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1-9-9 チュウチュウ誕生 圭 vs BCGパートナーズ そして・・・

指定されたホテルは都内の一等地にある三ツ星クラスだった。
仕事以外ではなかなか足を踏み入れない高級サイトである。
約束した時間の三十分も前にラウンジに来て、エントランスを観察可能な席に座った。
急いているわけではなかったが、できるならこの案件も今日で片がついてほしいと思う。これ以上、所長自ら会社の利益に直結しない労働を続けるわけにいかないのだ。当然、結末が志方母娘の安全と幸福の認証に至れば、それに越したことはないのだが・・・。
あの母娘二人が肩を並べて歩いてくれば、決して見落とすはずがないのに、待ち合わせ時刻を十数分過ぎた現在でもエントランスにそれらしき姿は現れなかった。
珈琲のお替わりを注文しようかと考え始めた時、明るい外光が燦々と入射してくる吹き抜け付近の、自動のガラス扉がゆっくりと開かれた。
しかしドアボーイが丁寧に招き入れたのは二人連れの客ではない。
場違いな学校の夏服姿──高校生であるのは明らかだった。
桃枝の脳裏にはその娘の名がすぐに浮かんだ。
一之瀬佑香──
偶然の遭遇でないのは彼女の行動から理解できた。
数秒の物色の後、桃枝の顔を見つけるや、真っ直ぐにこちらへ歩いてくる。
力強い歩幅がスポーツ女子のスプリントを物語っている。褐色の肌が連日のトレーニングを宣伝していた。
「探偵さんね」
立ちあがった桃枝を見下して一之瀬佑香はそう言った。
「あなたは?」
短髪の顔がにやりと笑う。
「知っているくせにさ──」
一之瀬は歩いてきたそのままの勢いで桃枝の前の席に腰を下ろし、ショルダーバッグを隣席へ投げ置いた。
「面倒だからここで済ませようよ。あっちの喫茶室のフルパ、いけるんだけどな」
口惜しそうに言いながら、お前も掛けなとばかり対面の席を指さす。
「他の人と待ち合わせ中なんだけれど」
会いたいと思っていた相手が向こうからやってきてくれたことになる。
椅子を引いて身体をいれた桃枝は一之瀬を睨みながら座った。
「ああ、チュウチュウとリンリンね。来ないよ」
「チュウチュウ? リンリン?」
「だからさっさと済ませようよ。志方母と志方娘のニックネームでしょ。カズミはネズミだからチュウチュウじゃない。有希のほうは──」
一之瀬は『かったるいわ』とばかりに首をぐるぐると回した。
「どうして来ないの」
「チュウチュウの老化現象でね、ダブルブッキングぶっこいちゃったってわけ。今日のスケジュール一杯なのに探偵さんとの約束を挟んじゃったのよね」
「それで今どこ」
「チュウチュウ? 私しらなぁい──」トボける一之瀬。「──どこかのスタジアムで昨日みたいにボランティアでしょうねぇ」
「ボランティアって、あれは一体なんなの」
やっぱり見たんだと、一之瀬の瞳が桃枝を責めるように射た。
「盗撮犯として被害届を出すべきか、検討中らしいよ」
「どこのどいつがそんな寝ぼけたことを言っているのかしら」
そもそもそのつもりなど、まったく予定にないに決まっている。証拠も皆無だし、事情聴取すらする気がなかったのだ。脅せたら儲け物、程度のジャブだろう。
「まあいいけど。じゃ、とりあえず、これ、確認してもらうから──」
一之瀬はバッグからノートを出し、ページの間に挿していた用紙をテーブルに置いた。
『誓約書』とタイトルが打たれている。
見覚えがある文面だった。

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一、私、志方和美は、R高校陸上部コーチ、中西益雄氏に対し、いわれなき嫌疑をかけ、人権侵害に等しいプライバシー調査を決行し、収集した情報を歪曲し、同氏を犯罪者扱いした事を認め、謝罪いたします。今後は前言を払拭する事に努め、同氏の人格を尊重し、業績を尊敬し、実像を啓蒙する事により、同氏の名誉を回復する事を誓います。

一、私、志方和美は、R高校陸上部の名誉を、流言蜚語をもって冒涜し、信頼を地に落とそうと画策した事を認め、謝罪いたします。今後は同部の活動を良く理解し、活動を応援し、発展に寄与することを誓います。

志方和美
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そう。これと同じものを志方和美から見せられ、アドバイスを求められたのだ。
