『全体目次』  『小説目次』  『本作目次』 『前へ』 『次へ』



1-8-8 和美発見 監禁サウナ部屋

夏に催される高校陸上の全国競技会は閉幕していたが、この時期、陸上の大会は毎週のようにある。市民大会から秋の国体予選、実業団や大学を交えた国内戦、アジアジュニアなど国際戦の予選等、目白押しである。
R高校陸上部も、実力上位者を中心に選手を出場させ、ぼつぼつ入賞者をだす活躍を見せていた。
他にも、腕試し程度の意味で参加したり、応援やサポートに回ったり、あるいは選手としてではなく大会役員の補佐という裏方になったり、それぞれの技量に応じて部員達は活発に活動しているのであった。
本日、児島桃枝が二人目の対象者として予定している一之瀬佑香は、大会の裏方としてあの──しばしばR高が優先使用する──スタジアムに赴いているはずである。
彼女のスケジュールは、ほぼ漏れなく彼女の個人ブログに掲載されることがわかっていた。
ネット時代の探偵は地道に足で稼ぐ情報ばかりではもはや追いつかない。ネット上の案件も多々持ちこまれるようになっている。サイバー戦力は欠かせない探偵社の売りとなっているわけだ。
ブログの発見とチェックくらいなら、他の仕事に忙殺されている所長の日々であっても出来ない相談ではない。

『佑香の愉快なアスリート女子な生活』

というのがブログのタイトル。
ほぼ一年前より開始されていた。
更新率は頻繁のほうだろう。
最低でも一週間に一件の記事がアップされている。多い時になるとアイドルのイベント並みに数時間おきの更新ということもある。とくに春夏冬の休み期間は倍加されるようだ。
内容は他愛のないスイーツレポであるとかお洒落レポであるとか、平均的な女子高生目線の話題が多いが、部活動や大会の様子等も報告されいて、タイトルに適った作りにはなっていた。
残念ながら顧問である志方有希先生への言及はいっさいなく、もちろん志方和美の名も、それを示唆する一行もない。
彼女が絶対的な崇拝を表明する中西益雄コーチの記述も抑え気味だったが、トップページのサイドバーには彼の著作『忠誠の金メダル』が紹介されており、自費出版本販売サイトへ誘導するようにリンクが張られているくらいだから、やはり心酔ぶりをうかがわせてはいた。
それを除けば、単に女子高生の私的な生活だけを切り取って世間へ提出している印象である。
プロフィールの頁にはユニホームを着た後ろ姿の写真は掲載されていたが、顔写真はなかった。ネット空間の過剰な性欲の餌食にされては困る、一般高校女子のブログでは普通の対応といえる。
コメントやトラックバックの受け付け拒否設定も同じ理由からのはず。
それでもアクセス数は相当な量だった。
R高校陸上部の公式サイト化しているからかもしれないが、一日数百件を越える訪問者数は高い数字であろう。
現役高校女子アスリートは世間を惹きつける『バッジ』なのかもしれなかった。
もっとも一之瀬佑香の競技選手としての実力は文才やWeb運営能力に比べると芳しいものではないようだった。
走り幅跳びや三種競技などが彼女の専門種目だが、試合の半数以上で予選落ちの結果となっている。最低レベルではないものの一流には程遠いランク。
ちょうどブログでも始めたくなる成績なのかもしれない。
そんな彼女だから、今回の大会は裏方へ配置されているわけである。

『オフシャルもケッコウ面白いよ。ためになるし。最後にジュースももらえるしwwww』

昨夜の更新ではそう書いている。大会の宣伝のためと称し、詳しいスケジュールを忘れずに入れてもいた。
私はだいたいこの辺で、おじさん役員にお茶をついで回っているでしょうと簡単な地図まで貼りつけている。
何事も陸上人気上昇のためというのが口癖で、こうした小さな努力がその前提なのだと強調した。
和美から聞かされている一之瀬佑香の不良的な横顔とはまるっきり反対の優等生ぶりが滲んでいる。
ちなみに、志方和美のマンションで桃枝が三人組と遭遇したあの日、ブログは更新されている。
家族や友人とすき焼きパーティをしたと綴られた記事。
更新時間は夜の十一時。
すべてを性善説で考えれば、とうていマンションへ押し入る物理的余裕はない。
しかしコンピュターの世界ではこの程度の偽装偽造はいともたやすい仕事である。
ところで一之瀬佑香の父親が陸上部後援会の会長であるという事実も、このブログで発覚したものである。
トップページのサイドバーにわざわざ後援会の紹介文がリンクされている。
『歩亀の会』
これが会の名称。ウサギとカメのイソップ童話から採用されたらしい。陸上とは逆説にみえるが、努力の継続と傲慢への諌めが本意である。
