時期に行われたかはわからないのだが、結果として諸肌を脱ぎ、カメラの前に立ってシャッターチャンスに応じているのだから、かなり進行した時点のものと推測される。本家の陸上部ではなく他部にまで流出している事実からみても『人気』の普及は広範に浸透しているのだろう。
「コラッ、愚図愚図しないっ。俊敏に神経と筋肉を使わんかい!」
屈んでいるため必然的に丸くなっているスラックス尻を、怒声の竹刀で弾かれた。
「わかってるわかってる。慌てる男子は大物になれまへんて」
年長者の余裕で御す言葉を口にする圭。
もう一度、哀れな女教師のつぶらな瞳を見つめた後、道着の塊を持ちあげて振り向いた。
「アッ──」
ならず者が団体で来襲しても動揺一つあらわにしない女闘士だったが、目に飛びこんできた光景には黄色い叫び声をあげた。
十人以上いる巨漢の柔道部員達全員がほぼ全裸で起立していたのである。
路を作るように両サイドに分かれ向き合っている。
身につけているのは腰につけたサラシのみであった。
「・・・まさか道着を着させてくれとでも?」
「奉仕活動に要求なし! 己の誠意に忠実たれ!」
一人が圭へガンを飛ばす。その顔は厳つくはあっても幼さが残っている。
「私がここで断ったら君達どうするの」
「ちがうボランティアに連絡するだけだ。もうひとつ、ボランティアをしにきたのにボランティアを拒否したと歩亀の会に報告はする。そんなイカレた行いは反省会の対象にはなるんじゃないの」
「歩亀の会って陸上部の後援会ね。柔道部にはないの、後援会組織?」
「オバサンの御託に付き合ってる暇はないって。稽古は神聖にして不可侵。何人も我欲によってそれを妨げることを許されない。さあ、ボランティアを遂行するのかしないのか、どっちなんだ」
この暴力的な整列の中、拒絶するのは勇気がいる。タイガー・圭であればもちろん可能ではあったが、着せるだけなら妥協の範囲内ではないか。無傷で脱出し、目撃した学園の怪現象を一つひとつ分析していくべきである。
「では羽織らせてあげることはするわ。正式な着付けの作法は今度まで勉強しておくから、今回は我慢して自分達でやってよ」
「ずいぶん手抜きだな。チュウチュウはファールカップの装着まで奉仕してくれるんだぜ」
「ファールカップ?」
これだよと男子の一人が手でぶら下げて圭の鼻先へもってくる。
それは股間に履く白地のT字帯で、男性器に当る部分が強化プラスチックのカップになっていた。金的などの不測の事態に備えるための防具といえる。言うまでもなく、これを装着するということは、腰のサラシをとり男根を目と鼻の先に見なければならない。カップの位置の調整もせずにはいかないだろう。
「本当にそんなことやらせているの」
女議員の声には怒りが滲んでいる。
「やらせているのではないっ。本人の意思を尊重すればそうなる、ということだっ」
「さすがにそれは行き過ぎだわ。後援会も認めているの? 学校側は何と言っているのよ」
「モメてるって話は聞いていないけどね。第一やりたくなきゃ、今のあんたみたいに拒否れば済むんだから。まあチュウチュウほど顔色も変えずにやり終えちゃうのは少数派だけどね。あいつはシモの世話になるととくに熱心だらかなぁ」
裸の柔道部員達はそろって爆笑する。
「おい、このオバサン、どうしても奉仕の意欲が沸かないって言うんだからしょうがないぜ。ファールカップは自主装着ということで、よろしく!」
今度は全員で自主装着!自主装着!と叫びながら腰のサラシをくるくると抜きとり始めるではないか。
「ちょっと待って!」圭は狼狽して声をあげた。「私が廊下に出るまで待って!」
すでに腰を外れかかっている布から目をそらしながら圭は男子達をすり抜けて退出しようとする。
「ウブじゃあるまいし、なに慌ててんだよ」
「こっちはオバサンなんて何とも思ってないんだから気を使わなくていいんだって」
「ボランティアが余計な羞恥心をもったら活動できないじゃない、いざという時にさ」
彼女の通過を邪魔するように、肩や腰の剥きだしの肌でぶつかってくる巨漢男子。
