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1-11-11 旧校舎部室 桃枝発見 

「モモエ探偵社所長、児島桃枝さんがここを訪れた日のことですよ」
それまで饒舌に会話していた二人だったが、この件になると一気に口が重たくなるのだった。
児島桃枝が中西益雄陸上部コーチと、この部屋で会見した事実はさすがに認めたが、その内容や雰囲気について尋ねても納得いく返答はなされない。
「その件につきましてはですね、中西コーチのプライバシーもありますので部外者には漏らすわけには参りませんな」
もちろん桃枝の行く先など知っているわけがないと声を高めて主張する。
「お聞きしたいのはこちらですよ。言いがかりに等しい彼女のクレームを、こちらとしても誠心誠意に対応したのですからね。心ない噂がもしまだあるとしたら、彼女こそそれについて払拭する責任があるはず。行方知れずなんて、本当なら雲隠れなんじゃないのですか。我々から真実を知らされて、自分の思い描いていたストーリーと、あまりにかけ離れていたものだから、良心の呵責に耐えきれず、ほとぼりが冷めるまで逐電したんでしょう。ひょっとして柴山議員のアドバイスではありませんかな」
我々からの真実とは何か? 志方和美の一件についてどのような合理的説明がなされたのか? 圭が追及しても、大村の口調に乱れは生じない。
「志方和美さんからはですね、先ほども言及しましたが、当校にご息女が奉職されている関係もあり、また教職にいた先輩として常日頃から暖かい助言を頂く良好な関係を築いておりましたよ。さらに最近では当校の体育会活動について積極的な支援を表明され、ボランティアとして働かれるという破格のご尽力をされてもおりまして、何ら問題の生じる余地はないのであります」
志方和美の居住先の住所を教えて欲しいというと、彼女との関係はすべて中西益雄氏に任せてある、なぜなら彼女はコーチ本人に私淑して陸上部の後援会に入ったのであるから、学校の管轄とはちがうのだと、煙に巻いてくる。
「キムラさん、あなたはどうなんですか。彼女の連絡先、知らないはずはないわよね」
「僕ですか。それが僕は知らないんですよ」とキムラは煙草に火をつける。
手元にあるガラス製の灰皿には数個の吸い殻が押し潰されていた。
「・・・学校内は禁煙では?」
「校長の許可があればノープロブレムですよ。学校ってそういうもんでしょ」
圭は大村を睨みつける。
「キムラ君、紳士のエチケットを忘れちゃいかんよ君。あと二、三本で終わりにしときたまえ」
校長の厚顔ぶりには徒労感を覚えるだけだ。
「・・・でも和美さんはお嬢さんと暮らしていると言っていたのよ。フィアンセの連絡先を知らないってことはないでしょう」
「僕らってね、翔んだカップルなんですよ。一般の人から見ると妙に感じられるかもしれないけど、お互いの生活を尊重するためになるべくフリーでいることにしているの。なので結婚までは当然別居だし、携帯の番号以外は教えあわないルールね。会いたい時にはこうして互いの職場を訪ねてデートになだれこむ、そんな形式にとらわれない愛を育んでいるわけです。理解しろとは言いません、感じてもらえれば結構です」
さすがに名うての結婚詐欺師だけあって、詭弁も立て板に水。名曲であればあるほど眠気を誘うとはよく言うが、そんな催眠作用がこの男の長台詞には潜んでいる。
「・・・では今、ここで有希さんと落ち合うわけよね。だったら私も立ち会わせてもらうわ。そうしたら現住所も聞けるでしょう。なぜ? 駄目ってことはない。お互いを縛らないのが二人のスタイルなんでしょう?」