OBや在校生の父兄が中心ではあるものの、会員になるにはR高校に直接縁がなくとも、陸上ファンであるとか高校陸上部を応援してみたいとか、そういう希望があれば部外者であれ、ちっとも構わないから気軽に声をかけて欲しいという、一之瀬末広氏の文章が載っていた。佑香は彼を父親ですと紹介していた。兄の存在も記事の中にちょくちょく登場してくる。愚兄の母校もR高校なのだとあっけらかんに公開している。
ずいぶん簡単に情報が手に入ってくるのもネット時代の特徴。しかしこれらは裏の取れた情報とはやはりちがう。あくまで準採用にとどまるそれなのだ。探偵社所長は肝に銘じて怠りなかったが、〆寸前の本案件では一個一個、疑念を潰していく作業には時間を割けないので、どうしてもこうしたものに頼らざるを得ないという話である。

桃枝は柴山事務所から回した車を高速道路に走らせ、当該会場へ向った。
昨今のスタジアムは米国ボウルゲーム開催級である。巨大な夜間照明設備も東西南北に四塔、敷設されている。
関係車両の合間に車を停める。
志方有希を捕捉した駐車場とは位置がちがう。
さて、一之瀬佑香の顔を探さねばならない。
マンションでの彼女が佑香本人であったとすれば、桃枝も目撃したことになるのだが、夜に遠目で眺めただけの記憶で果たして照合できるかどうか・・・困難であるなら他の方法も検討しなければならない。
五輪では花形競技である陸上も、日常的には野球やサッカーに比較してどうしても地味な注目度である。
学生中心のこの地方競技会もご多分に漏れず、客より選手・役員の数のほうが遥かに多かった。
スタジアム周辺は競技前競技後の柔軟運動をする選手達でごった返し、湿布や膏薬、それに若々しい大量の汗の匂いが漂う中、三十路の女探偵は正門ゲートを目指す。
選手のほとんどはユニホームかジャージ姿である。そしてチケット切りやパンフレットを渡す仕事をしている高校生は制服、白ブラウスで腕に腕章を巻いているようだった。
つまりこの姿格好にだけ注目すればいいということになる。
人気の少ないスタジアムの客席に入り、持参した双眼鏡でトラック周辺を探す。
記録の係や、競技のための道具の搬出入などで、予想以上に多くの裏方がいるのに驚いた。
控え室区域にもいるだろう。これはなかなか大変な探偵業務になるかもしれない。
しかし突破口は意外なところから現れてくれた。
一之瀬佑香をまず発見したのではない。
砲丸投げのフィールドへレンズを向けた時、桃枝は声を上げそうになった。
数人の選手──肉太巨体の持ち主──達のうちの一人に見覚えがあったのだ。
三人組にいた、坊主頭の若者がユニホームを着てしきりに投擲のフォームを調整していたのである。
そのニキビの多い顔は明らかに彼だった。
彼の順番を促すコールによれば『R高校 スギシタ・テッペイ君』がその名であった。
パンフレットに記載のある種目別の参加選手リストにはたしかに『杉下鉄平』とある。
そして決勝の投擲が終了し──彼は決勝進出者で最下位──ぞろぞろと控え室に戻ろうとする選手達を先導する仕事の女子生徒へ、最大の倍率で焦点を当てた時、桃枝の眉はひきしまった。
ショートヘアに小麦色の肌、鍛えられたスリムな身体──
あの暗がりに街灯の下で視認した女子本人にまちがいなかった。
彼女が一之瀬佑香であるのはほぼ確定的だろう。投擲選手全体をフィールドからトラックへ誘導し、スタジアムスタンド直下に半地下のように埋設されている、窓を持つ控え室へ行進していく間、その女子は杉下鉄平と親しげに会話しているのであった。リラックスしたにこやかな二人の表情は、昨日今日偶然遭遇した初対面の若者のそれではない。親友、いや悪友でもあるかのような馴れ馴れしさである。
数段の階段を下りて控え室へ入っていく。
練達の探偵が事前に入手していたスタジアムの見取り図によれば、そこは、奥へ進めばスタジアムの外へ出る通路があり、左右へ進行を変えれば隣あう大会役員の溜まり場の部屋に通じる、ホールの性格を持つ場所なのだ。
ガラス窓越しなので人の動きはわかっても、塹壕のような位置関係は桃枝の座るスタンドからの視界をかなり遮ってしまう。
決勝が済めば選手達は帰るばかりとなるのだろう。
学生係員はどうか。
パンフレットで投擲競技のスケジュールを指でたどる。やはり今の砲丸投げが最後の決勝だった。
彼らのリラックスは競技や仕事の緊張からの解放を意味するものだったのだ。
係員も多少の雑事ののち、やはり帰宅の準備をする流れに変わりはあるまい。
このままここに座っていては取り逃す危険性が出てきたわけだ。
桃枝は立ちあがろうとする。スタジアムの外で一之瀬佑香を待ち伏せしよう。
「あっ──!」
今度は本当に声を発してしまった。
疎らにいた二三人の観客が振り向いたくらいである。
だが、収めようと眼窩から外しかけた双眼鏡がその端に捉えた映像は、声を上げて当然の意味を帯びていた。
桃枝は慌ててスタンドの階段をくだり、飛び降りればアンツーカーのトラックに着地する観客席の際まできて、手すりから身を乗りだして再び双眼鏡を覗いた。

志方和美がいる!