圭は目をつぶっているが、ぶつかってくるのは肩甲骨や腰骨の堅さばかりではなかった。やや柔軟性のある短棒の先端もスラックスの太腿に押しつけられたのがわかった。その物体が何かを想像すれば、カッと頬を火照らせるのをどうしようもない。
「駄目だよ、オバサン、選手のコンディションを妨害しちゃ」
「一番やってはいけないことだぜ。反省会どころか懲罰委員会行きじゃないの」
「女子部員の生理と同様、男子部員の欲求の回数もきちんと管理されているんだからね、それを乱したとなりゃ始末書十枚くらい書かされるぜ」
肥満した彼らの身体にぶつかり、まっすぐ進めない圭。
転びそうになったところを手首を握られて引き戻される。
「・・・いい加減にしないと・・・」
語気を強めて叱るのだが、目を瞑ったままだからちっとも迫力がなく、高校生達に笑われるだけ。
「オバサンがブヨブヨのお尻でぶつかってくるものだから、ほら、ここがムけちゃってさ。オトシマエつけてくれよ」
つかまれた手首が強靭な力で下向きに引っ張られる。そのままいけばどこに付着するか、想像するだけでおぞましい。
「・・・馬鹿にしないでよ、あなた達っ・・・」
格好を構ってもいられず圭は両足を踏ん張って腕を束縛から抜きとろうと足掻いた。
しかし体重差では三倍近くあり、筋力では十倍はあるであろう、男子有段者の力にはまったく歯が立たなかった。
いよいよ彼女の腰が曲がり、いつ手の甲に何かが密着してもおかしくない角度になった。
「──いい加減にしてったらっ。犯罪ですよこれは!」
顔を背けながら少年の顔を見上げる。怒り心頭の目つきで睨んだ。
「何が犯罪なの? 測定グラフの紙が剥がれそうになってるって言ってるだけじゃないか」
「え・・・」
いつのまにか圭は壁際に連れてこられており、そこに貼られていたバイタルなどの測定値のグラフに向って掴まれた手を伸ばしていたのである。たしかにそのグラフの紙は画鋲が飛んで落ちかかっていた。
「何を期待してだんだよ、オバサン──」
大笑いする彼らの股間にはすでにファールカップが取りつけられていた。
からかわれていただけだ。
頬の火照りの代わりに頭へ血が上る。
取られていた腕をもぎとった。
「いつまでこんな裸で立たせておくんだよ。早く道着を羽織らせてくれよ」
圭の顔にめがけて畳まれた道着が放られた。
彼女はそれを払いのけるように床へ叩き落とした。
「女性を侮辱するようなあなた達のやり方にはもう我慢できません。ボランティア活動などする価値もないわ。さっそく校長先生に報告します。以上っ──」
そう言い放つと、女市議は部室を出て行ことする。
「オイコラッ、待たんかいワレ! 道着を泥にまみれさせて、ナニ逆切れしとんのじゃ! 土下座して謝らんかい!」
「それを放りだしたのは君達だよ。因縁をつけるんじゃない。チンピラ言葉で粋がらないで」
ピシャリと言ったつもりだが、部員達は完全にキレた目になって、こちらへ向ってきた。ファールカップを付けているといっても、ほとんど全裸と同じである。
圭は思わず悲鳴を発し、捕まる寸前で逃走する。
廊下にようやく飛びだしたが、ほぼ同時に部員の一人も踊り出てき、圭がキムラと上ってきた階段のある方向に立ちはだかった。さらに何人もあとに続いてくる。
圭はそちらへ戻るのを諦め、反対側へ走った。そこは行き止まりにみえるが、避難用の扉があり、非常階段があるはずだった。旧校舎だから鍵がかかっている可能性もあったが、一か八かそれにかけるしかない。今にもジャケットの襟足を掴まれそうな恐怖にせっつかれつつ全力で駆ける。
「待てっ!」
背後で誰かの大声が響き渡った。
少年の声ではなかった。
大人のしわがれたそれだ。
新たな登場人物が加わったのだろう。
もちろん圭はそれを無視して非常扉に辿り着く。
ノブを握りしめ、そのまま扉に体当たりする。
開いた──。
夕方の爽やかな空気が流れこんでくる。
鉄階段の踊り場へ逃げだし、扉を閉めつけた時、廊下の様子が見えたが、柔道部員達は追ってきてはいなかった。廊下を塞ぐようにたむろしてこちらを眺めているだけだ。
そして彼らを統率するように、彼らの前に仁王立ちしている男性がいた。
竹刀を杖にしている五分刈り頭──中西益雄!