ただ一つ、そのときの内容とちがうのは、文章の最終行に志方和美の直筆のサインがあることだった。
わざわざ人さし指でその部分をつつき、ニンマリと笑う一之瀬の小芝居がなくとも、目の前の用紙には朱肉を押した印鑑までなされている依頼人の名前があり、まざまざと目に飛びこんでくる。
こんなものには相手をするなという桃枝のアドバイスは、なんらかの経緯をたどり覆されるに至ったようである。
「──というわけで心を入れ替えたチュウチュウは、我が陸上部の援助会員となり、時間の許す限り、ボランティアの仕事に精を出しているってわけ」
「後援会の『歩亀の会』ね。あなたのお父さんが会長やってる・・・」
「へぇ、つまんないことまでよく調べてるのねぇ。きっとブログを閲覧したんだな。さすがは探偵さんだ」
「和美さんはご自宅のマンションへ帰られていないようだけど、現在、どこに住まわれているか、知らないかしら」
一之瀬は肩をすくめる。
「家なんか興味ないしぃ。母娘二人で暮らしているようだけど、こっちも青春で忙しいんだからさ」
「毎日のように部活へ参加されているの」と桃枝は食い下がる。
「リンリンのほうは我が部のアイドル顧問として、これまで通り活躍してもらってますよ。それに──」
一之瀬はノートから写真を数枚、とりだした。
「──チュウチュウのほうも新規会員ということで、このあいだ合同歓迎コンパに招待されてましたよ。現役部員も交えてね。もちろん私もいたけど」
桃枝は写真を一目見て絶句した。
数枚のうちの二枚には胴上げされている志方和美の姿が映っていたからである。
たしかに宴会場のような雰囲気の和風大広間の中、そのステージのスペースで、丸刈りのジャージ軍団に胴上げされている白ワンピース姿の女性こそ彼女にちがいない。長身のスタイルだが、十数名の男子高校生達は軽々と空中へ元女教師を放りだしていた。半袖の肩が乱れてブラジャーの紐が見え、スカート部分が持ちあがって太腿の素肌が露出してしまっている。ワンピースがそこまでラフになるくらいだから、宙に舞った回数は一度や二度では足らないはずだ。激しく荒々しく、天井にぶつかるまで高く打ち上げられているのだろう。
ふと気づいて、桃枝は探偵七つ道具の入ったバッグから拡大鏡を取りだし、写真を精査し始める。
「ドヒャ──」一之瀬が喜んでいる。「──本当に金田一先生のようなことするんだわ、オッタマゲェ!」
拡大したのは女性の顔だった。黒髪が上下動の反動で横顔を覆い尽くしていたが、引き延ばしてみると、大きく開け放った唇の形がかすかにわかった。つまり和美は大声を上げている形相なのである。おそらく恐怖を訴える悲鳴がその口から迸り出ているのではないか。もちろん大笑いしている時もこういう唇の形にはなる。一之瀬にこの事実を指摘すればそう反論するのだろう。しかし娘が胴上げ洗礼を受けたと知り、拳で机を叩いて憤慨していた和美が、自分もそれと同じ状況になって大ウケするわけもない。
これは暴力なのだ。
二枚目は体育館だった。
和美はフォーマルな衣服を着ていない。
スタジアムで目撃したあの時のユニホーム姿である。
鉢巻きもゼッケンもつけた研修中の『制服』だ。
まるで逆バンジージャンプのように、高々と数メートル、飛びあがっている。腰に巻いたロープの端を地上で誰かが握っていなかったら、危険すぎる高さである。
ヒップだけ遅れ気味に、四肢は背を丸めた身体の前へ投げだす海老の格好──。
表情はわからない角度だが、知的労働者で、大人で、上品な志方和美の物腰を思いだせば、あまりの乖離に胸が締めつけられる気分だった。
「・・・シゴキ・・・いやイジメだわ・・・」
「歪曲!歪曲! 見た目で判断するのはやめてくださいよ。深いふかーい絆があるからこそできる組体操なんだから」
「組体操って何よ」
「他の写真も見てくださーい。都合のいい情報だけ切り取って非難するのはやめてくださーい」
そう言いながら自分は猫の方向転換のようにあっさり視線を手元へ落として携帯電話を打ち始める。外見はスポーツ女子でも中身はまるで今時のギャルである。
・・・たしかに、その他の写真は絆の存在を知らしめていなくもない構図であった。

・ニキビ面の男子部員二人に並ばれて肩を組み、にっこり微笑んでいる和美の正面顔。
