『全体目次』  『小説目次』  『本作目次』 『前へ』 『次へ』



1-6-6 最凶スケコマシとの対決 そして・・・

モモエ探偵社が用意したワゴン車に乗り、途中から合流した児島桃枝とともに、和美は金髪男が入り浸っているらしい某パチンコ店へ急行した。
運転は男性調査員で、他にも一名の部下が所長を補佐している。
桃枝からの助言もあって、今日の和美の服装は決めこんでいる。
学校の式典で着ていたスーツ。
スカートから出たふたつの膝頭がストッキングに包まれて女性的だ。
化粧も久々に手抜きなく描いているため、CA並みの華然とした目鼻立ちが復活していた。
「こちらの真剣さを相手に伝えなければなりません。威嚇とまでは行かなくとも会話にイニシアティブをとる必要があります。身なりは心理的な駆け引きとして重要です」
そういう桃枝も、いつもよりいっそう堅い印象が前面に出ている。変装と呼んでいた黒縁眼鏡もかけていた。
「そうそう、彼の名前はわかりましたか。偽名でも知っていないと声をかけ辛いわ」
「ええ何とか調べあげました。過去には『西園寺太一』『木戸広志』『大隈義純』なども使っていたようですが、今回はこれです」
桃枝はメモを手渡した。
「『木村武次郎』──キムラ・タケジロウ。維新の偉人のような仰々しい名が好みのようです。見た目とのギャップをセックスアピールの一つに考えているのかもしれません。詐欺師にはありがちなスキルで・・・おや、どうしました?」
和美のこわばった表情が桃枝の注意に止まる。
キムタケ──?!
和美は内心叫んでいた。まさか、あの電話ナンパの彼だというのか。
しかし偶然にしてはできすぎた一致である。
歯牙にもかけない、あまりに泡沫の出来事だったので忘れていたし、女所長の耳にも入れていなかった。
もし同じ人間であったらどうなるのだろうか。
和美は手短にこの一件について説明した。
桃枝は腕組みをして長嘆息する。
「とうぜん同一人物とみなすべきでしょう。最初から有希さんを狙っていたか、不特定多数を物色中に彼女に行き当たったのか、それはわかりませんが・・・」
「だけど伝説の人物にしては、ずいぶん幼稚な方法じゃないかしら。話術はたしかに達者だったけれど、脇の甘い印象しかありませんでしたよ」
「しかし少なくともお母様もお嬢さんも、まったく警戒心を持たなかったわけですよね」
たしかにそれはその通り。警戒心どころか、庭に迷いこんできたブサ可愛い野良猫ほどに会話のツマにしていた時期もある。
「彼らにとっては、きっかけなど何だって構わないのかもしれません。いや逆に、教員や、そういうインテリの女性に対しては、幼稚な方法こそ近づきやすいというノウハウでも持っているのかもしれない。近づいてしまえば、あとは何とでも、と」
有希がキムタケに篭絡された・・・和美は首を振る。信じられないことだが、眼前で起こっている事象を並べればそうなってしまう。自分の考えている以上に世間の闇とは底知れぬものなのだろうか。
「問題は、キムラがお母様を認識しているという事実──それが、今回どう転ぶか、です」
悪い方向には進まないのではないかと桃枝はさっそく予想した。
「かえって奸智を弄して母親までも言いくるめてしまおうと企むのではないか。肉親を懐柔してしまえば、有希さんの孤立は絶対ですからね。こちらとして最も避けたい門前払いのリスクが減るのなら、しめたものです」
この作戦の最大の肝である時間稼ぎがしやすくなるというわけだ。
「ただしお母様の負担は増えるかもしれません。以前、説諭したチンピラに、頭を下げなければならなくなる展開も考えられます」
「なんの支障もないわ」和美は言下に断定する。「有希の屈辱を思えば、私のプライドなど物の皮よ。土下座してでも、いいえ足にしがみついても、あいつを釘づけにしてやります」
パチンコ店が近づいてきたので、和美がバッグへ忍ばせることになった超小型の集音マイクを最終点検する。サポート側で追跡するための望遠カメラも準備万端だ。
計画通り、最初は和美一人でキムラへ接触するが、これらの機器を使ってその動静を逐一監視するので不測の事態にも対応できる。店内には客として調査員も紛れこんでいた。和美はその後、隣接するファミリーレストランへ彼を誘導し、詰問と愁嘆場を芝居する。頃合をみて探偵社所長が踏みこみ、追いこんでいく段取りである。それで、さらに時間を引き延ばせるだろう。
スタジアムに派遣されている調査員達とも連絡がとれていた。有希は現在、施設内にいることが確認されている。

いよいよワゴン車を降り、駐車場を横切って、和美はパチンコ店のガラス扉を押した。
月夜の提灯でしかない高音質の有線放送と、螺旋状に錯綜する出玉の銀属音が、騒音の渦となって彼女を迎えた。
第三者として俯瞰すれば、あきらかに珍妙な光景が整列している。
漫画のキャラクターや芸能人のライセンスのついた極彩色のパチンコ台は、児戯に用いる玩具にしか思えない。その垂直の盤面を、顔色の冴えない、挙措に余裕のない老若男女が、日銭を算盤する眉間で凝視している。細胞培養されたような均質のその表情が、店の奥まで行儀良く並んでいるのだ。
それでもその中を隙のないファッションの美熟女が闊歩するものだから、座っている男の幾人かは、正面へ粘着していた視線を錆びたレールの切換のように彼女の後ろ姿へズルリと動かした。