畳み掛ける圭だが、キムラはヘビースモーカーとは思えない真っ白な歯を誇示しつつにこやかに寄り戻す。
「ところがそういう予定とかアポイントとかに無頓着な自由人なもんだから、いざ訪れてみると、彼女は出張とやらで学校には不在で、せっかくの恋人のランデブーも無駄足となる場合も、あっちゃうわけです。ということで今日はプライベートから仕事に切り替えて、ウチの常連さんである校長に営業を仕掛けているところなんですよ」
大村も請け負った。
「キムラ君は私が通っているスポーツジムのインストラクターでしてね。色々と相談に乗ってもらっておるんですよ。まあ、なかなかのやり手だから、他にも手広く展開しているようだけどねぇ」
二人は顔を合わせ再び大笑いだ。
「・・・大村さん、あなたも校長なのだから当校に勤務している教員の住所、調べられないわけがないでしょう。志方有希先生の記録、教えてください」
だが予想通り個人情報保護を盾に大村は拒み続ける。
「議員先生とはいえ、今は文教委員会にも所属していない柴山さんに、そこまで義理だてる理由はないはずです。視察と言われましても法的根拠が曖昧でありますし、児島桃枝の逐電と志方母娘との関連も、ひとつ納得いくものがありませんからねぇ」
余裕で表情が華やいでいる感の狸校長。
「どうしてもご協力頂けないのでしたら是非もありませんわ。中西益雄氏には直接面会を申し入れますからね。和美さんの身元引き受け人と先ほどおっしゃっていたじゃないですか。中西氏はR高校の教職員ではないわけでしょ。校長にどうこうしろという権限はない。そうですね?」
校長発の屁理屈を逆用して要求をねじこむ・・・荒療治だが格好をかまってはいられない。
しかし大村の反応は不可解なものだった。
「おっ──」と彼は唐突に呻いたのである。
「おっ、て?」
驚いて圭は校長を凝視する。
中年男の両腕は椅子の肘掛け部分を爪を立てるようにつかんで力がこめられていた。とがった顎を突きだし、奥歯をキリキリ噛み締めているようなのだった。体調の異変は動かしがたかった。
「校長、またですかぁ!」
キムラは慌てて机に駆け寄り、大村の肩を押さえる。
「またですかはこっちの台詞やわ」圭はやれやれと首を振った。
「キムラ君──」まるで断末魔の虫の息のような声で大村は言った。「私の腰はどうやら重症のようだ。これから病院へ行く。君すまんがね、柴山先生を陸上部の中西コーチのところへ案内してくれんかね。そうじゃないと議員も帰れんだろう。誤解がはっきりするようならそれはそれで良いわけであるし」
「ああ、そうですね。ちょうど中西さんにも会いたいなと思っていたところだし」
「・・・あなたも中西コーチをご存知だったの」と圭。
「へへへ、有希に散々レクチャーされましてね。彼女、コーチを崇拝してるから」
「・・・早く行きたまえ。愚図愚図していると練習が終わってしまう。この時間ならグラウンドだろ。グラウンドにいなければ、部室──陸上部の部室は旧校舎の三階だ、わかっているね。オオッ──これは効くっ」
顔も真っ赤な大村にキムラは何度も吹きだしながら、新しいお絞りを準備して、圭へ振り返った。
「それじゃまいりましょうか。エスコート役が僕で良ければ、ですがね」
白い歯を光らせて喋るのは、自分のセックスアピールだと知っての大根演技なのだろう。どんな異性に対しても己の武器の照準を合わせるジゴロの習性なのだ。
もとより断る必然性はない。
中西益雄──この怪人物に調査の矛先を向けなくてこのミステリーを解けるはずもない。