(ただし、三人とも例のユニホーム姿なので、絡み合っている四本の腕は異性の素肌同士で密着している。しかも両側の男子の、ニキビと髭が混在する頬は、ぴったりと知的熟女の柔らかな頬に押しつけられ、卵形の輪郭を潰すほどだった)

・複数の陸上部員による集合写真。和美も混じっており、その部分だけがワイプされたものである。リラックスした機会の撮影であるらしく、映っている数人全員が笑顔でVサインなど戯けたポーズと面相を決めている。鉢巻き頭の和美もVサインをその頭上に乗せ、舌をペロリと出して、大きな瞳でウインクを作っていた。
(しかし、数人のうち、和美だけ全身汗びっしょりなのはどうしたわけだろう。ヌメヌメと光った肌はローションを塗りこめたようである。これもまた彼女の周囲にいるのは男子部員ばかりであった。五十路直前の元教師がする表情としては、滑稽なまでに若作りであり安週刊誌のグラビア依然である)

・体育館だろうか。中西益雄コーチが椅子に腰掛けており、その左右に、対象形で彼へ最敬礼している二人のユニ姿の女性がいた。右が和美、左は・・・有希であった。二人の全身からは反発の印象など微塵も感じられず、純粋な尊敬と恭順の精神を素直に表現しているとしか思えない。絆といえばこれもまた絆である。
(とはいえ、中西コーチのほうは彼女らに一瞥もくれていない。玉座におましているかのように尊大であり、優越性を誇示しているかの体。ここでもまた有希のバストがユニ・トップの脇からハミ乳化していた。以前、探偵の証拠ビデオで目撃したときよりも、体型が丸みを帯びたように感じるのは錯覚だろうか。食欲増進による肥満というよりホルモンの活性が促す成熟、女体特有の脂が興っているようなのだ)

「これはいったい・・・」
まさか妊娠?という呟きを寸前で抑えながら、写真に目を釘づけにしたまま桃枝は一之瀬へ尋ねざるをえない。
しかし彼女はとうとう電話の相手を探しだしたようである。
「うんうん、今、目の前──聞いて驚くな、ギガ虫眼鏡で写真、調べてる──チョームカツクけど、顔はそれほどブスでもないよ──そうそう155センチないんじゃない──でも持久力は期待できそう──ガッツはあるわけだから三十秒は越えられるんじゃないの──脂肪の薄いおばさんはまさかの二秒ギブだったもんね──『ホイホイ』? ああ、あれは駄目。企画倒れもいいとこ。もっと納豆みたいになんないと──そうそう画的につまんないって──んじゃ折り返しメールするね」
一之瀬は携帯を折り畳み、テーブルの上の写真をしまいこんだ。
「これでわかった? チュウチュウもリンリンも、みんなと仲良く暮らしているんだからさ。あんたがバタバタ騒ぐから、罪もない学生までこうして迷惑被ってんの。いい加減、空気読んでよね」
敵意剥きだしの言葉だが、桃枝の表情は微動もしない。
「それじゃ最後にお聞きするけど、あなたは志方和美さんの居所を知らないとおっしゃったけれど、和美さんの元のマンションの住所はご存知よね」
「元のマンション・・・なにそれ、ご存知ないんじゃなくなくない?」
しかし傍若無人の振る舞いをほしいままにしていた女子高生の瞳の動きがやや落ち着きをなくしている。
「トボケたって無駄よ。調べはついているんだから。マンションの彼女の部屋から荷物を運びだしていたわよね。他の二人の仲間も一緒だった。一人はたぶんあなたのお兄さんでしょう。もう一人は陸上部の仲間かな。このメンツでいったい何をしていたの」
瞳ばかりでなく、首までふらついてきた。
「知らないって言ってるでしょ。わけわかんない」
「証拠だったらあるわよ。あの時、乗ってきていた車のナンバーから、車の持ち主があなたのお父様だってことがわかっている。顔の照合だって簡単よ。言い逃れはできないわ」
「・・・」
とうとう黙りこんでしまう一之瀬。
「心配しなくていい。泥棒だなんて言っているわけじゃないの。だけど泥棒でないのだったら、よほどの親しい付き合いってことになる。きっと引っ越しの手伝いをしていたのよねえ。なら、引っ越し先の住所を知らないわけがない。当然そう思うでしょう、誰だってね」
桃枝の声を張った追いこみに女子高生は飲みこまれた顔つきになる。
救いを求めるかのように四方へ視線をさまよわせたが、どうなるものでもない。
しかしその無力で幼い狼狽も、いつもの猫の方向転換によって、自分の殻に閉じこもるように携帯電話の中へ吸いこまれていった。