妄想にじゅうぶん耐えうる女の質──煙草の一服代わりの自涜を彼らの弛んだ神経にもたらしただろう。
もとより娘の救出のことしか頭にない母親は、店内のそうした空気などすぐに遠景へと追い払った。
目指す男は中央やや左の列の、正面玄関から奥まった台の前に、片足を組んでふんぞり返っていた。
金色の長髪は朝のシャンプーに濯がれて、さらさらの柔らかさでアディダスのTシャツの肩に垂れかかっている。赤から青へ、薄紫を通してうつろっていく色柄のシャツは半袖で、小麦色の腕があらわである。七分丈の白パンツのため、腕ばかりでなく臑からサンダル履きの足までも、人工的な日焼けぶりをひけらかしていた。
和美はパチンコの仕組みには疎いが、キムラの台が途切れなく大当たりを出し続けているのは理解できた。足元に積まれたドル箱は指を折らねば数えられないほどだった。
どこまでも悪運のついている男・・・。
ままよ、それも今日までだ。
和美は意を決してキムラに近づいていく。
騒音に耳まで埋まり、出玉の溜まりに気を取られている男はまったく周囲に関心を持っていない。
とうとう和美がすぐ横に立っても、数秒間、隙だらけの姿勢でいたが、気配の紙縒りをうなじに感じたらしく、ふと振り返った。
和美は素早く上体を折り、男の肩を叩き、耳元で語りかけた。
「キムラ・タケジロウさんね」
キムタケの驚愕ぶりときたら漫画の極みだった。
細い目を瞼の裏まで晒すように見開き、蟹股の両足で椅子を跨ぐように立ちあがりかけた。
どうやらキムラはスーツ姿の和美を刑事か何かと勘違いしたらしい。
伝説の詐欺師にしては小心な態度。つい口元に憫笑を浮かべそうになる。
しかしこのまま走りだされたら大変だ。
「ご心配なく。私はあなたの知り合いの関係者です。ちょっとお話を聞いて頂きたいだけだわ」
反射的な逃避行動は弱まったが、彼はせわしなく周囲を見渡す。冷静になれば女一人で男の身柄確保にくることは有り得ない。どこにも協力者らしき人影が見当たらないのを察すると、キムラはまだ半信半疑ながら中腰の尻を椅子に戻した。
改めて和美に注目する金髪男。
怯えた表情がみるみる緩んでくる。
スケコマシ根性が起動したか、視線がキロ当りの肉の値段を勘定するように炯りだした。時価を弾きだす掛け算も、腐った脳味噌でやり始めたかもしれない。
「どちらさんですかね、覚えがないんですけどねぇ」
その声にハッとする。こちらの記憶にはたしかに刻まれているものだった。執拗な電話での押し問答の間、九割方しゃべり続けていたのはこの声である。
キムタケ張本人だ。
「私は志方和美といいます。志方有希の母親ですわ」
またしてもキムラの表情が急変する。ただし今回は顔を青ざめさせるのではなく、赤らめるほうの血圧遷移。
「ゆうちゃんのお母さん!」
キムラは椅子から飛びあがった。身長は180センチ弱はあるだろう。
「誰かに似てるなぁとは思ったんだ。そういや鼻なんかそっくりだもの」
三秒前の言葉とあっさり手の平を返している。スイッチ・オンである。
「いつぞやはお電話でお世話になりました」
ナンパのことを言っているらしい。
「それより娘と一緒に暮らしていること、お認めになるの」
「お母さん、嫌だなぁそんな他人行儀。認めるも何も夫婦ですよ僕ら」
虚を突かれて、一瞬言葉を失う和美。いけない。イニシアティブはこちらが握らねば。
「夫婦? 嘘よね。娘から結婚の報告を受けない親なんてどこにいるのかしら」
「ああ、もちろんこれから二人でご報告に伺うところでしたよ。ゆうちゃんを怒らないでください。彼女は、形式や書類なんかにこだわらない、ほら、何というか、進んでいるというか、そうそう翔んでる女性だから、ちょっと世間からすると順番がちがっちゃって見えるかもしれないけど、僕がちゃんと説得して、二人でご報告に伺うというターンになってきていますから、お母さんにも安心して頂けるんじゃないかナー」
「私をお母さんなんて呼ばないで頂戴──」どこまでも喋り続けるキムラを遮断する。「──謂われがないですからね」
「え、謂われですか。ああまあ、だから書類は紙切れってことで、事実婚ってやつですけどねぇ。きょうび、これもれっきとした夫婦の形態でありまして、和美さんはやっぱり僕のお母さんってことですよ謂われ的に」
名前を呼ばれるのも虫酸が走る。口を聞けば聞くほど汚泥に塗れていく感じである。
「ところで和美お母さんはどうして僕がここにいることがわかったんだろう。うーん、ちょっと謎なんだけど」
「そうよね。それは説明しなければならないわ。ここでは落ち着かないから、隣のファミリーレストランに場所を変えてもらえないかしら。私も聞きたいことが山ほどあるわけだし」
この提案にキムラが乗るかどうか、第一の関門である。
和美は平然としつつ裏で緊張する。
しかしキムラは二つ返事で従った。
「いや、和美お母さんを接待できるなんてドリームズカムトゥルーだな。今日はアニバーサリーになりますよグラッチェグラッチェ」
機嫌の良さは言葉だけ。その裏側では、計算尺ならぬ詐欺師の『打算尺』で、状況と結果を超高速で分析しているに決まっている。
姑息な胸の内を隠蔽するように、キムラはとことん上機嫌を演出する。
あれほど山積みしていたドル箱を、換金せずに周囲に座っていた客達へ気前良く配ってしまうのだ。
顔馴染みなのか、和美を紹介しさえする。
「僕の義理の母の和美さんです。どう、美人さんでしょう。わざわざ尋ねてきてくれたんですよ」