心ここにあらずの状態の大村校長を一人、部屋に残し、圭は180センチはあるだろうアロハ男とともに廊下へ出た。
「いやぁ、学校の廊下なんてのを女性と歩くと、僕なんか童心に帰っちゃうよなぁ」
「・・・」
誘惑しているわけでもないのだろうが、女の本能としての生理的な危機感が疼くようだった。むろん導きだされてくるのは寒気だけである。
「有希にもよくからかわれるけど僕は奥手でしてね。初恋も高校生ですよ。放課後のちょうどこんな時間に、片思いの子と何かの理由で残ることになって、手を握ろうとしたんだけど、できなかった・・・。セピア調の思い出です」
「別に知らなくてもいい話なんだけど」
「議員先生はやっぱりあれなのかな、ガリ勉で、風紀委員なんかをビシバシ務めていた口ですか」
「黙って歩けない? エスコートなんて必要ないんだから」
「でもそういう優等生タイプって、けっこう経験早いですよね。いやほら、志方家の女達も、二人ともなかなかの発展家ですからねえ。僕なんかもう圧倒されるばっかりで」
結婚詐欺師にかかわらず、遊び人の男性というのは自分の罪を減じるために、相手の女がいかに放蕩かを強調するものなのだ。己のだらしない下半身に良心の呵責を感じるのは児戯に等しい合理化だが、無実の女性にとっては犯罪性をもつ冒涜である。
廊下を何度か右折左折し、非常口のような扉からいったん屋外へ出た。
道は砂利で何年も手の入っていない雑木が脇に疎らに生えている。
ブルーシートをかぶせられた何かが幾つも放置され、午前中に降った驟雨の水たまりをその皺の中にためていた。
そうそう、学校の裏側というのは、どこもこう、まとまりがなく、理由のわからない寂寥感を覚える場所なのだ。
「いつまでも糞暑い年ですねぇ。ジャケットお脱ぎになったらどうです。クールビズはもう流行らないんですかね。汗をお掻きになってますよ」
「たしかにあなたは涼しそうな格好だわね」
「へへへ、これは僕のユニホームみたいなものでして、本職はマリンスポーツのほうですから」
キムラ・タケジロウは歩きながら胸やズボンのポケットを両手で順に叩いていく。
「名刺入れ、忘れてきちゃったようです──」
「自由人なんだからそんなもの必要ないでしょ」
どうせインチキな肩書きが印刷されているものでしかあるまい。
「ところでキムラさんはこの学校のご出身なの」
「いえいえ。僕はもう少し『波』に近いところの出身ですから」
「それにしてはここの道に詳しいわね。ちっとも迷わずにどんどん行くじゃない」
「フフ、これも有希仕込みです。あいつ、禁断の職場デートがお気に入りなんですよ」
「・・・」
「ああ、冗談ですよ。やだな、冗談に決まっているでしょう。大村さんだけじゃなくて中西コーチも顧客の一人なんで、よく通っているんですよ。彼はボートもやりますから。水陸両道の王者です彼は」
グラウンドへ向うのだと思ったが、すぐに建物の中に入った。
R高校旧校舎。
木造の独特の匂いがする。
木の皮の湿った匂い・・・。
さすがに色褪せ造りも古びていたが、まだじゅうぶんに使用に耐えうる状態だった。
取り壊さずに一部をサークル棟などに充てているのだろう。
キムラは踏みこむと軋む感じの階段を昇っていく。
「グラウンドは? そっちが先じゃないの」
「三階から見渡せるんですよ。グラウンドにまだ出ているようだったら僕が呼んできます。生徒の前で話すのもおかしい話題でしょう。先生はそちらで待っていてください」
三階は運動部の部室が並んでいた。
元々の教室に間仕切りをして部屋数を稼いでいるらしい。

空手部・・・ボクシング部・・・水泳部・・・レスリング部・・・