「ちょっと──誤摩化そうとしても無駄よ。私は物わかりのいい教育者ではなくて、社会の陰と日向を行き来しながら毎日働いている探偵なの。子どもの意表をつく行動なんかに騙されないわ。よく聞いて。あなたのブログね。引っ越しの夜の日付の記事を読むと、自宅にいたことのように書いているわよね。どうして嘘つくの。何を隠そうとしているの。すべてを話して。でないとこの件から手を引かないわよ」
一之瀬は携帯画面から目を離さぬまま、ケラケラと笑い声を上げた。
「おばさん、そんなんで私に勝ったつもりなの。オッチョコチョイぶりは志方家の母娘とどっこいどっこいじゃん」
そうして短縮ダイヤルを押せば、あっという間に繋がった相手に声を高ぶらせた。
「お早うございます!」
居住いを正し、深々と最敬礼した。
「二年次、一之瀬佑香、ご報告いたします!」
モラル無用の大声だ。世間に属さない指揮系統下に完全に追従している感じ。カルト的孤立に被虐的な自己陶酔をしている雰囲気さえ滲み出ている。
だとすれば、挨拶の相手が誰であるか、すぐに想像がつく。
中西益雄──。
玉座の男である。
「──そうでありますっ。女探偵は自らの教育権への不当妨害を棚に上げ、なおかつ、こちらの志方母娘に関する合理的な説明にいっさい耳を貸さないばかりか、歪曲した事実を基に突拍子もない持論を展開し、これに賛成しないとみるや恫喝をもって未成年者を暴圧するに及んでおります──」
今時のギャルにしては、ずいぶん古色蒼然とした言い回しである。機転が利く娘であるのはわかっていたが、ここまで言が立つのは不自然であろう。つねに準備している、訓練している台詞にちがいない。アジテーター教育でもされているのだろうか。
「──ハイ──ハイ──そういたしますっ──日にちはどういたしますかっ──ハイ──三日後の午前十時、でありますか──了解いたしましたっ──」
通話はそこで終わり、匣体はコンパクトにされた。
「これ以上、一之瀬へ質問するのはやめてくれってさ。生徒の人権とプライバシーは学校を挙げて守らなければならないからって」
「どなたがそうおっしゃったの」
「決まってるでしょう。R高陸上部のコーチ、中西益雄先生よ」
「あぁ知ってるわ。『忠誠の金メダル』をお書きになった大先生よね」
皮肉をこめて自費出版本のタイトルを口にする。
「『知ってるわ』じゃなくて『存じ上げております』でしょ。まあそのあたりの無礼な言葉遣いはおいおい躾けられるだろうけど、それはそれとして、中西先生が探偵さんにお会いになるって。三日後の午前十時、場所はR高校の校長室。すべての疑問にお答えしますと伝えてくれって。だから生徒達に動揺をもたらすような行動は、これで打ち止めにしてくださいっておっしゃられたわ。部外者にはあまり会われない先生だけど、今回は教え子に火の粉が降り掛かっているので特別に腰をお上げになされるんだ。全力で感謝しなくちゃ駄目よ」
遂に黒幕の待つ敵の本丸へ乗りこむチャンスを得たわけだ。
校長室、ということは校長も同席するのだろうか。ならば一挙両得である。学校全体の問題だと認識してくれるのなら、こちらとしても話しやすくなる。

桃枝は一之瀬佑香と別れた後、柴山圭議員の事務所へ直行した。
頼んでおいた紹介状をもらうためだ。もう会見は決定したわけだが、議員の影は有形無形に効力を発揮するはずである。それにこれまで明らかになった志方和美の現況を報告する義務もある。安否を気づかう友人として真っ先に知りたいはずだった。
あとひとつ──これはあまり考えたくない理由だが──本丸へ踏みこむ自分の決断とスケジュールを知らせておく人間はいたほうが良いという判断があった。有希と和美、同じ道をたどるように、謎の失踪のあげく劇的な転向を遂げた事実は無視できない。自分がまさかとは思うが、命綱はともかく『入山記録』くらいは最低、手を打っておいたほうが賢明といえる。
モモエ探偵社の部下達をこれに巻きこむのはしのびない。わけを話せば反対されるに決まっている。ただでさえ、所長はいつまで終了した案件を引っ張っているのだ、と非難めいた陰口が大きくなりつつあった。部下以外で、信頼できる関係者といえば柴山議員だけだろう。地方議員にしては肝っ玉が据わっているし、懐の深さも印象的である。彼女ならいざという時の有効手段を即時即応で繰りだしてくれるはずである。
──車内から何度も柴山事務所へ電話しているのだが、いずれもつながらない。
この時間、事務所に滞在しているのは確認済みである。
急用でもできたか、来客中なのか、まあ、議員なのだからそういうこともあろうかと、桃枝はそれほど案じはしなかった。