そこはホールの隣の大会役員室だ。
二十人ほどの役員がたむろしている。むろん大人ばかりであるが年齢は様々。青々とした坊主頭もいれば白髪もいる。おそらく体育会系の出身者がほとんどであるのだろう。役員の所定服である半袖ワイシャツに黒ズボンの衣裳を立派な体躯に身につけていた。
出入りの激しい、雑然とした彼らの狭間、まったく場違いな姿の女性が一人、右往左往しているのが見えたのだ。
まず鉢巻きをしている。
陸上のユニホームを着ている。
海老茶色で、上下セパレートのスプリンタータイプ。
ボトムの切れ込みが太腿の付け根から骨盤付近まで露見する鋭角的なデザイン。
トップの下縁に上辺を縫われた、布ゼッケンのはためきによって見え隠れする縦長の臍。
ゼッケンの赤数字が最初に読めた。
『500』
続いて鉢巻きの文字も判明する。
『研修中』
・・・番号がちがうだけで、志方和美から聞かされ桃枝自身も目撃した、志方有希の突飛なコスチュームそのものだ。
そして衝撃的なのは、このせつな視界に入っているあの彼女が、志方有希ではなく、彼女の母親の志方和美であるという事実であった。
双眼鏡を使い、塹壕の窓ガラス越しであっても、まちがえようがなかった。
感情を豊かに表現する大きな瞳、喜怒哀楽に縦皺が寄る鼻筋と立体感のある鼻頭、健康的な光沢を放つ朱色の唇──それらが芳麗に造作された卵形の顔ときたら、なにしろストレートボブの黒髪を後頭部で束ねられているらしく、鉢巻きのおかげもあって、何にも邪魔されることなくあらわであり、女優専用照明を直近から当てられているように錯覚するほど、大人の女性の魅力たっぷりに輝いて見えるのだった。
上背のあるスレンダーな身体つきも、ユニホームによってこれでもかと強調されている。剥きだしの手足の長さは言うまでもなく、腹部や臀部の贅肉の少なさ、胸もとの透明感など、一般の中年女性にありがちな体型の爛れなど無縁の清潔な印象を明確に晒していた。
娘の有希の場合、胸のふくよかさが仇となって、乳肉の一部がユニホームから洩れ溢れる扇情感も無視できなかったけれど、この母親の胸はそんな猥褻を象る余分な脂肪をしぶかせてはいなかった。
ただしかつてとの差異といえば、唯一、素肌の状態をあげられるだろうか。
桃枝の隣に座っていた頃の和美は、一緒に並ぶのが躊躇われるほどの白肌ぶりを見せつけていたのに、薄衣をまとっただけの今の彼女は、どこもかしこも日焼けの赤みに色づいている。おそらくそれは数日かかって小麦色に変化するのではなく、赤いままサンバーンの火照りを続けるのではないかと思われた。
その格好で和美は、むくつけき男性役員の間を、自信なげに彷徨うようなのだった。
両手に持っているのは二つの大きなヤカンである。
彼女は役員達の手にする茶碗や、机に置かれたコップに水もしくは麦茶を注いで回っているのである。
そのつど腰を直角以上にまで曲げて、深々とお辞儀する『礼勝さ』を儀式化している。
声など聴こえようもないが、どうやら大声の挨拶もしている様子だった。
部屋の隅で背伸びする動作を怠らないのは、部屋中の茶器の内容物を目測しているからだろう。
そうして空の器を発見すると、それこそ短距離選手のようにそこまでダッシュして、儀式を蒸し返すのである。
誰かが茶碗をかざして督促する場合もある。
そこへ走る志方和美。
すると決まり事のように、最も離れた真逆の位置の誰かが同じ督促をする。
それが何人も連続すれば、四十代末の元教師は部屋の中を、距離の長い反復横跳びをするように駆け走らねばならないのだった。
役員達の表情に和美への特別な意識はほとんど感じられなかった。
一般職の必然の雑用を当然の担当者へ命じる上司先輩の態度をしているまでである。
その平素さ、無関心さこそ、半裸の身の和美にとって侮辱的に映る。
昨年、中途退職した彼女においては、あの体育会系教師および教育関係者の役員達の中に、知った顔の人間がいる可能性もある。
体罰根絶に燃えていた志方先生とは、ひょっとして水と油の性質を持っていそうな彼ら──。
そうだ。
中西益雄・・・。
桃枝は双眼鏡をあちらこちらへ向けて彼の顔を探す。
スポーツ刈りで眉の太いギョロ目の鬼瓦・・・。
それらしき人物は見当たらない・・・。
いや、そんなことはとりあえず些事なのだ。
桃枝は双眼鏡を下ろし、裸眼で役員室を睨みつける。
もう一度レンズを覗き、和美の姿を捉えた。
とうてい理解に苦しむ景色。
何故あの姿で?
何故あのような真似を?
何故あの場所で?
娘のさせられていた姿──疑いと怒りの矛先だったそれ──何故、よりによってその母親までも追いかけるようにデジャブしたのか?