彼の表情を読む余裕まではなく、圭はジグザグに落ちていく階段を三階から一階まで一気に駆け下りたのだった。

柴山圭が自宅にたどりついたのは、それから一時間後のことである。
さすがに事務所へ立ち寄る気分ではなかった。心身ともに疲労している。
スーツのまま居間のソファに腰を下ろし、大きく溜息をついた。
何とも消耗する一日であった。
糠に釘を打つような大村校長との面談、つねにジェンダーの琴線を刺戟してくるキムラ・タケジロウとの会話、結局のところ女性の人格を抑圧して喜んでいる少年達のスキンシップ・・・どれもストレス満載の折衝だった。
もちろん児島桃枝との異常な『再会』は圭を衝撃させる出来事だったし、志方母娘それぞれの近況を物語る暗澹とした情報も打ちのめされるに十分だ。
さてこれらをどう解決していけば良いのか。
どこかに違法性が潜んでいるはずなのだが、明白なようにみえて、どれもグレーゾーンに留まっているのがこの問題の深刻なところである。
「ママ? 灯りもつけないでどうしたのよ」
娘の志織が二階の自室から下りてきた。
指摘の通り、母親はそのまま思案に沈み、暗がりの中にたたずんでいた。
「不健康だな。いいんでしょ、つけるよ」
能動的な娘は母親の答えを聞かずにスイッチを入れた。
シーリングライトが明るい光線を部屋中に注いでくる。
「・・・志織ちゃん、帰ってたのね・・・」
ピンクのスウエットを着た志織は母親の顔を不思議そうに眺めた。
「疲れた顔面だな、ママ。目のした隈ゴロウだよ」
肩を抱くようにまとわりついてくる高校生の娘──この優しい子もさきほどの少年達と同年代なのだと思うと、これまたショッキングな現実といえた。
「ちょっと仕事が立てこんじゃったからね。あなたは皺ひとつない美人さんだからほっとするわ」
「ママね、仕事多すぎ。少し手抜きしながらやらないと過労死しちゃうよ」
「議員の仕事に手抜きは有り得ないの」
「そうだけど、たまには娘と一緒に風呂とか入って息抜きしなきゃ駄目だと思うな、私。背中流してあげるからさ」
志織のほうからそう言ってくるのは珍しいことである。よほどこの顔が情けない色を帯びていたのか、それとも母親に話したい用件でもできたのか・・・。
理由はともあれ、これは好ましい『事件』である。
二人は明るい笑い声とともに浴室の準備を始めるのだった。

清潔なユニットバスは立ち昇った湯気で充満している。
広くはない湯殿だが、二人が並んで座る余地はあった。
黒髪に巻いたタオルのおかげで、二つの女体はただ重ね餅状態の石鹸塊のようにみえる。
母も娘も色白の肌をもっていたが、湯気に蒸され、熱水に濡れ、血管の密度が濃い部分から順番に白桃色に染まりつつあった。
風呂椅子に乗せている母親の尻は、腹部へ引きつけた太腿の肉づきをそのまま保った、弛みの少ないスレンダータイプであったけれども、十代の娘のそれとはやはり違っている。志織の尻は、磨きあげられた象牙のもつ硬質の眩さに包まれている。スポーティな高さに位置する丸味ときたら、体重を狭い面積にすべて集めて座っているのに、少しも潰れない若々しい弾力をブリブリさせているのである。
今、志織は繊細な少女の二の腕で母の背中を丹念に洗っていた。成熟した女の背は、抱擁力のある曲線美をかもしだしている。そこへボディローションを塗り、泡立て、手拭でマッサージすれば、オリーブ香とエクリン汗の混じった、懐かしい母親の匂いがほんのりと移ろってくる。このままこの背に抱きついて頬ずりしたくなる衝動に駆られてしまう。政治の世界で市民のために働く母はもう自分のものばかりではないけれど、浴室の中の今は誰にも邪魔されない独占の時間だった。娘の志織にとって貴重なものなのだ。
「志織、例の刑事は来ていないでしょうね」
「ああ、刑事? 来てないよ。どうなってんのかな、捜査のほうは」
志織は偽刑事のミステリーを聞かされていなかった。下着泥だけが彼女にとっての事件である。
「電話もなし?」
「ないよ。まああれから不審事件も起きていないようだし、問題ないからいいけど」
自宅が安全なのは何よりであると圭は胸を撫でおろす。しかし油断できない情勢であるのも事実。敵は日一日と増殖している予感がする。私生活までなだれこんでくる危険性は減っていない。