車を立体駐車場へ入れ、商店街の、あの二階のある空き店舗へ向う。
狭い階段を昇りかけて、桃枝の足が止まった。
数人の先客が踊り場と階段に列を作り、行く手を遮っていたのだ。
油虫の光沢をもつ防災服──ギャバジンだろうか──に似た上着の男女。
中高年から二十代後半までの年齢層。
全員がじっと事務所の中の物音に聞き耳を立てている様子である。
重苦しい静寂が階段下の桃枝のところまで漂い降りてくる感じ。
警察や救急隊員ではなかろう。
陳情団だろうか。
中から声がはっきりと聴こえてきた。
「・・・あんたのそういう煮え切らない態度が地域の安全をだね、危機に追いやるんですよ・・・」
男の糾弾調に続いて、それを上回る柴山圭の甲高い声がしてくる。
「・・・論点をはぐらかしていますよ。行政の腐敗を追及すると、街の治安が後退するですって? どこにそんな因果関係があるというの。聞いたこともないわ、まちがってますよ・・・」
甲高いが我を忘れる興奮まではない。議場で訓練された質疑応答をやや上回る声量だ。
「・・・盛り場における女子児童徘徊禁止条例の改正に反対しているでしょう、あんた、困るんだよ、我々が苦労して築いてきた地域平和戦略の総決算が台無しになるじゃないか、どういう料簡だ、よそ者から金もらってんだろ、アーン・・・」
「・・・あの改正案は酷すぎますよ。そもそも男子についての罰則がないし、どうして女子児童の年齢規定が22歳以下の女子となっているのよ。成人女性と中学女子が法令的に同一のカテゴリーって、ありえない女性差別やわ・・・」
陳情団ではあるのだろうが、どうやら圭と敵対する政治勢力が押し掛け、吊るし上げようとしているらしい。
「・・・あなた達、本当はそんな話なんてどうでもいいんでしょう・・・」
だがいくらか嘲笑気味に圭は言った。吊るし上げられている悲壮感はちっとも感じられない。
「・・・あれよねぇ、議長派が条例化を模索している、市街地での民間防衛への税出動、そっちが本線なんでしょう・・・」
なぜか沈黙が返された。ギャバジン隊員にも緊張が走ったようである。
「・・・図星じゃないの。馬鹿げた話もあったもんだわ。私が必ず潰してやるからね。だって、あんなの税金から用心棒代を給付するようなものだもの、愚連隊宛てに・・・」
愚連隊という単語に著しい反応が沸き起こった。
「・・・愚連隊とは何だ愚連隊とは・・・」
事務所からの声が裏返っている。
ギャバジン隊員も拳を振りあげるようにして上半身に怒気を漲らせ、叫びはじめた。
「暴言に異議あり!」
異議ありのシュプレヒコールが商店街まで流れだす。
男の声が響き渡っている。
「・・・いいか、駅前再開発にともないだ、治安の動揺が懸念される中──いいからよく聞け──どうして地域住民を防衛していこうかという議論の叩き台としてだ──黙って柴山黙って──そういった一案も当然出てくるわけだ、なんら揚げ足を取るような話ではないだろうがっ、ちがうか柴山ァ!・・・」
「・・・煙がないなら強引に火を起こそうとする輩がいるわけよね。動揺の原因とその愚連隊が地脈を通じていたらどうなるの。とんだ出来レースでしょう。そうした検証をまったくやる気もないのが議長派なんだから。どう疑われたって反論できないはずよ。表では正論に敵わないので、こうして兵隊をけしかけて脅しをかける。たいした地域平和戦略だわっ」
柴山も負けてはいないものだから騒然の事態となった。
ギャバジン隊員達は階段から扉の前へ詰め寄り、今にも事務所へなだれこみそうな勢いだ。
ここで、桃枝の脳裏にはある疑いが浮かんでいた。
男の声がどこかで聞いた記憶のあるものなのである。
玉置とかいう、志方和美のマンションの駐車場で遭遇した、あの時の忌々しい禿頭のそれにそっくりだった。
議員とのやりとりの内容も、彼が臆面もなく開陳したNPO法人『BCGパートナーズ』設立趣意と、ほとんどかぶっているではないか。
だとすれば、これには自分の出番の余地もありそうだ。
怒号渦巻く踊り場へ、桃枝は一気に駆けあがった。
胸から探偵社の身分証をとりだすと、片手にそれを掲げ、七つ道具のひとつであるホイッスルを鋭く吹き、怒号に負けぬ大声を発した。
「──道をあけなさいっ、この騒ぎは通報されますよっ、ほら道をあけて!」
前に密集する男女を一人ずつ掻き分ける。
桃枝のパフォーマンスに虚を突かれ、ほとんど無抵抗で排除されていく彼ら。