是非もなく女探偵は駆けつけねばならなかった。
彼女の元に。
そしてすべてを聴取し、必要ならば速やかに身柄を保護せねばならない。
それが急務である。
桃枝は双眼鏡をバッグにしまい、スタンドの出入り口へ向おうとする。
「このババァ?」
「そう。連絡を受けたのはこいつ」
「ババァが盗撮ってありかよ」
「なしっていうのも偏見じゃない」
「それを言うなら逆差別だろ」
巨漢の坊主頭四人組が桃枝の行く手を遮っていた。白ワイシャツに黒ズボン、そして腕章を付けているから、オフシャルの高校生だろう。
「どうしたというの、君たち──」
桃枝は驚いて彼らを見回す。
「おばさん、ちょっとついてきてくれる?」
「どこへ?」
「警備室」
「なぜ?」
「観客席での盗撮行為の疑いで、だね」
「盗撮? 知らないな。何かのまちがいでしょう」
「でもほら、そういう通報があったから、一応、調べないと」
「私、カメラなんて使っていないわよ。双眼鏡はたしかに使ったけど」
「使ったかどうかカメラを調べなきゃわかんないし、双眼鏡でジトジト見るのも、健全な青少年のスポーツ大会では非常識だしね。最近そういうの、厳しいんだよ。ついてきてもらったほうがいいと思うけど」
そう言いながら彼はデジカメで桃枝の顔を撮影している。
「・・・ちょっとどっちが盗撮よ・・・」
「可視化は時代の趨勢っていうぜ」
「おかしなこと言わないでよ。今、急用があって仕事に戻らなきゃならないの。疑いはわかるけど、そういう事実はないわけだから、そこを通させてもらうわよ──」
小柄な女所長は彼らの間隙からすり抜けようとする。
こんなことに手間取っている場合ではなかった。音信不通だった依頼者がすぐあそこにいるのだ。不条理な状況のただ中に囚われるようにして。
「──通させてもらうわよ」
肩先で間隙をこじ開けようとした時、二の腕を握られた。
まったく敵わない男の力に引き戻される。
「・・・何よ・・・」
坊主頭達は答えず、腕も離さない。
一人がトランシーバーを顔へ持っていった。
「──不審者一名、逃走しようとしています。指示お願いします──」
不明瞭な雑音。
「──了解。連行します──」
四人組の手分けした拘束が開始される。
バッグを肩から抜きとられ、両腕を背中へねじ曲げられ、前腕部を相撲技の『とったり』のようにキメられた。
もがこうとしても上半身はまったく動かなかった。
そのままほとんど持ちあげられるようにして運ばれ始めた。
「ちょっと、痛いわよっ」
地面にかする程度の爪先をバタつかせる。
「ババァ、暴れんなって」
「チビなんだから大人しくしときな」
「警察呼ぶことになったら嫌だろう、そっちだってさ」
連行は大股で前進する。
階段を昇り、降り、明るい屋外から暗がりへ、どんどん進んでいった。
巨漢の男子数人が囲んでおり、他の通行人から自分の姿は遮られているのだろうと桃枝は思った。だいいち観客はほとんどおらず、選手・役員ばかりである。全員が自分の敵である可能性すらある。スタンドから出てしまえばその傾向はさらに強くなる。
とにかく従うしかあるまい。
早くトラブルを収束させ、事の本線に戻らないといけない。
連行劇は唐突に終わった。
『収納 - 東B2』
と印字された鉄扉の前である。
「ここで待つように、だってさ」
「警備の責任者が来るらしいから」
扉が開けられるや、換気不足の熱気と土ぼこりの臭いが桃枝に押し寄せてきた。
背中をどんと押された。
たたらを踏んで中へ。
内部は汚れたマットレスで一杯だった。
ロール状のもの。天井まで積み重ねられたもの。
部屋自体の広さは八畳程度だろうが、そうした収納物で空間が占められている。
バッグをぶつけるように投げてよこす彼ら。
「言っておくけど、ここ、携帯は圏外だからね」
「まあ、反省をみせればさ、お説教くらいで済むんじゃないの」
ではごゆっくりお待ちください、と少年達が扉を閉じようとする。
「待って!」
桃枝は声を張りあげたが、扉の動きに逡巡はなかった。
締まると同時に室内灯が消える。
真っ暗闇だ。
外で鍵がかけられた。
彼らの足音すら聴こえないほど、壁も扉も分厚いようだった。
桃枝はバッグから小型ライトを取りだして、改めて室内の様子を探った。
完全に物置として作られているようだ。だから人間の滞在はごく短時間しか念頭にない設計なのである。マットレスの状態を見る限り、収納というよりゴミ捨て場として使われているのかもしれぬ。
立ち尽くす以外、膝を抱えて座りこむ程度の余地しか桃枝には与えられていない。
そしてこの熱気圧──
堆積した古マットが発散する湿気と発酵する汚臭に、外気の酷暑を土台にした高温が輪をかけて、暴力的な気圧をじゅくじゅくと充満させている。
呼吸をするたび自分も汚物に朽ちていきそうな気分になってくる。
ライトで天井を照らす。
マットの山に塞がれていたが、隅のほうに何とか換気扇の孔を見つけた。
しかし小さいうえに稼働音もしているようではない。
光線を扉へ戻す。
ヘアピンを挿しこめるような鍵穴もロック装置もない。
留め金すらない、扉と一体化したハンドルが付いているだけである。
──地獄のサウナ部屋に監禁されたのだ。
桃枝は電池切れに備えてライトを消す。
長時間このまま放置されるような予感がした。
でなければ、わざわざこんなところに閉じこめないだろう。
念のため携帯電話を確認しておく。
男子達の捨て台詞は脅しではなく『圏外』の文字が無情に浮かぶ。
桃枝はジャケットを脱いでブラウス姿になった。
このままでは脱水症状で気を失うかもしれない。少しでも身体を開放したほうがいいのだ。
志方和美はどうしただろうか・・・。
競技会は終わりつつあった。役員達もまもなく帰宅する。あの追従ぶりからして彼女もそのスケジュールの通りにするに決まっている。どこかへ、また消えていくのだ。