「──じゃ今度はママが背中を流してあげるね」
二人は回れ右をして立場を入れ替えた。
本当に十代の身体である。
贅肉というものが1グラムもない。
肩甲骨が浮きあがっている。背骨もあえかだが腰のあたりまで筋として通っていた。
これでダイエットはしていないのだ。
大食漢といっていいほど三食きちんと平らげている。体質もあると思うが、新陳代謝が人生で最も回転する年代なのである。
親譲りの肌の美しさと言われるけれど、こうして隣に並べて比べれば質感の違いは一目瞭然だった。
火を通した脂身の白さと氷を砕いたシャーベットの白さくらいの差はある。
加齢や男性体験といった要因が残酷なまでに肉体の上にメッセージ化されている。
否定したくても否定できない女体の因果・・・。
乳房は母親よりも発達していたが、まだ無邪気に笑うだけで揺れまわるほど陰をもたない存在だった。愛情をそそぐ異性との営みを味わえば、これに媚びや淫らが加わって、淡いピンク色の乳輪が紅潮し、可憐な乳首の玉も硬輝を示す。自分の垂れた双乳のように、楕円になった乳輪のように、赤みの褪せた乳首のように、徐々に変化を遂げていく。それを成長と呼ぶか堕落と呼ぶか、どちらにしても男の作った表現に過ぎないのだけれど、娘のそうした──蛹から蝶へとジャンプする──変化の直前に来ている瞬間を目の当たりにすれば、女闘士であっても一般の母親と同様、感慨は大いに深いのだった。
「ルミちゃんとも仲良く付き合ってるの?」
明るく肯定する言葉が返ってくるのを期待して、志織の親友の名前を出したのだが、細身の全裸が急にこわばったようだ。
「・・・もち、ちゃんと付き合っているけど・・・あの子ちょっと人の良いところがあって・・・」
どうもルミコは最近、彼氏ができたようで、友人達との輪から離れ気味なのだという。通常それは祝福すべき話だったが、どうやらその彼氏というのがずいぶん年上の、遊び人風の男で、騙されている可能性があるらしい。心配した友人一同が機会をもっては説得するのだが、ルミコは完全に逆上せあがっており聞く耳をもとうとしない。
「難しいところよ、男と女の仲って」
吹きだしそうになるのを圭はこらえる。
「大事になる前にルミちゃんの親御さんに相談してみるしかないわね。あなた達が頑張ったって限界があるでしょう」
「そうだけど──」
志織が何か言いかけたとき、圭の携帯電話が鳴りだした。
「ルミコかな。取ってくるね」
バスタオルを胴部に巻いて、志織が出て行く。
顔も太腿もピカピカに火照り光っている。
携帯は居間に置いていたのだが、志織はすでに会話を始めていた。
どうやら友人ではないようだった。
保留にした匣体を圭へさしだしながら報告した。
「児島さんだって──」
「・・・」
名を聞いて表情を厳しくする圭に娘は気を使ったのか、私、上がってるね、とそのまま自室へ戻っていく。残念だが一家団欒のスキンシップは終了だ。
圭はすぐさま通話状態に戻して耳に当てた。
「児島所長?」
『・・・そうです。柴山圭議員ですね』
まちがいなく児島桃枝の声だった。
「柴山です。あなた無事? 今どこにいるの?」
『落ち着いてください。どうやら誤解が生じているようなので電話をさしあげました』
圭は浴室から洗面所へ移動し、バスタオルを身体に巻く。正面の鏡に映った上半身へわずかに視線をとめる。熟れた乳房の谷間が上気して湯気に咽んでいた。
「誤解って・・・私が高校に押し掛けたことを言っているのだったら、当然の行動だったと言わせてもらうわ。あなたがR高校陸上部のボランティアをする意味がわからへんもの。会社を放りだしてまで」
『アハハ、相変わらずの偏向ぶりですわね、柴山議員──』
桃枝は嘲笑すら響かせて驚くべき変質をあらわにした。
『最初に言っておきますけれど、会社にはすでに復帰しております。芸能レポーターのプロダクションのような会社ですが、代表が女性から男性に代われば改善される可能性もあるでしょう。ええ、私は所長の地位を辞任し、経営権を外部の同業者グループに委ねました。引き続き、調査員助手として微力を傾けていく方向で調整中です──』
「・・・」
親から受け継いだ会社を、新機軸を繰りだしてあれほど情熱深く切り盛りしていた彼女が?