途中、廊下の窓からの一望で、陸上部がまだグラウンドにおり、練習しているのが確認された。
広いグラウンドは白線により幾つかに区切られていて、夕刻が迫る赤い日差しの中、多くの運動部員達がそれぞれの競技のトレーニングをその範囲内で励んでいるのだった。
陸上部は競技の性質上、種目ごとに各所へ散らばり、より速く、より高く、より遠くへ、自らの限界を伸ばすために取り組んでいるのがわかる。ジャージ姿の者もいたが、二の腕・太腿もあらわなユニホーム姿も多く、一目瞭然で陸上部員とわかった。
彼らの部室はレスリング部と柔道部の間にある。
中は当然、無人。
扉は簡単なダイヤル式の南京錠で閉じられている。
驚いたことにキムラはその三つのナンバーを軽々と合わせて解錠してしまった。
目を丸くしている圭へウインクをする日焼け男。
「OBみたいな顔してコーチと付き合っているもんだから、生徒達にも懐かれちゃって」
では議員はここでお待ちください、僕はひとっ走りしてきます──キムラは廊下を小走りで戻っていく。
ここで待てって・・・残された圭は若者の体臭が淀んでいる部室の内部を見渡した。
縦長でわりと広い面積に、ロッカーや机、長椅子、ホワイトボードなどが置かれている。
そういえば高校の運動部の部室など生まれて初めて目にするワンダーランドである。
学生時代は文系一筋。
信条として彼らの体質には、敵対とまではいかないものの、敬遠する気分のほうが濃かったように思う。
中に入ってみる。
・・・若い肉体から発散されるエネルギーの『すえ』が野牛の長毛のように渦巻いている感じ。
それもそのはず、ロッカーの前には合成樹脂製の脱衣籠が並んでおり、その中には衣服や下着が投げ入れられ、山のようになっているのだった。
壁には表彰状や写真が額に入れられて飾られている。トロフィーなどの陳列もある。
「──っ」
圭が思わず息を飲んだのはひときわ大きな肖像写真を、壁の最も高い位置に発見したからだった。
スポーツ刈りの頭、ゲジゲジ眉、ドングリ目、獅子鼻、大きな口・・・
中西益雄の写真ではないか。
独裁的な国家元首のそれのように、厚かましさと胡散臭さを備えた威圧感のある巨大さだ。
学園創始者でも現校長でもなく、正式な教職員でもない人物の写真をそのように祀るとは奇異な印象を受けないわけにはいかない。これでは偶像崇拝を促す洗脳装置のようなものではないか。
陸上部にとって彼は神の如き存在なのだ。
(ここまでくると、スケールが大きいのか小さいのか、滑稽を通り越して不気味ね)
他の写真もなにげに見ていく。
ふと気がついたことがあった。
集合写真──おそらく部員全員が映る──が何枚か混じっていたのだが、当然のように男女混合の構図だった。陸上部とはそういうものなのだろう。
しかしこの部室は足を踏み入れた瞬間から雄の生活臭しか感じられなかった。
十代の女性が日常的に使用していれば必ずあるであろう痕跡が皆無なのである。
そういう目で改めて部屋を見回してもどこにも発見できない。更衣室として使うなら最低あるべきカーテンや衝立も見当たらない。男性が有形無形の圧力をして女性に求めるような『女らしさ』の粉飾──活け花であるとかアップリケであるとか華やかな色合いの文具とか──そういったものもなかった。
脱衣籠を点検すれば男子物の制服が垣間見えるばかりだ。
女子の私有物はロッカーの中にあるのだろうか。さすがに鍵がかかっているだろうし、覗くわけにもいかないが、どうもそういう雰囲気はない。
するとここは男子用の部室? 女子の部室はまた別の場所にある?
あるいは女子には部室が割り当てられていない?