そうして肩を組もうとまでした。身を背けてその腕をかいくぐっても、少しもへこたれない。スケコマシ心臓全開だ。
「記念と言っちゃなんだけど、みんなに餅代ってことで僕の玉、使っちゃってください」
一方的に喋り倒し、感謝の体の彼らには一言も口を挟ませず、さっさと和美を先導して歩き始めた。
「いいの、全部あげちゃって」
冷やかし半分に和美が尋ねるとキムラは白い歯をニコニコと垣間見せてトボケてくる。
「パチンコですか。何でもないですよ。今日は仕事が休みなので、息抜きでやってただけだから。心配しないでください。ちゃんと奢らせてもらいます」
それは誰から搾取した金だ、と糾問したくなるのを和美はこらえた。今は女衒もどきの結婚詐欺師に娘をかどわかされた母親ではなく、遊び人と駆け落ちした娘の母親の顔をしなければならない時間である。修羅場はもっと先になる。
二人は店舗から通りに出た。
交差点の四つ辻の向いにレストランはある。
「毎日毎日クソ暑いですよねえ」
柔軟運動のように右肩を順回し、逆回し──左肩を順回し、逆回し──そして顔をしかめながら雲の融けた青空をみる。
「暑くないですか。フォーマルな出で立ちで来て頂いて恐縮です。いやほら、ゆうちゃん、汗かきのほうでしょう? よく二の腕にまで滴らせてね。だから和美お母さんもと思って」
交差点の気温は車の熱もあり、さらに沸騰してい、彼女の首筋にも汗を滴らせている。
有希が汗かき・・・家族として知らない情報を暗示することで、扶養権を主張しているのだろうか。
「僕、テーラースーツ大好きなんですよ。教師って感じしますよねぇ。色もネイビーとこれまた渋くて好み。ジャケットの胸もとは黒のジョーゼットで引き締めているしスカートもツーボトムとお洒落。和美お母さん、センス、最高っすね」
「──青になったわよ」
和美は覚めた表情で促す。歩行者の動きをきっかけにキムラを急かした。
とにかくよく喋る男だ。『嘘の漆職人』とはよく言ったものである。うっかりしているとこちらの敵意まで漆でかぶれてきそうである。
「本当にファミレスでいいのかな」
横断歩道の中央でキムラが立ち止まった。
「車で来ているから、もっとハイソなとこでも案内したほうがいいんじゃないかな、ファミリー的に」
それは断固拒否しなければならなかった。すべての段取りがお釈迦になってしまう以前に、あのコンバーチブルに同乗するのは女の身として危険すぎる。児島所長から聞かされたこの男の悪行の数々を思いだせば、自分が五十路直前の盛りを過ぎた年齢であるという世間的な常識は、少しも安全を保障しない。女であるというだけで、とことん貪り尽くす獣の習性を、全身の皮膚の下に隠し持つ男である。
「言ったでしょう。話をするだけよ。両家の顔合わせとはちがうの」
「ああ、結婚式もちゃんと挙げないとって思っているんですけどね。お父さんに見せられなかったのは残念だなって、いつもゆうちゃんと話しているんです。二年前でしたっけね、天国に召されたの」
「いいからいいからっ」
志方家のプライバシーも掌握していると告げてくる。有希を通じているのは明らかで、どんな状況でそれを聴取したのか、想像するのも憚られてしまう。
なんとかキムラをファミレスへ引っ張っていった。
視界の隅に探偵社の車両が見えた。窓はスモーク張りだが、中でじっとこちらをモニターしているはずだ。キムラと自分とのやりとりをどんな顔をして聴いているのだろう。
帽子をかぶった店員が二人を案内する。
運良く窓側の、それも角席が取れた。外に姿を晒しつつ、話こむには絶好である。
「え、珈琲だけっスか。食さなくていいっスか」
メニューを何度もひっくり返しながらキムラは済まなそうな表情になる。結婚詐欺師は三十秒で泣けなければ失格だと、あるルポルタージュ作家は書いていたが、たしかに喜怒哀楽の早替えだけでなく、感情の表出もわかりやすく伝わってくる。演技が迫真の分、手練の印象が沸き、ゲロが出そうである。
「ゆうちゃんはここの煮込みハンバーグがうまいと譲らないんですよ」
「まずお聴きするけど──」
有希が煮込みハンバーグの信奉者だったのは残念ながらその通りだが、雑談時間はもう終了だ。
「──娘は元気なのね」
キムラは驚いてメニューを店員へ突き返し、身を前傾させた。
「もちろん元気ですとも。いやぁ本当に、愛は女性を変える、いや、育てるというべきなのかな、ゆうちゃんは少し真面目すぎるところがあったけど──まあ、ご両親が教職課程のうえに自分もそうなんだから当然ですよね──それが今じゃ僕という人間を愛することによってですよ、ずいぶん性質も女の子らしく温和になって、ちょうど良いくらいの『湯加減』というかなぁ、理想的な優しい女性になっておるんですよ。和美お母さんも彼女の成長を褒めてあげてほしいです」
「聞いていないことまで答えないでいいから」
こんな男に褒められる必要もないので無視すればいいとはいえ、いつのまにか志方家の子育てへの説教になっているところが吃驚するやら感心するやら──。
「元気なら職場であるR高校にも通勤しているはずだけど、ちゃんと通っているのかしら」
「ええ、ノープロブレムです。先生はゆうちゃんの天職ですから、ずっと務めていていいって僕も背中を押しているんです。もちろん愛の結晶がお腹に宿れば、そうもいかないわけですが。ええ、ええ、和美お母さんの初孫ですよねぇ。もうすぐおばあちゃんと呼ばれるわけです。お覚悟していてくださいよ」