唇を噛む桃枝。
千載一遇の機会だったのに、遭遇するどころか接近も出来なかったのは、この職業の人間として痛恨の極みといえる。
それにしてもどうして彼女はあんな情況に甘んじているのか。
キムラ・タケジロウから娘を取り戻すために奔走していたはずだし、一方では暴力団追放運動も佳境にさしかかっていたはずだ。それらをすべて放りだして姿を暗ましたと思ったら、よりによってあんな所にあんな姿で・・・。
関係を想像できるものがあるとすれば、R高校陸上部からの繋がりくらいだ。
たとえば、ああしていることが、娘に近づくため、あるいは娘を取り戻すための条件だとしたら、有り得ない話ではないのかもしれない。
だが、それでもなお納得のいかない屈従ぶり・・・。
あれではパシリどころか奴隷だろう。
さらに一つ、重大な疑念がある。
自分に対する濡れ衣のこの連行監禁と、志方和美の一件に連動があるのではないか、という疑念。
和美との接触を阻止するための、意図された強行手段だとしたら、非常に大掛かりな陰謀が隠されているとしか言えなくなってくる。
桃枝がスタジアムに来る予定を事前に察知しており、その挙動の一部始終を監視していなくては成立しない陰謀である。今のところ偶然のバッデングの可能性のほうが高いように思うけれども、偶然にしてはタイミングが良すぎる展開ともいえる。こんな部屋を使用するのだって、盗撮容疑者を事情聴取するには行き過ぎだろうし──。
熱暑がどんどん桃枝の肉体を苛んできていた。
顎から滴り落ちてくる汗を何度も手の甲で拭った。
額や胸もとに汗の粒が浮かび、皮膚を流れ下るのが、はっきりとわかる。
ブラウスの背中が背筋に貼りついたまま肌と同化していた。
突然の機械音──。
天井からだ。
ライトをつけてかざす。
音源は換気扇である。
わずかだが空気の入れ替えがなされているのだ。
何分かに一度、そうなる仕組みのようである。
時計をストップウォッチにして換気時間を計測する。
わずか五分で終了した。
少しは新鮮な空気が感じられるようになったかもしれないが、焼け石に水とはこのことだった。サウナのメカニズムにすぐに熱せられ、以前よりも高温の層となって室内の底へ溜まってくる錯覚に陥る。
十五分後、再び機械音が鳴り始めた。
またしても五分間だけだ。そういうルーチンなのである。
換気は大量に設置されている収納庫を順々に回ってなされるのかもしれない。効果と省エネを両立させる最大効率の間隔の取り方なのだろう。むろんゴミに等しい無機物相手の換気法だ。生身の人間には常軌を逸した放置拷問である。
暑い・・・。
閉じこめられてから一時間が経過している。
警備員はいったい何を考えているのか。
いや、考えているのなら構わないが、ひょっとして忙しさにかまけて忘れてしまったということはない?
狭い空間に座りこんでいる桃枝は自嘲気味に笑う。
都市伝説によくある忘れられて骸骨になるオチ。
(ご愁傷様だわまったく・・・)
桃枝はずぶ濡れの水着と化しているブラウスを脱いだ。
豊満な乳房を入れたブラジャーのみに上半身はなったが、羞恥に悩んでいる余裕もない。
いちど肌をあらわにしてしまうと、下半身の、とくにパンティストッキングの存在がまったく許しがたい不快感として募ってきた。
ほどなくして女探偵はスラックスを足から抜き去り、舌打ちしながらパンストも巻きとってしまう。ブラとパンティのあられもない姿だが、この瞬間、扉が開け放たれたとしても災難だとは少しも思わず、そのまま警備員に抱きつくだろう。
冗談ではなく、桃枝はTバックにしてくれば良かったと後悔する。ブラと揃いのベージュ色のパンティはヒップを大きく包みこむ保守的なデザインだった。
この調子では全裸になるのも時間の問題である。
そうだ──
いくらか闇に慣れてきた目で天井を見上げる。
涼をとる方策がないわけではない。
あの五分間、換気扇にちょくせつ顔を密着させていれば、わずかな量の外気でも体熱を冷ます役を担ってくれるにちがいない。溺れる者は藁をもつかむではないが、この忌々しいマット──桃枝はそれを素足で蹴りあげる──の『地層』で濾過された雑巾の臭いの空気よりはずっとマシのはずである。
絶対そうに決まっている。
下着姿の桃枝は鉛筆型ライトを口に咥え、マットの山に足場を作り、よじ上り、必要ならロッククライミングの要領で腕力だけで小柄な身体を引きあげ、最後は天井との狭い隙間に身体をねじ入れて、換気口のある場所までたどりついた。
背中の素肌に付着する汚れた古マットの感触ときたら、疣蛙の皮膚を持つ痴漢の手の平のようである。
それに耐えつつ、両掌で覆えてしまうほどの面積しかない長方形の孔をまさぐった。
掌に明確にひんやりとした空気が当って桃枝を喜ばせた。
そろそろあの五分が始まるはずだ。
強引に顔をそこへ持っていく。機械で計測すればそれでも30°Cの外気ではあるだろうが、体感、この室内の温度と10°Cは低い涼味が大型犬の呼気ほど排出されている。
待望の五分がスタートすると、桃枝は激しく咳きこんだ。
風は予想通り涼しく、かなりの勢いで顔面へ吹きつけてきたのだが、周囲に溜まった細かな粉塵が舞いあがり、呼吸を困難にするほど振りかかってきたのだ。
顔も頭髪も汚れまくっているだろう。
砂漠とジャングルの過酷な部分を選抜したような劣悪な環境。
それでもひと心地はつけた。寿命が一時間は延びた気分。
粉塵も落ち着き、ようやく深呼吸を二回ほど試すことができた。
そこで五分は終わってしまったが、また十五分後には繰り返されるのだと思えば、身体的にはもちろん、より精神的にこそ有効打である。生きる希望が行動のきっかけになるではないか。
このまま仮眠でもとろうかと上機嫌で考えた矢先、ぼんやりとした眼差しに何かが捉えられた。
凝視──。
落書き?