河徳学園系列の校風なら有り得ない話ではないが、R高はまだ独立した学校法人である。
それとも侵蝕はすでに深くまで浸透しているのだろうか・・・。
圭は靴音を静かに立てながら部屋を一周する。
──そのとき、かすかだが隣室から泣き声のようなものが聴こえてきた。
ロッカーとは反対の壁、写真の並んだほうだからレスリング部だろう。
女性の声のような気がして、圭は壁に耳を当てた。
数秒間だがたしかに女性のすすり泣きが聴こえた。
その遠くには男性の声がする。
『・・・まだちっとも・・・できていない・・・マタワリを・・・』
そんな感じの言葉だ。
叱られているのかもしれない。
レスリング部にも女子部員がいるのだろう。
体罰をしているのでなければ口を挟むこともないのだが、なぜか気がかりな心持ちを消すわけにはいかなかった。
キムタケは何を愚図愚図しているのか。
圭は廊下の窓から様子を見ようと思い、歩きかけたが、その拍子に床に置かれていた一つの脱衣籠を蹴ってしまった。
元の位置に戻そうと籠の縁に指をかけてハッとした。
その籠に積まれていたのは女性物の衣類だった。
ただひとつ、男子の籠群の中に混じってそれはある。
なぜすぐに気がつかなかったか、選り分けながら吟味してみてわかった。
それらはR高校女子の制服ではなかったのだ。
ちょっと見では男子の衣類と見分けがつかないようなツーピースのスーツだったのである。
色もグレーのビジネス用だ。
(こんなところに社会人でも・・・)
疑念にかられ、さらに調べて驚いた。
パンティやブラジャーといった下着まで脱ぎ捨てられているではないか。
CカップはあろうかというLサイズのブラは汚れが目立っている・・・そして、思わず目にしてしまったパンティの股布の部分の黄色い染み・・・。
おそらく洗濯を長期間していないにちがいない。
このスーツには覚えがあると圭は閃いた。
もちろんどこにでもあるビジネススーツだから目にしていておかしくないのだが、ずいぶん丈が短いところが特徴的である。背の低いプロポーションのための寸法なのだ。さらにこの胸のサイズ・・・。
圭は悪い予感に突き動かされるようにジャケットやブラウス、スラックスのポケットを探った。
──スラックスのポケットの底からくしゃくしゃになったレシートが取りだせた。
電池千円分。
宛先は・・・モモエ探偵社!
まちがいない。
児島桃枝がここにいた。
ここで着替えたということは、陸上部の練習に参加している!?
今まさに!?
圭は弾かれるように立ちあがり廊下へ飛びだした。
窓枠にとりついてグラウンドを見下ろした。
先ほどよりめっきり全体の人数が減っている。サッカー部も野球部も練習を終了したようだ。
帰りがけの姿も多かった。
その中でグラウンドの中央に集合している部があった。
ウエアからして陸上部だ。
ミーティングでもしているのだろうか。
(あっ、キムタケ──)
円陣を組んだ形となっている生徒達からやや離れた所、竹刀を杖にして立っている丸刈りのジャージ男とともに、例のアロハ金髪野郎が並んでいた。
急用の呼びだしにしてはノンビリと談笑している風である。
円陣の真ん中で動きが起こった。
上から注目しているとはっきりわかる。
円陣が一斉に中心点へ殺到し、生徒達の腕が真っ直ぐに伸ばされ凝集する組織化された行動──。
一人の人間を担ぎあげたのが見えた。
鉢巻きをしている。
凄く尖鋭的なユニホームを着ている。
ゼッケンがひらひらしている。
・・・小柄である・・・。
「児島所長っ。胴上げだわ!」
悲鳴のような声を女議員は発していた。
窓を開け、身を乗りだした。
胴上げは二度三度と繰り返されている。
三階からでは、表情など細かい部分はわからない。しかし体型からして女性であるのは明白であるし、数々の状況証拠から彼女が児島桃枝であるのも確実なところだった。
志方有希も志方和美もその洗礼を受けている。
冷静さの中に憤懣やるかたない心情を吐露しながら、そう自分に報告してくれた桃枝もまた高校生達によって同じ目にあわされている。