扉の前に身体を潜りこませてきた人物が、どうみても民間人であるのに気づいても、その正体をいぶかしがる余裕をとりもどす前に、彼女は素早く事務所内部へと入りこんでしまう。
そこには柴山議員を含め、四人がいた。
二人は入り口を固めるように仁王立ちしている青年ギャバジン隊員。
デスクの向こうで美貌を鬼の形相にしている議員。
そして対面している背広姿の禿げた中年男。
防災服は着ていなかったが玉置である。
「なんだぁ貴様ぁ!」
青年のうちの一人が桃枝を睨みつけて凄んだ。
「退いてくださいよ。玉置さんに用事があるの」
胸ぐらを掴んできそうな威圧感をもろともせず、桃枝は青年を睨み返した。
「ああ、所長さんじゃない!」
圭は闖入者が児島桃枝であるのを認めた。
さらに玉置も振り返り、罵声の咆哮をあげていたのを忘れ、思いもかけずに自分の名を呼んだ女へ顔を向けたままとなる。
圭は屈強のならず者達によって占拠封鎖状態の事務所──もちろん予告なしに侵入されたので手の打ちようもなかった──にひときわ小柄な彼女がたった一人で颯爽と飛びこんできたものだから、目を丸くするしかなかった。さらにならず者のリーダーである、この胆汁野郎の名を知っている意外性も発揮している。
桃枝はひと睨みで青年の息巻きを封じ、堂々とこちらへやってくる。
「柴山議員、盗聴器の調査の件なんですが──」
さらに意外な挨拶をし、圭を驚かせる。
いや、驚いたのは自分ばかりでないと彼女は察知した。目の前の玉置の挙措も明らかにぎこちなくなっている。
「え、盗聴器? ああその件ね、その件なら・・・」
「そろそろアナライザーを入れる予定ですので、その旨、ご準備頂ければと」
桃枝はそう言うと、口を開けている玉置に向って微笑んだ。
「これはこれはBCGパートナーズの玉置さんですよね。またひょんなところでお会いしましたね。いつぞやはお世話になりました」
「・・・あぁぁ、あんたはあの時の・・・」
玉置はようやく桃枝の顔を思いだしたようで苦々しい顔つきになった。
「うちの会社からの抗議文、お受けとりになられましたよね。ご回答のほうをまだ頂いておりませんが、その後、どうなってます?」
チッと舌打ちした玉置。
「いいんだよ、今はそんな話・・・」
「よくはないでしょう、あのとき言ったように、これは違法行為への抗議ですから、無視された場合はそれ相応のご覚悟をして頂かなければなりません。地域平和を守らんとするあなた達が、チンピラの如き暴行容疑で訴えられたりしたら、BもCもGも、誰もパートナーに選ばなくなるんじゃないですか」
ゲンナリ顔が広がっていく。マツリゴトの烈士として先陣を切っている最中に、つまらぬプライバシーを公開されれば、背後に勢いずくオーラの雷雲雷電など、みるみる萎んでいくものなのだ。ネガティブキャンペーンの理論である。
「・・・あんたねぇ、何でこんなところに顔を出してくるの。国家国民の大事を話しているんですよ、こっちは。興信所の調査員風情の出る幕じゃないでしょ」
「あら、BCGパートナーズさんだって同じ穴の狢だと思っていたけど」
「ところでそのBCGパートナーズって何?」と身を乗りだす圭。
「おやおや玉置さん、こちらへはちがう肩書きでいらっしゃっていたの。BCGパートナーズというのは・・・」
桃枝の解説に圭が食いついた。
「NPO法人? NPO法人の代表が特定の政治的活動をどんどんやるのは如何なものだわよね」
玉置が手を振って遮る。
「ちがうちがう、全部間違いだ。おい、モモエ探偵社、お前、いいから早く出て行けよ」
「出て行くのはそちらでは? こちらの事務所を訪れたのはアポイントメントを取っていたからで、時間通りに来たらあなた達がいた。あなた達はアポイントメント、おありになるのかしら」
桃枝がもったいぶってこちらを見るので、圭も大袈裟に首を横に振る。
「皆さん、大挙して突然やってきてくださったのよ。ノックもせずにね」
「だったら、私のほうに先約権があるんじゃないかしら。一般常識ですよ。あなた達はもういちど連絡をやりなおして、予約を入れてから大事とやらを陳情にくればいい。それが秩序ってもんだわ。ああ、もちろん女性への深夜の暴行行為の始末書は送ってもらいますよ。忘れないようにね!」
さあさあ退いた退いた、とばかりに玉置を追い立てる桃枝。