換気扇の枠の周囲に、小さな文字列がある。
慌ててライトを点灯する。
yyyy.mmmm.dddd の日付、そして、人名。
そのパターンで幾人か、つづいている。
女性の名ばかりだ。
漢字もあれば、ひらがな、カタカナもあった。
筆跡が乱れており、判別できない文字も含まれている。
すべてを同一人物が書いたのではないのだ。日付ごとに別人物が次々と書き連ねていった可能性が強い。
桃枝の目がギョッと開かれる。
七人目の人名──『山室沙耶香』──
そして最後の八人目──
『志方有希』
日付は『山室沙耶香』がほぼ一年前。『志方有希』が三ヶ月前だった。
桃枝は何度も文字列を読み返す。
おそらくここに書かれた名前は、全員R高校陸上部部員だろう。この部屋は部の懲罰室として代々使用されているのだ。何らかの理由でここに閉じこめられた反抗生徒の人名簿なのである。
暗闇の熱獄で孤立する彼女達がとった行動は、まさしく女探偵と共通するものだったのだ。少しでも熱から逃れようと方法を模索し、たどりついた結論は結局みな一つ、換気扇に顔を密着させる、だった。
その事実を記録しようと決心した最初の子は──苗字は擦れて消え、名も最後の文字が『み』と読める程度だが──立派である。
毎年恒例にされる懲罰の歴史を後世・後輩に伝えるため、工夫して落書きをした。こうして鼻面が突き合うほどの近さでも、うっかりすると結露のシミであるとか換気扇の模様であるとかに見間違えそうだから、床から見上げるだけではまったく気づくまい。だから被監禁者がここまでくることはあっても、監禁者がこの文字を摘発することはないと確信したのである。おかげで反逆の記帳は何年も積み重ねられている。この文字を発見した後輩達がどれほど勇気をもらったか、想像するに難くない。三十六歳の自分でもじゅうぶんに気力を充電させてもらっているくらいだから。
ただし『志方有希』の名は複雑な感情をもたらさずにはおかなかった。
自分より十歳は若い元気印の女教師が、ひょっとすると下着姿でのたうち回っていたのだ。
彼女は生徒でなく教師、それも部の顧問という立場である。何とも無惨な転落を現実にした理由は何だったのか。こちらは少しも想像できなかった。
有希といい和美といい、志方母娘に起こっている熾烈な悲劇──
もはや一介の探偵などに手に負える種類のものではないのかもしれないと桃枝の脳裏に暗い影がよぎっていく。
ライトを消し、総身をくねらせながら天井との隙間から抜けだし、床へ降りてバッグからペンをとりだした。元に戻ると、再び始まった五分間の換気を酸素吸入のように回復剤にして、桃枝は自分の名と日付を書きこんでいった。
R高校陸上部とは何者だ。
公共のスタジアムにこのような私的な懲罰室を設けているとは。
キムラ・タケジロウなどより、ずっと脅威の存在なのか。
高校自体も、柴山圭議員によればこの街の政界に隠然としたコネクションを持っているらしいが。
謎は一つも解決されず、疑惑は積乱雲のように湧くばかり。
しかし桃枝はこれまでの苦闘によって満杯となった疲労物質ダムからの睡魔に、しだいに巻きこまれていくようだった。
これは厄難からワープするためのコールドスリープよ──
そう自分に言い聞かせ、古マットに女体の汗を染みこませるようにして、仮眠に落ちこむのであった。

コールドスリープは扉を解錠する原始的な金属音によって解除された。
桃枝は天井に頭をぶつけて目覚め、事態を察すると、飛び降りるようにして床へ戻った。
スラックスに足を通しきる前に、扉は大きく開かれた。
室内灯も点いたが、懐中電灯も汚れきった半裸の肉体を照らしだした。
ムチムチと発達した下半身が脂肪の芯から湧出させたリットル規模の生汗を、繊維に吸ったパンティこそ色を失っており、恥丘の地肌に密生する体毛の黒々さを、一瞬、明光の輪の中央にあからさまにした。
スラックスはすぐにウエストまで引きあげられたが、同じく乳頭の濃さと勃起を透かせる胸のブラジャーは後回しになっており、横着な視姦に無防備なままだった。
その目の持ち主は、警帽をかぶり、制服を着こんだ中年男だった。
「ここで何をやってんだ、お前──」
これまでの事情をまったく無視するかのように、警備員は桃枝を詰問した。
ブラウスのボタンを閉じ、ジャケットを羽織った女探偵は、床に転がっていたストッキングの丸鞠を捨て鉢に拾いあげ、バッグへねじこんだ。
「聞いてないの」
桃枝は挑戦的に警備員を睨みあげ、廊下へ出る。
「女の浮浪者がここに入りこんでいると通報があったんだ」
「いつ? 誰から?」
予想に反した強気の態度に、訛のある警備員は一気に萎縮してしまう。
「・・・電話があったんで飛んできたさ。怠けてなんかいねえよ」
自分を監禁した昼間のサデスティックな集団と、この人の良い施設夜警員は無関係なのだろうと桃枝は合点する。
やはり監禁は盗撮の処罰などではなく志方和美からの隔離が目的だっのだ。
「名前を告げなかったでしょう、その電話?」
急に落ち着きをなくして頷く警備員。