圭は声を失うしかなかった。
『それはともかく、たしかに私も一時期、聞こえがいいだけの観念論に引きずられ、または古来的な家庭様式を忌避するヒッピー達の煽動に惑わされ、状況証拠の表面的な解釈に拘り、女性らしい非論理的な感情の判断から、中西先生の教育方針を一方的に貶める行動に固執していたのを認めないわけには行きません。しかし初めて先生にお会いしてすべてが変わったわけです──』
不屈の精神と経験に裏打ちされた行動力でもって活躍していた女探偵児島桃枝が、まるでカルト宗教に洗脳された信者のように、自己批判し、敵を礼賛し、まるっきり正反対の思想に転向しているのだった。あまりの変わり身ぶりに圭は桃枝が潜入調査のためそういう演技をしているのではないかと勘ぐったほどだ。
『──中西先生は海のようなお人柄でした。私の犯罪に等しい行動を、女の脳の生物学的な限界がもたらす慈しむべき誤謬と評価され、一度も非難めいた言葉を口にされませんでした。注意深く、忍耐強く、けれん味なく正々堂々と、私の麻疹のような知恵熱を覚ます処方を施してくださったのです』
「・・・信じられないわ。児島さん、あなたまでがそんな胡散臭い理屈に騙されてしまうなんて。いったい何があったというの」
しかし桃枝の声はますます活気を帯びてくる。そこには演技性など微塵も感じられなかった。
『いいえ、柴山議員の定義するレベルでの如何なる暴力も体罰も介在しない、純粋な魂のぶつかりあいとしての教育があっただけです。もちろんそれは私の自由意志によりいつでも拒否・離脱できる選択が保証されたプログラムなのです。社会的正義を盾にした個人的欲求の矛による悪辣な歪曲攻撃は、もういい加減卒業して頂きたい。あなたにも女の真っ当な役割を認識する時が来ているのではないですか』
電話でのやりとりで解凍できる洗脳の段階ではないようだった。
「今日の夕方、高校のグラウンドで胴上げされていたわよね、児島さん。あなた、どうみても悲鳴をあげていたでしょう。あれは暴力と言っていいと思うんやけど」
『柴山議員に決定的に欠落しているのは、子どもへの洞察力です。子どもを大人と同等と見なすから、悪意から出発して彼らの行動を読み誤ってしまう。大人に対してはその方がリアリティがあるからでしょうが、子どもはちがうんですよ。とくに中西コーチの薫陶を現在進行形で受けている彼らにおいては、完全な運動のコントロールが可能であるわけで、外形的に過剰にみえたとしても──私が悲鳴をあげたのは単に私が高所恐怖症だからというだけです──真実は優しさと慈愛に満ちた慰撫行動なのです。投げあげる角度、高度、回転率、すべて黄金比が弾きだされていてそれを忠実に行っているのです。緻密に計算して構築された儀式こそ集団の緊密化を初めて完成させるのです。パートナーシップを高めるハグと同質ですよ。柴山議員にもお子さんがいるようなので心配ですね。自由放任という名の育児放棄がもたらす希薄な人間関係がいかに子どもの人格形成を阻害するか、胸に手を当ててお考えになったほうがいい。志方和美・有希母娘の関係が良い例ではありませんか』
父親には職場での稼ぎを、母親には実子の品行を、理想値と比較して裁断するのが、相手の奥襟をつかんで引きずり回す簡単な方法である。
児島桃枝の口からそれを聞いて圭は眩暈すら覚える失意に屈託する。
しかし落ちこんだままではいられない。
そうだ。志方母娘の件も問い質さなければならないのだ。
「そうよ。和美さんはどうなったの。あなたはそのためにR高校に乗りこんで行ったのじゃなくて」
『だから最大の誤解こそその点なのでした。志方母娘が危機に陥っていると、志方母娘が辛酸を舐めていると、志方母娘が苦役を強要されていると、妄想ばかりが先行し、確証を揃える責務を後回しにしてしまった。いかにも女性がよくやる致命的失敗です。これだけでも私は会社の経営者として、あなたは政治家として、素養の欠如した人間であると指摘されるべきでしょう。和美さんは有希さんの非行と無能に対して、和美さんご自身の偏向人格と怠惰な性格を理由とする、母親としての責任放棄がすべての原因であることを認め、遅きに失した感はあるものの、自己啓発と自己鍛錬と平行して、有希さんの成人教育の開始を宣誓されたのです。もちろんその過程の第一弾として、母娘の二十四時間の触れ合いを可能にするため、某所において共同生活を続行しておられます。我々はその流れのほんの一部をボツボツと目撃して妄想の粘土細工をしていたに過ぎない。野次馬根性という卑小なサディズムはあっても、知的好奇心という高尚なインテリジェンスがない、女の脳の限界を克服できていなかった証拠でもあるでしょう』