彼女の機転にすっかり手を焼いた玉置だが、多勢に無勢の強行手段で事態を鎮圧してしまおうとまでは考えなかったらしい。そもそもこの人数は威迫と通路封鎖のために連れてきたもので、武闘要員とはちがうのだろう。マツリゴトと大見得を切っている手前、それこそ傷害で告発されるヘマは冒せないのだった。
桃枝はそこらへんを見抜いていると思われる。百戦錬磨の戦術眼の持ち主だと圭は感心する。
「今日のところは矛を収めといてやるけどねぇ──」渋々腰をあげた玉置が捨て台詞。「──いいかい、この街の諸先輩方が培ってこられた古き良き伝統を蔑ろにする真似を続けるんだったら、天誅が下りますよ。大事に至る前に我々の躾を受け入れなさい。そういう助言を本日は、しにまいった次第ですわ」
女議員へ薄ら笑いとともに慇懃に礼をして、玉置は青筋を立てている二人の青年に行くぞとばかり顎をしゃくった。
帰りしな、彼は桃枝にも一瞥をくれた。
「どういう関係か知らんがねぇ、あんた柴山圭の正体、知っててここに来てるんだろうね。恐ろしい一派に繋がっているんですよ。くわばらくわばら、悪いことを言わないからすぐに縁を切りなさい。女子供の付き合える人間じゃないんだから、地域社会を滅ぼす問題因子ですよ『要駆除・外来生物』ですよ、あの女って奴は──」
「捨て台詞なんて吐けば吐くほど男の価値を下げるもの。大物は自重したほうがいいとご忠告しておくわ」
圭は桃枝のやりとりを聞いて思わず吹きだしそうになる。
生え際の真ん中から湯気を上げているような玉置達がとうとう階段へ追いだされると、無党派の女闘士はすぐさま女所長に走り寄り、肩を抱くようにして活躍を讃えた。
「助かったわ。やるもんねぇ、児島さん、パレツキーもびっくりのハードボイルドぶりやん」
「議員お一人でも撃退できたでしょうけれど、相手が玉置と知って、ちょっと頭に血が上りました」
圭はBCGパートナーズと桃枝の意外な出来事を聞き、驚いた。
「だったら、あの連中、和美さんとも関連があるということ?」
桃枝に椅子を勧め、飲み物を用意する。
「さあそれは・・・。その推理を肯定する証拠はまだ何もないのですが・・・」
「でも偶然がこうも重なるとね」
「志方和美さんについて新たな事実がわかりました。あまり明るい話でないのが残念です」
桃枝の報告はじつに瞠目すべきものであった。
「信じられないわ。あの和美さんがお嬢さんと同じ格好をしたなんて」
さらに桃枝が監禁に近い足止めを食らわされたこと、深夜の和美からの電話、今日午前中の一之瀬佑香との会話、どれも驚愕の展開だったが圭の声がとくに悲痛になったのは──
「胴上げ? 例の? そこまでお嬢さんと一緒?」
「今回は私自身の目で写真を確認しましたのでまちがいありません。そこから類推して有希さんの胴上げも真実だったと断定してよいでしょう。ご指摘のとおり、お母様はお嬢様のたどった道を再現するように追われているのです」
桃枝のポーカーフェイスを見つめながら圭はしばし言葉を失うようだった。
蜂の羽音のような扇風機の音が静寂に流れた。
小さな窓から見える曇天。
ひと雨くるのかもしれない。
ようやく圭は決心し、口を開いた。
「・・・じつは私のほうにも情報があるの。迷ったんだけど、こうなればお話しするわ。あなたをこれ以上、巻きこむのもどうかと思ったんだけどね」
桃枝は表情を変えなかった。鼻筋に汗のハイライトが光っている。今日も化粧は淡いコントラストだ。細い目はしかし聡明にキリリとしていた。
圭は失踪前の志方和美とこの事務所で会い、色々話をしたのをきっかけとして、河徳学園とR高校についてもう一度最初から調べてみることにした。市議会──おもに文教委員会を中心に、過去十年間の議事録や資料を取り寄せた。図書館へも行って、新聞や雑誌の記事にも当った。
「──すると過去にも河徳学園と市政の癒着の告発、そして河徳による学校法人買収に異議を唱えた一人の市議がいたことがわかったの」
初耳ですねと桃枝は首を傾げる。数年前、この街に越してきた彼女ならともかく、子どもの頃からの故郷である桃枝には、そんな事件がもしあれば、きっと知っているはずなのだ。
「その議員のお名前は?」
圭は無言で書類の表を桃枝へ向けた。
「──っ」
覗きこんだ彼女の目が点になるのは予想通りである。
「お恥ずかしい話、これが当市の情報公開の現実よ」
それは議会に保管されている公文書のコピーであるのだったが、柴山議員の請求に対し閲覧を許可してきた議事録のページのほとんどが墨で塗られていたのである。