警備執務規則は担当時間内に起こった異常事態の顛末を仔細まで正確に記述し報告する義務を負わせている。そうでなければ警備員自身が疑われる最初の人間になってしまう。彼にとっては最悪の展開だ。
「ひとつ言えることは──」と桃枝。「──今夜のこれをなかったことにするのは可能だってことよ」
ちょっと男好きのする顔と身体のチビ女は、頭髪こそボサボサだったが、たしかに浮浪者とは思えない身なりと風格を持っている。
「名乗らない電話なんてそもそも騒動を望んではいないのだし、被害者である私も表沙汰にする気なんかゼロだわ」
桃枝は財布から千円札を数枚出して彼のポケットへ押しこんだ。
「それに私のストリップ、見たわよね」
それがトドメとなり警備員は桃枝をすんなり駐車場へ先導した。車が公道に乗るまで、懐中電灯で通路を照らし、ゲートを開けるかいがいしさだった。可哀想だが世知に長けた探偵としての桃枝の敵ではなかった。

自宅のマンションへ戻ると、時計の針はもうすぐ新しい日にかわる深夜にかかっていた。
探偵稼業は長いが、これほどハードな一日も稀である。『事件』の検証と整理が必要だったが、まずはシャワーを浴びるのが優先だ。全身に掻いた汗に粉塵がこびりついている。肌は汚れ、痣も幾つもできた。
またたくまに全裸になった児島桃枝は浴室へ飛びこんだ。
暖かい清潔なシャワーを頭からかぶる。
スタイリングなどおかまいなしに両手で黒髪を掻きまわす。
鋭い噴出力の水流が肌を突き刺してくる。
まだまだ若い女探偵の肉体。
着衣時の雰囲気どおり、腰幅に勝るとも劣らない肩幅が立派だった。
見事に実った双乳は、サイズを値切っているブラジャーの補整から解放されても、胸の高い位置で前方に突きでていた。勝ち気で強靭な精神力を表しているのかいないのか、乳輪は小さいのに乳首の形は鮮やかに尖っており、色素は薄めだが色味は桃色からは程遠い浅黒さだった。
くびれたウエストの臍窩の丸さが愛らしい。
さすがに本日の、強ストレスの十数時間は、三十路半ばの熟れた皮膚には大敵で、朝にはなかった吹き出物の発症を促してしまった。
頬以外にも、たとえばクリクリと引き締まった双臀の、右の尻肉には小豆大の汗疹が二つできているし、左の太腿の内側にも同様の肌荒れが見られるのだった。
痒みのともなう患部へ集中的にシャワーをあてると、柔らかく引っ掻かれる刺激が全身を走り、桃枝は思わず口を半開きにしたまま、ほとんど目をつぶった。
頭髪とともに、汗に濡れそぼって縮れてしまった陰毛は、逆三角形型に大きく股間を覆っており、女体の生命力と神秘性を黒光りした色艶で太々しく主張しているようだった。
ダラダラと流れる熱水はその毛先まで洗い流し、デリケートな恥丘の肌や、男根を吸いこむように折り畳まれている女陰の肉々に貼りつかせていた。
二枚の大陰唇は、起立の姿勢をしても、背後から覗いた時点で真っ白い尻肉の中間にもっこりと巣食っているのがわかる豊饒さである。
桃枝は片足を大胆に外股にして、背を丸め、秘部の洗浄を入念に行った。襞の谷間にこびりついた汗や体液の残滓がきわめて不快だった。もちろん、秘洞やクリトリスへ強烈にしぶく高温噴水が若干の性的快感をもたらすことを三十路女が知らぬはずもない。結婚はしていなかったが、恋人はつねに傍らにおり、それなりに体験も積んでいる身体である。自慰で昇華しなければならない肉欲の欲求不満はないものの、仕事上のストレスは今日に限らず存在していて、ときおり入浴に際しては他人に教えられぬ行為に及ぶこともあった。さすがに疲れ果てている今、その本気は起こらなかったが、甘みを欲する本能の如く、二度三度と性感神経の玉石をマッサージするのはやぶさかではない。
胸に浴び、背にかけ、顔に放射した。
全身の毛穴が生き返る。皮膚の深くに沈殿したゴキブリの糞のような汚臭の塊も完膚なきまでに粉砕できた。
新鮮な心身をようやく回復した気分になる。

携帯電話が鳴りはじめた。

反射的に浴室を飛びだす桃枝。
深夜の呼出し音はほとんど仕事の急用だ。中小企業代表としては尻を蹴られるように反応しなけれなならない。
バスタオルを掴んだまま、居間に戻って携帯を握る。
非通知の着信だった。
「もしもし?」
そのままサニタリーへ戻り、鏡の前で頭を拭きながら応答を待つ。
沈黙がさらに長引いた。
「どちら様ですか」
「・・・児島桃枝さんですね」
女性の声である。聞き覚えがあり、記憶から該当者の名前を抽出するのに時間を要しなかった。しかしこちらからはそれを口にせず、相手に喋らせるべきである。
「児島は私ですが、あなたは?」
「志方和美ですっ」
きっぱりとした自己紹介。最初の沈黙をどうとらえるかで、その上ずり気味の声の意味が変わってくる。
「──志方さん、お久しぶりです。お元気でしょうか」
「所長さん、私からの郵便を受けとって頂けましたよね。依頼した調査を終了するという通知ですよ」
「もちろん受けとりました。内容も把握しております」
「だったら何故、いまだに鼠のように嗅ぎ回っているのよ!」
理性的な印象しかない志方和美の金切り声だ。怒りを爆発的に相手へぶつける感情の無制御が回線の向こうからビンビン伝わってくる。人格に異様な変貌が生じているのか。