高らかに笑うキムラに和美の平常心もやや上ずり気味。一発殴ろうとすると、三度、腋の下や顎をくすぐってくる。そんなふざけたディベートになっている。時間稼ぎが主目的でなかったら、もっと焦っていただろう。
「・・・高校には病欠しているらしいのだけれど。たしかに学校から連絡をとろうとしても、とれないのね。いいえ夏休みでも教師には色々仕事があるの。だから心配しているわけです」
「ふーん、それは少しおかしいですかねぇ」
キムラはさして追い詰められた風でもなかったが、ちょうど運ばれてきたコーラのグラスを摘み、片足を組んだまま上体を仰け反らせ、席の背へ寄りかかった。ストローを玩ぶ白い爪の指の根には指輪がゴテゴテと嵌っている。
「たぶんアレじゃないですかね──」スケコマシは声をひそめる。「──大きな声じゃ言えませんが、校長とのチャンバラが影響しているとか、そういうベクトルじゃないっスかね」
そんなところまで有希はキムタケに吐露しているのかと思うと、驚く以上につい情けなくなってしまう。
「おや、ご存知ありませんでしたか。校長一派とゆうちゃんは犬猿の仲だったんですよ。ゆうちゃんも当時はああいう性格だったから些細なことでも妥協できなくて、行司に呼ばれる前に土俵へ上るみたいな、ねぇ。でも今は仲裁も入って、休戦協定が結ばれて、そこそこは大人しくしているはずなんですよ。それが病欠なんてねぇ。やっぱりまだ、わだかまりでもあるのかなぁ」
「有希に非があるような言い草だけど、あなた、それでも彼女の味方のつもり?」
「イヤイヤそれは誤解ですよ。ゆうちゃんのハズとして自分の監督不行き届きを責めているだけです」
唇をすぼめてストローに吸いつき、コーラを半分まで飲み干すキムラを、ムカつくあまり正視できない和美。
首を振りながら追及する。
「なんだか、その校長一派と仲間のような雰囲気ね」
「僕が、ですか。まさか。ただ、そのスッタモンダのおかげで僕らの仲が始まって、発展したってことなんで、ついポジティブに聞こえちゃうのかも。政治的人間か、性的人間か、と言われれば、愛に生きる人間なんだな、僕って男は。フィロソフィー的に」
「気取らなくていいからっ。スッタモンダのおかげ? どういうことなの」
嬉々としたキムラの供述によれば──
職場での延々と終わらぬ対立に、何ら解決を見いだせない自分の未熟さへの失望は、有希を鬱々とさせるのだったが、かねてより電話での愛の告白をつづけていたキムラに、しだいに精神的な解放を見いだすように向わせもしたのだろう。既得権益にしがみつき、規制や規則を厳重に尊重して反復することに地道をあげるしかない上司達に比べれば、キムラ・タケジロウの自由で明るい人間性は砂漠で出会うオアシスのようであったにちがいない。やがて心を開いた有希はキムラと進んで会い、電話で感じた彼への印象を強く確認する。二人は出生の日から赤い糸で結ばれていた運命の恋人のように愛し合い、結ばれて、自然に同居するようになっていったのだった。おかげで前述の通り、有希は学校内でも最悪の状況を脱し、女性としての成長も遂げたのである。
「・・・なので、あの校長こそ僕ら二人の愛のキューピットであると同時に、ゆうちゃんの恩師って、とこなんですよねぇ」
犯罪者が弁護士をするのと同じ。この男の言葉など一つも信用できなかったが、ではアラビアンナイトや西遊記にまったく史実が含まれていないのかと問われれば、そうではないかもしれないと和美は奥歯を鳴らすばかり。有希からの行動が一つもなかったなら、キムタケのランデブーは難しいとしたものだろう。どういう意図があったかはまた別の話としても・・・。
「堅物の教職課程とはそんなに正反対の人間なの、あなたって?」
「まあ、そりゃ正反対でしょうねぇ、聖職者の世界なんて外から眺めるだけですけど」
「お仕事をお訊きしていいかしら」
「プロ・サーファーのマネージメントをしています」
キムラは名刺をとりだして和美に渡した。
「タレントのプロダクションを想像してもらえれば、わかりやすいかな。スポーツ選手の代理人みたいな仕事ですよ。ええ副代表ってポジションですけど、まあコーポレイト・ストラクチャーの規模は小さいから、威張れもしませんが」
それでも勝ち誇ったように笑う。なぜなら年商数十億を叩きだすベンチャー企業なのだと豪語した。
「ふーん、ベンチャー企業の副代表さんって、パチプロみたいな遊び人でも勤まるものなのね」
狐がさしだす木の葉のお金のような名刺。昨日使った名刺には大学講師と書いてあったのだろうか、それとも宇宙飛行士だろうか。しかし他人の皮肉に一切動じないのは変わるまい。
「遊び人じゃなくて自由人ですよ。パチプロじゃなくてサーファー。僕自身、今でも板に乗ってます。スポーツマン出身だから、常に前向きなんでしょうね。現代の企業に必要なのは、壁を破壊する馬力ではなく、波を乗りこなす海豚力だって言ったのは経済学者の、えーと、誰だっけ、名前をド忘れした──」
プロサーファーのマネージャーを名乗っているのだから経済学者の名前など思いだせなくとも痛くも痒くもない。かえって可愛げがあるくらい。重要なのは誰も聞いた覚えのないインテリ・エリートの警句を口にすることなのだ。知性への畏怖とは己れの無知の裏返しである。そうやって自分を神格化し、徐々に相手より優位に立とうとする。