「・・・真っ黒けじゃないですか・・・」
肝心な部分は、と続けながら桃枝は苦笑を浮かべた。
議事は質問者と答弁者の応答で成立するわけだが、追及を受けている答弁者の弁明は一語残らず読めるのに、追及している質問者の言葉は墨の下である。名前は身分・肩書きを除きどちらもすべて消されていた。
「これでは一般市民の耳に入らなかったとしても不思議ではありません」
読める部分だけをつなげて読めば、不正や疑惑は一切なかった、この告発は名誉毀損であり懲罰に値する、などという大合唱にしかならない。
「そうね。この委員会は非公開だったし、マスコミにも圧力がかかったらしい。有名無名の勢力がこぞって隠蔽工作に動いていた節があるから」
圭の言葉に桃枝の薄い唇がひきしまる。
「有名無名と言いますと」
「うん、わかっているのは河徳学園グループのOB連中、議会の長老派議員達、無名ってのはつかみ所がないのだけど、政財界の黒幕みたいな人間かしら。あるいは暴力団の影もちらほら見えるような気がする」
「まさか卯高組!」
桃枝はハッとして叫んでしまう。
圭は微笑みながら肩をすくめる。
「所長さんの言葉を借りれば、その推理を肯定する証拠はまだ何もない、のね」
しかしその時代からの腐れ縁とすると、わかりやすい話なのかもしれない。腐敗した政財官に闇の組織が加わったシンジケートが存在して、利権を貪るため、虎視眈々と舞台を吟味し、あるいは整えていく。それに歯向かう者はすべての触手を使って封じこめにかかるのだ。
「議員の調査権を行使した私の動きだけでも、さっそく今日のような嫌がらせを仕掛けてくる。ご苦労様なことよ」
「この──」と桃枝は墨塗りのコピーを示しながら言った。「──議員さんはその後どうなったか分かりませんか」
「いいえ。その後は、公の場でこの問題が取りあげられたことは、少なくとも議会の記録としては残っていないの」
「懲罰委員会にかけられたとか」
「なかったわ」
「その時期に任期半ばで辞職した議員さんは?」
「当然調べてみたけれど該当者はなし」
「会派はきっと無党派ですよね。あるいは野党かも」
「それなら何人かいるわけだけど、その頃からの現職さんは今や翼賛与党の一員ってのがほとんど。切り崩され懐柔されていったのね。そもそも否定もしているし、記憶にないの一点張り。普通に引退した元議員さん達も、まだ全員に連絡をとったわけではないけれど、似たような反応ばかりで真相解明には期待薄ってところだわ」
嘆息する女所長。
自分の問題のように感じているところが好印象だと圭は思った。政治的背景をとくに共有しているわけでもないのに、すっかり信頼関係が出来あがっているようなのだ。こうした友情は貴重であり強固である。
ふと訝しげに、またはやや喘ぐように、桃枝は疑問を口にする。
「その黒幕的シンジケートは、志方母娘の事件についても関連があるのでしょうか」
「この間、お話ししたように、直接は無いのじゃないかしら。ただこれだけ関係者が重なってくるとねぇ。どうなのかな」
「中西益雄の名は、まだ柴山議員の調査の中に浮かんできませんか」
「いいえ。それがあれば決まりだけど。一之瀬末広の名もチェックしておいたほうが良さそうね」
圭は作っておいた二通の紹介状を桃枝に手渡した。
「だけど児島さん、くれぐれも深追いはしないでね。かなり危険な匂いのする連中だから。ハードボイルドだからって油断しちゃ駄目よ。探偵社のほうもあるんだし」
そうですねと桃枝は微笑んでいる。笑うと童顔がよりはっきりする。これに騙されると玉置のように墓穴を掘るわけだが、味方としてはまた一段と彼女が好きになる魅力である。
「中西がどう出るか、そこのところをきっちりと見極めたいと思います」
そういう桃枝に圭は頷いて握手をした。
「報告を待ってる。そこから私がバトンをもらう番よ。今後、あなたにも協力してもらうかもしれないけど、メインで走るのは私に任せて。大丈夫。きっと志方さんも帰ってくるわ」
「ええ、了解です。盗聴器の件もちゃんと仕事をさせてもらいますから。安くしときますよ」
明るい笑い声を発しながら桃枝は丁寧にお辞儀をして事務所を出て行った。
彼女ならやるだろう。
きびきびした後ろ姿を見送りながら圭はそう確信した。

・・・そんな女探偵の消息が、その日を最後に途絶えたのである。


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