「志方さん、落ち着いてください。書類上、打ち切り通知はまだ受理しておりません。なぜなら志方さんとお会いして直接意思を確認したいと思っているからです。そうしないと私としても納得がいきませんので」
「納得って何。お金のことかしら」
「いいえ。そうではありません。志方さんの意思の急変ぶりは明らかにおかしいと考えました。お忘れですか。あれほど確認しあっていた我々の信頼関係ですよ。それを終了にするというのであれば、説得力のある裏付けがいるはずです。そこをご理解頂きたいと思うのです」
和美がせせら笑っているのを聴くと桃枝は戦慄を覚えるしかない。
「人の不幸に群がって生きている興信所風情のあなたが大層なことを言うんじゃないわよ! 依頼人が、もう解決した、調査は必要ない、そう言っているんだからそれで十分でしょう。あなた、まったく無関係な市民を探偵したら人権侵害、プライバシー侵害になるんじゃないの!」
「・・・書類上は継続中ですが、実質的な調査は中断しています」
「だったら昼間のアレは何よ。あなた、スポーツに打ちこむ若者の青春の舞台にまで押し掛けて、芸能レポーターのような真似をしたというじゃないの。薄汚いドブ鼠のようでムカつくわ」
探偵を芸能レポーター呼ばわりするのはキムラ・タケジロウもそうだった・・・。
「誰からそれをお聞きになりましたか」
「はぐらかさないで! みんなの評判になっているわよ。おかしな女が盗撮するために客席に忍びこんで、捕まえたら暴れだしたって、写真まで撮られているじゃない。それを見て、私、顔から火を噴いちゃったわ。みんな私のせいだもの。どうお詫びしたらいいか、これじゃ最初からやり直しだわ」
「誰から写真を見せられたのです。誰に詫びるのです。最初からやり直すとはどういうことなのですか」
桃枝の追及に和美は再び沈黙した。
「志方さん──」桃枝は声を落として続けた。「──昼間の志方さんの姿はとくに納得できません。お嬢さんと一緒ではありませんか。あれほど責めていらっしゃったのに、ご自分でもなさるなんて、何か真意があるとしか思えない。ちがいますか」
沈黙はもう数秒、延長されたが、ようやく言葉を選び終えたようだ。
「・・・それについては、今、話すことなどありません。志方和美は馬鹿であるとおっしゃりたければ何十回でもおっしゃればいい。それより打ち切り通知の件、くれぐれも念を押しましたよ。今夜こうして直に話しているんだから、もう納得できるでしょう」
和美に電話を切る気配を感じ、桃枝は慌てた。
「志方さん、待って。有希さんとは、お嬢さんとはお会いになれたのですか。そこだけ確認させてください」
「もちろんだわ!」
和美の声はさらに調子が高くなり、ひきつるような笑い声になった。
「最近は同じ屋根の下で暮らしていますのよ。良好な母娘関係を営んでいますわ」
「お側におられるんですね。でしたらちょっと電話を代わって頂けませんか。それなら私としても引き下がるよりありません」
三たびの沈黙。
背後で誰かと相談している?
「こんな時間に非常識ですっ」
和美の返答はキリキリねじを巻くようだった。
「無職の私ならともかく、娘は現職の聖職者ですよ。毎日の多忙な生活があるのです。つまらない用事で睡眠を中断させるなんてナンセンスだわ。納得できないのなら法的手段に訴えるしかなくなりますよっ」
「・・・どうも先ほどからお伺いしていると、志方さんのお話し方がキムラ・タケジロウに似ているような気がしてなりませんが、勘ぐりですか」
「馬鹿げてるわ! 常識的に話しているだけよ。似ていたとしたら偶然ですっ」
「有希さんとの関係がおっしゃる通りであるという証拠を見るまではやはり納得いきません。私も頑固者なのです。法的手段に訴えるのは国民の権利ですから何とも言う気はありませんが、司直の手が入るとしたら我々の持っている様々な情報も開示されるでしょうね。当然、あの極悪詐欺師のファイルも証拠として押収されてしまう──」
またもや沈黙が割りこんできた。
どうも勘ぐりではないような気がしてくる。背後で和美を操作している誰かがいる。まさか彼女もまたキムラ・タケジロウの軍門に絡めとられてしまったというのだろうか。
「極悪とは言い過ぎですけど、それはそれとして──」感情の剥げ落ちた声が言った。「──わかりましたわ。あなたのところのような興信所を選んでしまったのが運の尽きです。次の日曜日、娘と二人でお会いします。ホテルのロビーラウンジで落ち合いましょう。これできっぱりと手を切らさせて頂きます。時間は──」
待ち合わせ場所と時刻を設定した後、電話は挨拶もなく途切れた。
依頼人とターゲットの二人──何度も接触寸前まで行きながら不首尾に終わった二人とようやく邂逅できる次第である。しかし女探偵の胸は少しもすぐれない。和美の豹変ぶりはそれだけショッキングだった。尊敬していた人格だっただけにその思いは激しいものがある。
(でも真実はまだわからないところがある)
桃枝は自分に言い聞かせた。
身体に巻いていたバスローブを外し、乳房を揺らしながら、再度シャワーカーテンの向こうへ戻っていった。


『前へ』 『次へ』