もちろん詐欺師の素性を知っている和美に通用するわけもない。
「──だいたいあなたの人となりについては理解してきました。もう満腹でゲップが出そうよ。次は娘の話に移りましょう」
はっきりとそう宣言し、名刺を脇へ滑らせた。
「それでいつ、娘に会わせてくれるのかしら。彼女の意思をたしかめないことには母親としてこの事態を認めるも認めないも判断できないわ」
「いやぁ和美お母さん!」
キムラは甲高い声を発し、両手で拝むように和美の言葉をさえぎった。
「会わせるも会わせないも、それは僕の気持ちではなく、ゆうちゃんの意思次第ですけどぉ、その前にちょっと僕にも質問の時間をくださいよ。ねえ、さっきもお伺いした、どうして僕の居場所を知ったのかというアレですが・・・」
和美の大きな瞳は、店の壁に掛かっている時計の針の角度を、咄嗟に計算する。
どれほど時間を稼げただろうか。
もちろんまだ充分ではないはずだが、和美一人で受け持つ時間はそろそろ限界に来ているのかもしれない。
桃枝との打ち合わせでは、キムラとの話が探偵社に関わる段階となった時点で、所長がこの席に参加するという段取りになっていた。不自然な引き延ばしがもたらすリスクも考慮しなればならない。
和美は珈琲にミルクを入れ、掻き混ぜる。
「ゆうちゃんはブラック派ですけどね」
すかさず合いの手を入れてくる。母親もブラック派だったがこれは最後の時間稼ぎの工作であり、サポートチームへの『合図』であった。

ワゴン車内でスピーカーや液晶画面をくまなく窺っていた女所長は、『合図』を確認するとすぐにヘッドフォンを外して行動に移った。
サイドドアを開け、軽快に駐車場の地面に降り立つと、早足でレストランへ向う。
グレーのパンツスーツに、黒のアタッシュケースが何とも仕事人の迫力だ。眼鏡やオカッパ頭がその雰囲気をさらに強調する。開いた胸もとを飾る、いつもの金鎖のチョーカーだけが女らしさの演出だった。
『──あなた、子供はまだ持ったこと、ないのでしょう?』
和美の声が歩道を行く桃枝の耳に流れてきた。
腰のベルトに装着している無線受信機から、イヤホンでワゴン車の情報を聴くことができるのだ。
志方和美はよくやっている。
パチンコ店からの展開をサポートしていて強くそう感じていた。
教員一筋の人生で、海千山千の女タラシと、どう対決してくれるか、心配な面もあったのだが、ここまではほぼ完璧なミッション達成率である。自分の娘を質に取られている状況では、驚くほどの気力と知力と言えるだろう。探偵業務の法的な範囲等の限界──差別調査禁止、犯罪歴調査はグレーゾーン──もあり、キムラの過去の犯罪──立件されていない以上犯罪ともいえず──については口外できるかどうか微妙なものがあって、とりあえず伏せておいてくれと頼んでいたことも慎重に守ってくれている。
『──あなた、子供はまだ持ったこと、ないのでしょう?』
桃枝は横断歩道を渡りながらニヤリとした。この問いも当意即妙である。
『──ええ、ないですよもちろん』
やや早口のキムラの返事。きっと目を丸くしているだろう。
スケコマシにとって最も言いたくない嘘の一つかもしれない。戦略上のゴム装着を除き、釣った女に避妊具など用いるはずもなく、生出しが常識だ。中絶させた数とタモ網に入れた女の数は前者が少し上回るくらいか。産婦人科の開脚椅子にどれほどの数の女を寝かせたか、同業者の仲間となら勲章として虚勢を張り合えるだろうが、彼らとてそれが一般社会では救いようもない鬼畜な行為であるのを自覚している。嘘は簡単に装えても、水子供養のお札が脳裏に浮かばないはずはない。
面当てとして最高だった。
『だったらわからないわね。娘が手元から或る日忽然と消えてしまい、何の連絡もなく日々だけが過ぎていく。それを毎日味わう親の心理がどれほどのものか、想像もつかないわね』
『・・・そうですねぇ。タケジロウは子無しと、おっしゃりたければ、どんどんおっしゃって頂いて結構ですけど・・・』
『母親のそうした心情は、場合によっては国家だって動かしてしまう大きなものなのよ』
『原始、母は太陽であった、と言いますからねぇ』
キムラのはぐらかしも鈍くなっている。
志方母が完全に攻勢だ。
桃枝は店舗の自動扉の前で突入のタイミングを図った。
『──つまり再会が叶うなら、どんな手を使ってでもそうしようとするわ。多少、奥の手であってもね』
『奥の手・・・つまり?』
『あなたのこと、興信所を使って調べさせてもらったのよ。だから言い逃れは不可能ってこと──』
桃枝はイヤホンを抜きとりポケットへねじこむと、店内へ踊りこんだ。
店員の接客を手を振ってかわし、志方和美とキムラ・タケジロウの相対する席へ音もなく駆け寄った。
キムラの上ずり気味の声が聞こえてくる。
「どうしてゆうちゃんを信じてやれないんですかっ。それじゃあんまり彼女が可哀想っスよっ」
「ほらまた、話をすり替えてる。問題は有希じゃなくてあなたでしょう」
「興信所なんて胡散臭いサードパーソンが、僕らの家族関係に入りこんでくることを、僕は認められない、そう言っているんですよ。人間不信を呼び起こすだけに決まっている!」
息巻いて立ちあがりかけたキムラを、すかさずその横にすべりこみ、身体を寄せて、グイと思いとどまらせる桃枝。
そのまま自分も彼の隣の席へ座った。おかげでキムラは通路から隔てられてしまった。
「な、何なんだ、君は──」