話の内容もさることながら、圭は桃枝の話しぶりに奇異を感じざるを得なくなった。
何か、文章をそのまま棒読みしている印象なのだ。でなければ、小理屈とはいえ、これほど理路整然と言葉を並べ立てるのは難しいのではあるまいか。女探偵は理論派というより実践派だっただろう。
カンペ用紙があるのかもしれぬ。
それを読んでいるのか、読まされているのか、独善的な口調はどちらを意味するのか・・・やはり直接会わずには真の判定はできかねる問題だ。
『いまさら言う必要もないのですが、柴山議員の──毛を吹いて疵を求む──性質を鑑み、あえて触れておきますが、モモエ探偵社へ志方和美さんが依頼した案件は、書類整理を含めて完全に終了しました。依頼費は全額入金済みです。よって、いたずらに誤解を生じさせていた不肖児島桃枝による非公式の単独調査もピリオドが打たれたということです。関係各位にはご迷惑をおかけしましたが、今後は探偵としての志方母娘への関与は有り得ません。同様に今後は、柴山議員による情報漏洩の働きかけは、犯罪として当局へ通報いたしますので、お含み置きください』
脅迫でもする気なのか。
不肖児島桃枝・・・ひっかかる表現である。
概して古くさい言い回しに貫かれているようだ。
「・・・児島さん、誰かそばにいるの」
まともな答えが返ってくるはずがないのに、思わず尋ねてしまうのをどうしようもない。
あんのじょう桃枝の反応は人工音声のようにこちらを無視したものだった。
『──なお、R高校陸上部後援会、歩亀の会への入会をご希望の場合など、中西先生の教育理論に間近に接したいという向学精神がおありになるなら、それのみプライベートでの連絡を許可します。是非、母娘お揃いのうえご相談ください。不肖児島が誠意をもって対応させて頂きます──』
「それもいいんやけど、うちの事務所にも足を運んでもらいたいわ。前にもお話ししたように盗聴器の調査をしてもらいたいから。それは別に通報の対象ではないわよね」
電話ではもはや埒が明かぬと思い、逆に誘いをかけてみる。
言い終わらぬうちに通話が切れた。
ようやく繋がった失踪人との糸がまたしても途絶する。
あまりに呆気ない同志との別れ。
同志という関係の雲散霧消が耳骨をくすぐる携帯の無音ノイズに感じられた。
それどころか児島桃枝は柴山圭の敵になったのだ。志方母娘に引き続き、敵前敵中で踵を返し、こちらに刃を向けたのである。
正直、R高校の一件は途方に暮れるしかなかった。
オセロゲームのような駒の連続的反転現象が止まらず、見渡す限り相手の色がひしめいている。揺るがぬ大地と信じていた自分の足場がいつの間にか浮き島のように心もとないものに変質しているのだ。
これではとりあえず動きようがない。
苦い表情をした圭は匣体を閉じ、志織を呼び返した。
志織はすでにTシャツとショートパンツに着替えていて、ぽかんとバスローブ姿の母を眺めている。
「電話、終わった?」
「ええ、終わったからもう一度、入ろうよ」
「また? いいでしょ、もう。サッカー始まっちゃうよ。日本代表の試合──」
「それもいいけど、10分で終わるからさ」
引き気味の娘を何とか説得し、再び浴室へ。
今度はバスタブへ二人して入る。
折って抱えた膝小僧同士がぶつかって、湯気のたゆたう湯面が揺れる。
「志織には初めて言うんやけどね──」圭は笑みを絶やさずに続けるのだった。「──議員の家族としての心得をあなたにも言っておくわ」
「何それ」
「まあ私のような、敵が増えても自分の道を突き進むような、不器用なやり方の議員であれば、皆、注意していることよ」
「ふむふむ」
「仮に、次の三つのことが起こった時、今日このお風呂の中で私と会話したことを思いだして欲しいの。志織の場合はまだ行動はしなくていいけど、決して忘れずに思いだして欲しいわ」