しかも同じコスチュームでだ。
そのとき、圭は巨大な影に包まれた。
同時に「オゥオゥ、やっとるやっとる──」の潰れた声。
いつのまにか隣に男子が来ていた。
学生服姿だが上二つのボタンが留まらないほどの巨漢であり、スキンヘッドでもある。
彼も窓を開け、グラウンドを見下ろしているのだった。
「──うちの陸上部の人気は凄いもんだぜ」
耳たぶが変形しているのは柔道部かレスリング部の選手の特徴だろう。目鼻が埋まるほど頬の肉が厚い。
「まったくお盛んだ」
もう一人、巨漢学生服が圭の反対側へ来ていた。二人に挟まれた格好になる。
「毎月一人増えてる勘定だよな」
彼の手の中の携帯電話は百円ライターのようにしか見えない。
しかしその携帯のカメラが望遠レンズ付きであるのを認めると、圭は彼からそれを毟りとった。
「ちょっと貸して頂戴」
男子は何か呆れた声をあげたけれど無視し、馬力溢れる四十路女は焦点を眼下のグラウンド中央へ絞りこんだ。
ファインダー画面に映しだされる胴上げの輪──。
剥きだしの四肢をX字に広げ、放りだされるたびに腰を海老形に曲げる運動を反復させられているのは、まさしく小柄な女性であった。8倍ズーム機能を最大限に追いこめば、ついにその表情も捉えられた。
「桃枝さんっ・・・」
周囲に第三者がいるのを忘れ、絶句するように呟いた。
前歯しか見えないほど大口を開け放っているので、自信は持ちにくいが、いや、彼女は児島桃枝本人であった。
相手を穏やかにさせ、ときには油断させもする、線の優しい目鼻口はどれも恐怖にひしゃげていたが、やはり本来の個性は消えていなかった。これほど上気した顔は記憶になかったけれど、女性的な柔和な輪郭はいつもの通りである。
だが女探偵の精悍さ、女所長の迫力、女盛りの溌剌とした魅力、等などは、胴上げの回数が重ねられればられるほど、何もかも台無しにされていった。
『研修中』の文字が染め抜かれた鉢巻きはずれ、眉を隠すまでに落ちているので、恥辱感一杯の戯けた図になっている。
彼女のバストのボリュームではあまりに小さすぎるユニのトップは肉丘をこれでもかと寄せて集めており、風船を押しこんだように膨らんでしまい、女性美をかえって揶揄する表現になっていた。激しい振動が与えられると、小山はユッサユサと大波を打つのである。
そのトップの生地に一点でしか繋ぎ留められていないゼッケンは数字の『1』が書きこまれていたが、乱れながら跳ね回り、愛らしく丸い彼女の臍を隠すことはなかった。
胸に負けず劣らずのパンチ力がある腰は、成熟した張りが仇となっているのを否定できない。なぜならユニ・ボトムの鋭い股布の切れこみが骨盤の広さのおかげで、さらにいっそう深くなって見え、そのために剃ったのであろう鼠蹊部の青々とした毛根が液晶画面の中にもまざまざと観察できてしまうのであった。
そんなあられもない桃枝の軽量な身体は鍛えられ統一された若者達の力によって自由自在に操られている。
非常に高く放られたかと思えば、次には回転や捻りをかけられてしまう。
時計回りや半時計回りばかりでなく、身体の裏表がひっくり返されることもある。
勢い余っての失敗というより、明らかに意図的な弄びなのだろう。
通常の胴上げなら二三度、宙に舞えば拍手喝采で〆だろうに、彼女はもう二桁の回数は打ち上げと自由落下を繰り返していた。
女探偵の屈辱感はどれほどだろうか。
肉体の苦しさはいかばかりだろうか。
彼女は同志の救出のためグラウンドへ駆けつけねばならなかった。
「──ありがとう。お返しするわ」
携帯を横の男子の胸へ押しやり、踵を返して廊下に走りだそうとする。
しかしそれは叶わなかった。
いつの間にか巨漢の男子は数が増えており、両脇ばかりか、背後にも数名が詰めていて、圭は取り囲まれていたのである。


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