よもやの闖入者に驚いたキムラはもう一度、腰を浮かしかけたが、二の腕をむんずと掴まれ、力任せに尻餅をつかされる。
桃枝の一連の制圧術は訓練されたもののように見えた。腕力も、鍛えられた筋肉によって発揮されている。小柄だがウエイトトレーニングで武装しているらしい。
「胡散臭い興信所の責任者よ。少しだけお時間を頂くわ」
興信所と聞いてギョッとしたキムラは和美の顔へ目を剥いた。
「私がお願いしたのよ。やむを得ないでしょう。娘に会うためなのだから」
「・・・お母さん、だからそれはゆうちゃんの気持ち次第だからって」
しかしキムラの声は勢いを途切れさせ、部外者が同席することを認めさせられてしまう。
「児島と言います。志方和美さんより、娘さんである有希さんの安全確認と身柄引き受けの設定を依頼されましたので、探偵業法に則り、同居人と思われる自称キムラ・タケジロウ氏を行動調査させて頂いております。本日、和美さんがあなたとの交渉の際に私の同席と助言を求められましたので馳せ参じました。ですので、これも正当な探偵業務となります」
そうきっぱりと表明しながら、女探偵はキムラの表情を査定する。
まだショックを隠せないでいる様子ではあるのだが、もう一つピンと来なかった。
突発事に驚いただけで、絶体絶命の窮地に陥った悲壮感まではない。
スネに傷を持つ身だ。過去を精査されたらぐうの音も出まい。なのに、どこか顔つきに余裕があるような気がする。陰湿なストーカーや暴力亭主などと何度も対決していたが、彼らなら探偵社と名乗るだけでほとんどが一般人の顔に戻っていく。
そんな殊勝さはこの男にはない。
スケコマシ心臓以上の何かを備えたホンモノの悪党──それが桃枝の査定の中間結果だった。
「いやはや何ともですねぇ──」
すぐさま態勢を立て直したキムラは、女探偵をまったく無視し、和美を集中的に攻略しようとする。
まず自分の心がいかに傷ついたかを、ときおり涙ぐむ素振りを見せつつ主張する。この感情は一心同体の伴侶である有希とて共有するもののはずだと強弁する。とくにどう一心同体であるのかを、執拗に吹聴し始める。
「いやそりゃ和美お母さん、ミスリードですって。たしかに三つ指をついて夫を出迎える、まではないとしてもですよ、いいですかお母さん、目を見ればわかるってことです、自分の愛する男を迎える喜び、自分を愛してくれる男の抱擁を期待する情熱、朝、夫の出勤に伴い欠けた温かい家庭の輪が、夜、夫の帰宅に伴い元通りになる妻の幸せ、それがねぇ、ゆうちゃんの瞳には映っているんです。夫である僕には痛い程よくわかるってことですよ」
和美が思わず失笑すれば、まるでそれに報復するように一心同体ぶりを誇張する。
「もちろん朝、出掛けのチュウは決まり事ですよ。フレンチキスですけどね。フレンチキスご存知ですよね? そうですかでも、ゆうちゃんは知っていましたよ、──いやいやだって愛情深い夫婦なら、毎日一緒に風呂に入るなんて普通でしょ、和美お母さん、休みの日なんか朝昼晩と三回入ってお互いの身体を洗い合うんだから、さすがにそれは多すぎるんじゃない?と僕が諭しても、ゆうちゃんはちっとも恥ずかしがらずに僕の手を握って誘うわけです、肌の相性がぴったりなんだな僕ら夫婦は──」
愛欲生活のすべては有希が主導権をとって深みに入っていると主張している。女の汚れ具合を風説にすることで自分の罪を軽減しようとする、スケコマシの黄金弁明だ。
さらに夜の営みのくだりに差し掛かろうとするところ、さすがに母親は聞くに耐えないという感じで表情を歪めた。
桃枝が口を挟むしかない。
「するとキムラさんは有希さんと出会うまで、チェリー・ボーイだったとでも?」
「チェ・・・なに言ってんだ君は。僕は大人の愛情の問題をトークしているんでしょうが」
「失礼。とてもウブな男子にはお見受けできませんでしたので」
「ウブではないけど、ピュアですよ。女性に関してはとくにそうだ」
「ところで、夫の出勤、夫の帰宅という表現についての質問ですが、キムラさんの職場はどちらになるんですかね」
いっさい無表情のまま皮肉を使い、一気に間合いを詰める桃枝。
キムラが何か言う前に、和美が先程の名刺を差しだしてきた。
「これがご職業のようですよ」
その名刺を片手で受けとり、表と裏を指先で安々とはためかせる。
「我々の調査によるとここ数日間、パチンコ、麻雀、競馬漬けの毎日のようですが、出社はされていない?」
「休暇ですよ休暇。大きな仕事が一つ終わったんでね。休む時は休まないと」
「あなたもサーフィンをおやりになるんですね?」
これにも和美が答える。
「かなりのスポーツマンらしいです。今も海へ出ているんですって」
「すると──」桃枝はつづけた。「賭け事でお遊びの合間に、日焼けサロンへ通うのはどんな理由からですか?」
「仕事に必要なんですよ。青白い顔をした人間がやるよりはクライアントの受けが確実にいいわけだから。最近は忙しくて毎日波に乗る時間なんてなくてね。豚肉を牛肉と騙すような話じゃないでしょ。これが犯罪なら女の厚化粧も全部犯罪じゃないスか」
「会社が実在しているのであれば、ですがね──」
調査すればすぐにわかることだと桃枝は言っている。カマをかけているわけだが、十中八九、こんな会社は存在しない。あったとしてもペーパーカンパニーがせいぜいだろう。
こちらの要求に素直な対応を示さないなら、洗いざらい調べあげますよと、メンチを切っているのである。