志織は両手に湯をすくって指の間から流し捨て、母親の言葉に備えている。
「ひとつ目は、柴山圭が現在と意見を変えて与党会派に鞍替えした時──」
そんなことが有り得ないのは志織にだって重々わかっている。
「ふたつ目は、柴山圭が任期途中で議員を辞職すると言いだした時──」
選挙民の期待を裏切って職場を放棄することをこの母親がするわけがなかった。
母親はさらに柔和に笑っている。
「最後の三つ目は、柴山圭が自殺したと連絡が入った時──」
「・・・」
母親が何を伝えたいのか、志織にはすぐに理解できた。
その三つは母親にとってどれも選択するわけのない行動なのだ。にもかわらず、それらが起こったとしたら、その事実の裏側には異常な真相が隠されているに決まっている。
しかし信じて欲しい情報は、何らかの意図により世論を形成するために流されるマスコミや権力機構の情報ではなくて、ここでこうして交わしている母親本人との会話だ。母親の本心から語られた生の情熱なのだ。
そう母は言いたいのである。
「娘に軽蔑されたくないのよ、親ってものはね」
志織は何気なく涙を流し始める。
感動したのか、哀しくなったのか、理由の不確定な青春期特有の涙──。
ただ母親が立派に思われた。
その勇敢な精神は誇りである。
改めて言われなくてもわかっていた。
彼女がどういう覚悟をもって議員を務めていたか。娘としての照れがあって屈折した声援しか送っていなかっただけだ。直接、言葉にしてくれたので、急にその屈折が解消されたのである。
志織は泣きじゃくりながら母の胸に抱きついた。
圭も熱に染まった身体で十代の肉体を受けとめた。
母娘の抱擁は永遠の絆を確信するようにいつまでも解かれることはなかった。

・・・そんな柴山圭市議とその長女志織が失踪したのは、それから半月も経過せぬ日のことだった。


エピローグ

親族は警察に捜索願を提出し、懸命に行方を探したが、足取りはようとして掴めなかった。
市議レベルとはいえ、現職議員の失踪である。
しかも美人の母娘だ。
マスコミが連日の特集として取りあげぬはずはなかったが、意外にも事実を簡単に伝えるだけの通常版のニュースがほとんどで、やがてそれもなくなった。
わずかに、夕刊紙などが興味本位の噂を記事にしたことはある。
柴山議員の醜聞を伝えるもので、学生ボランティアを誘惑したとか、ホストクラブに入れこみ裸踊りまでしたとか、真偽の検証不能な手記や写真を証拠とした怪情報だった。
一部のネット上では、その写真を収録していたといわれる画像ファイルが大量に拡散した時期もあった。
ストリップや変態プレイに興じている、目線棒を入れられた女性の背格好が、たしかに柴山議員に似ていなくもなかったので、巨大掲示板の論調も、彼女の醜聞を既定のものとして流れたりしたのだ。
しかしそれも長続きしないまま消滅した。

失踪の日から半年後、ようやく親族に対し警察から電話がもたらされた。
柴山圭の自殺が確認されたというのだ。
ひと月前、A温泉郷の浜辺に水死体が打ちあげられているのが発見された。
傷みが激しく、身元不明のまま一週間後、「行旅病人及行旅死亡人取扱法」に基づき荼毘に付された。
だが、翌週、目撃者が名乗り出て、彼の供述により母娘共々飛び込み自殺をした事実と場所が特定されたのである。
その周辺の捜索が行われると、いくつかの遺留品が回収された。分析の結果、身元の判明に至ったわけだ。
目撃者は浮浪者で遺留品の中から金品を生活費の足しにと窃盗した負い目から出頭が遅れたという。遺留品の中には遺書らしき走り書きのメモがあり、これが自殺と断定する決め手となった。
そこにはこう書かれていた。

『恥は誤ることではなく、誤りを認めないことだ。不──(以下判別できず)』

志織の死体はどこにも見つからなかった。
不運にも沖に出る潮流にはまり、大海の中へ消えたと判断された。
なお目撃者の浮浪者だが、盗んだ金額が少額だったこと、前科がなかったこと、彼の証言がなければ事件も未解決のままだったであろうこと等が勘案され、起訴猶予として釈放された。

彼の行方も、誰も知らない。


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