女所長の、脂身の厚い、腰の重い立ち回りは、本質が胆汁質のスケコマシには最も不愉快なところだろう。
それを桃枝自身にぶつけるのでなく、和美へ爆発させるのが卑劣漢の面目躍如である。
キムラは熱弁を振るう──
こういう芸能レポーターの如き探偵などという輩は、人の不幸にたかって生きていくシデムシなのであり、そのような連中を雇うという和美の判断こそ世間知らずに他ならない。だいたいそれで何がわかるというのだ、それで何が解決するというのだ、ただただ問題を複雑にしているだけではないか、ああ教師という職員室の中でしか生きたことのない人間はやはり大海の常識というものを知らない、有希もそうだったが、母親であるあなたも例外ではなかった、これでは義理の息子として心配で心配でたまらない、放置しておけば、あっという間に世間のクズどもに飲みこまれてしまうに違いない、更なる学習が必要のようである──
いつしか、働きながら子育てをした母親の生き様を独りよがりと指摘し、そこから脱出した有希の行動を礼賛する。しかしそれはそう親身にアドバイスした、じつは自分の手柄であると鼻を膨らます。ところがその舌の根も乾かぬうちに、今度は、母を捨てた娘の不道徳性に言及し、そういう娘にしか育てられなかった母親の甘さともども説教を加えたりもする。
高揚すると論理の一貫性が著しく損なわれてくるようだ。
彼の武器はまさしく言葉の手数の多さと、同質の表現のしつこい反復で、それによる相手の思考停止が狙いなのであった。心や頭で語るのではなく、心臓や顔で騙るのである。
「・・・なので、ゆうちゃんは和美お母さんに対して、ほんの少し猜疑心を抱いているようなのであり、僕は諭しますけれども、今すぐ会うのには少なからず抵抗があろうかというわけですよ。もちろんサードパーソンが関与してきた事実を知れば、せっかく解けかかっていた気持ちもまた殻へ引っこんでしまうでしょ。いいえ、探偵同席の再会なんて金輪際ありえませんっ。ゆうちゃんが許してもそれは僕が許さないから──なぜなら、そうしないとファミリーのアイデンティティーがロストボールじゃないですか、この無縁社会の時代にそれはない!」
キムラ・タケジロウは最後にそう吠え立てて、充足した顔のまま二人の女を見回した。
確認する必要もないが──自尊心をくすぐるために──得意の魔法の掛かり具合を確かめるような絶対勝者の気分。
──対象者の醜悪なその表情を眺めながら、桃枝は、やはり自分がここに居て正解だったなと考えた。さしもの志方和美であるが、一人であったらずいぶん苦境に追いやられていたはずである。すべてを諒解していても、この男の振りまく電波とオーロラは、正気を痺れさせ、神経網を熔解させる力を帯びている。70人斬りも伊達ではない。
疲れきった依頼人の表情がその証明だ。
かれこれ四時間は最凶スケコマシの毒を浴び続けたのだから、彼女の年齢ではしんどさも極まって当然である。
「・・・どうしても娘に会わせないというのね・・・」
それでもタフな心身でキムラを睨みつける和美。
退かない女のファイティングポーズに、やや憮然とした口の蠢きのキムラ。
「──あなたたち母娘にはまだ、会うだけの準備が整っていないと、そう断言できますって。もちろんその時期はお二人を熱烈にラブしている不肖私キムラ・タケジロウが判断するのが道理ってもんでしょう。何といったって──」
ここで桃枝の懐にあった携帯電話が鳴りだした。
「何といったってですねぇ」
競馬で言えばせっかくの差し足の見せ所に水をさされたキムラは、それを無視して続けようと躍起だ。
しかし和美の視線は正面の金髪男ではなく、隣の女探偵に力強く向けられた。
「──ああ、どうも私です」
かけてきたのはスタジアムに派遣していた部下である。
二三度、相づちを打ち、頷きも交える。
「──そう。無事完遂ね。お疲れ様。では向こうで合流しましょう」
キムラの手前、そう繕ったのだが、残念ながら電話の内容は、母親の期待の視線に十全に応えるものとまではいかなかった。
部下達が志方有希にコンタクトを取るまでは予定通りだった。
和美の奮戦による時間稼ぎは成功したのだ。
しかし身柄を保護し、安全な場所へ移動する仕上げの段階にはもちこめていない。
有希が同行を拒否しているという。
もちろん委任状も見せたし、事情を説明し調査員に従うよう促す和美のビデオレターも視聴させた。
しかし有希は頑として首を縦に振らないのだった。
私には仕事があり手が離せないの一点張りで終始している。
こうなると民間人に過ぎない探偵としては手詰まりになってしまう。強制連行の権限はなく、足止めするにも限界がある。
今の電話は結果報告というより所長へのSOSであった。
和美の聡明な顔に咲きほころんだ満開の薔薇が、桃枝の表情の影を数えるうちに、みるみる消えていくのがわかる。
いずれにせよ早く現場へ行かねばならない。母親本人が説得し状況を変えるしかない。
「へ? 何スか?」とまったく状況を知らないキムラ。
立ちあがった女性二人を見あげ、急転直下の成り行きに、例の『打算尺』を落としてしまった表情だ。
桃枝はここで初めて笑顔を作った。
「志方さんに急用です。それにどうしてもあなたが娘さんを会わせないというなら、こちらとしても考えを改めなければなりません。法的手段を含めてどういう方法がいいのか、もういちど練り直す必要があるでしょう。今日はとりあえずここまでとします」
本当は悔し紛れだったが、ポカンとした顔の詐欺師には啖呵のように聞こえたかもしれない。
珈琲代を置き、和美と連れ立ってレストランを走り出た。
店の入り口にはワゴン車が手際良く横付けされていて、二人は車内へ駆けこんだ。
「何があったの?」
扉が閉まると同時に和美は叫んだ。
桃枝は無表情で事実のみを報告する。
「・・・何かあるんだわ、きっと・・・」
落胆の色を隠せない和美。
娘がキムタケとの愛を優先し、干渉を拒んでいるとは、どうしても認めたくないのだろう。
「携帯電話は? ここから私が話してみては?」
すがるように提案する。
桃枝は首を振った。
「お嬢さんはそれも断わられております。それにキムラから有希さんへ、有希さんからキムラへ、電話連絡させないように部下達が彼女の身辺で妨害電波をかけていますので、さらに困難なのです」
和美は深呼吸する。
そう、一刻も早く向こうに到着しなければならないのだ。それ以外に方法はない。
「──あの男、追いかけてこないかしら」
和美はふと呟いた。桃枝も頷く。
「すぐに気づくでしょう。ただしシボレーはパチンコ店の駐車場で、発進すれば警報装置を踏むように仕掛けをしています。大音量が鳴りますから、運が良ければかなり足止めを食わせられるかもしれません」
桃枝は悪戯っぽく首をすくめる。
「しかしそれも一時しのぎですし、携帯の妨害電波も長時間はとても無理なので、結局は・・・すべては有希さんの意思次第にかかっていると言わねばなりません」
ベストを尽くすモモエ探偵社には疲労感の滲む和美も感謝するしかなかった。
法律すれすれの策を捻りだしてまで、仕事に当たっている。
そればかりではない。
有希との再会には、一時避難用のアパートの一室を手配してくれてもいた。DV被害者などを匿うために探偵社としてキープしている部屋である。実家のマンションは住所が割れているので、キムラが反撃に来ないとも限らない。有希が何らかの精神的ダメージを被っているとしたら日常から距離をとった場所でケアを考えるべきである。短期間だが、そこでほとぼりを冷ますのが適当と、児島桃枝らしい気遣いであった。
──再び携帯が鳴り、すかさず桃枝が出た。
しぶとい彼女の表情が曇ったのだから良い知らせのはずがなかった。
有希はついに調査員達の包囲と慰留を振りきり、タクシーをつかまえて遁走したのである。対象者に気づかれている場合の尾行はほぼ失尾に帰すらしい。
「・・・っ」
辛うじて残されていた望みが消え、和美は言葉を失った。黒目勝ちの瞳が潤んだよう。目尻の小皺が震えている。滑らかな頬が上気している。
「我々の力不足もありました。申し訳ありません」
桃枝は眼鏡を外し、ウィグを取り去り頭を下げた。黒髪が額の脇へ落ちた。
「いいえ──」和美は彼女を庇った。「皆さんに落ち度はなかったわ。今回は本当にお世話になりました。あなたに依頼して大正解でした。どれほど感謝していいか、わからないくらいです」
桃枝の手を握る和美。
「これから何か手立てはありますか」
励ましとも言える言葉である。探偵の力を見限っていないというのだから。
「おそらく──」と女所長。「──あのマンションには帰らないでしょう。どこかでキムラと落ちあい、幾つか用意しているアジトの一つへ移るはずです」
「こちらの動きを知ったんだから警戒を強めるわね」
「その通りだと思いますが、完全に足跡を消すのは不可能です。たとえば有希さんを高校から退職させてまで身を隠そうとするかどうか。しないのであれば通勤するわけですからコンタクトも取り直せるでしょう。もう一つ、キムラほどの博打好きが何日も博打通いを自重できるはずもなく、だったら立ち寄り先は限定されるわけで、すぐにこちらのアンテナに引っかかるはずです」
しかしそれも調査を続行していればの話。今以上に費用もかさむし、気力も必要だ。
「いいえ。調査を続けて頂きます。とにかく娘と一度会って話すまでは、親として納得できません。今回の件で、モモエ探偵社さんへの信頼はもっと厚くなりました。このまま仕事をお任せしたいわ」
まさに母親の子供への思いは国家をも動かす、だ。
桃枝は志方和美を直視し、失意と徒労から立ちあがろうとしている勇敢な表情に感動する。是が非でもこの気高く愛情豊かな女性の力になりたいと気持ちを新たにした。
依頼者へこちらから握手を求めるのは稀だったが、桃枝はそうせずにはいられなかった。
そしてさっそく、これからの調査方針を相談し、検討した。
最後に女所長はこう付け加えた。
「くれぐれも油断はされませんように。ちょくせつ和美さんへ、キムラが何か仕掛けてくるケースも考えられます。そこまではないと思っても、札付きですからね。万が一、アクションがあれば、決してお一人で事を解決しようとはなさらないでください。すぐに我々にご連絡を。単独行動はあの男の思う壷です。冷静な行動をお願いします」
和美は忠告を笑いながら受けとった。
「あの男に? 私が? それは、太陽が西から昇って東に沈むような話です。全身で、全人生で、私はあの男を憎んでいますから。安心して仕事に取り組んで頂ければいいわ」
背筋を張った元教師は、美しい笑顔を凛としてつくり、静かで堅固な頷きを返すのだった。

・・・そんな彼女がこの日から二週間もたたずに『音信不通』になったのである。


『前へ』 『次へ』