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1-5-5 侵犯・BCGパートナーズ

その日の夜、訪問者を告げるマンションのドアチャイムが鳴った。
和美が居間のソファに座り、ぼんやりと一之瀬佑香から、いや中西益雄から突きつけられた誓約書を眺めていたときだ。
振り返って壁時計を見る。
午後七時五十分──
来客の予定はない。
ひょっとすると──和美はぐんと立ちあがった──有希かもしれない。
親の情とはそういうものだ。元教師の聡明さも、住民運動を支える使命感も、その感情に優先するなどありえなかった。
素早く壁のモニター付きインターホンに向う。
スイッチを点灯させると、カラー画像が浮かびあがる。
残念ながらそこに有希の姿は映らなかった。
体格のいい背広姿の男と、これもスーツを身に着けた女の二人が立っている。
両方とも見ず知らずの人間である。
「どちらさまでしょうか」
「夜分畏れ入ります。警察のほうから来ました──」
頭髪が額奥へ後退しかかった男性が言い、背広の胸ポケットから黒革の認識章を抜きだすと、拡げ、カメラに瞬時、さらした。短髪で刈り上げが目を引く中年女性も同様に手帳を持ちあげている。
「──最近、この地域で頻発している下着の窃盗事件につき、聞きこみ調査を実施しております。ご協力頂ければ幸いでございます──」
その事件については噂を耳にしている。関連しているかどうかはわからないが、数週間前、志方家のバルコニーに干していた洗濯物の一部が紛失したという経緯もある。乾燥機がたまたま故障した日だったが、数点の紛失物の中には、たしかに自分と有希の下着が含まれてはいた。ただ、人為的に持ち去られたのか、何かの拍子に落下したものなのかはわからなかったので、警察には届けなかったが──。
「おもに女性単独世帯を狙った卑劣な犯行でありまして、放置しておくと大きな犯罪に結びつく危険性もあります。注意喚起をかねた防犯パトロールの意味もございます。お手間はとらせませんので幾つか質問にお答え願えませんでしょうか」
もうこんな時間でもあり身体も疲れていた。それにこれからモモエ探偵社に山室沙耶香の一件を報告し、相談する仕事も残っている。
「えーと・・・」
和美が渋っていると判断したのか、男性は女性からファイルを受けとり記載事項を指で追っている。
「こちらには二十代の女性はお住まいでしょうか」
「・・・ええ、まあ・・・」
「じつは容疑者の遺留品と思われる下着が何点か押収されておりまして、その中に二十代女性が履いていたバケ学的な痕跡のあるパンツがありましてですね、そこが実際の持ち主と照合されますと、物的証拠として効力を持つという因果関係がございまして、確認作業を急いでいるという流れになっておるんですよ」
玄関前の通路で、何やら著しくプライベートな話をされるのは面倒なものである。それに町内会の理事であり、公職にいた身だ。女性の敵に対する捜査活動を黙過するのは柄ではなかった。
和美は自宅着であるノースリーブの青ワンピースの上から夏物の白カーディガンを羽織り、玄関の扉を開けにいく。
捜査官とおぼしき二人はさすがに腰が低く、居間へ案内する和美に何度も恐縮の言葉を口にした。
ソファに腰を落ち着けた彼らはさっそく志方家の家族構成について尋ね、現在、有希が不在である事実を確認する。
「失礼ですが、お嬢様のご職業は?」
「教員をしております」
和美のその答えになぜか顔を見合わせる二人。
玉置と名乗った男性が説明した。
「性犯罪者はよく強い属性というものを持っておりまして、たとえばバストが大きくなければ駄目だとか、スレンダーでなければ駄目だとか、それはもう正常者からみれば滑稽なほど、細分化された嗜好、こだわりというものがあるんですね。この容疑者の場合、どうやら対象が高学歴であり、キャリアを認められる働く女性に限定される傾向なのでございます」
つまり教師である有希は、標的として狙われるハイリスク・グループなのだった。
もうこうなれば隠す必要もないので、和美は数週間前の紛失事件の存在を明らかにした。
「するとお母様の下着も? 専業主婦でしたか? えっ、元教員で? なるほど。やはり我々のプロファイリングの精度は高い。ねぇ外原君──」
満足げな玉置はそういう名であるらしい女性とともに、手柄のように自画自賛した後、警察への被害届を見合わせた和美の判断をやんわりと説諭し、市民の義務について朗々と講義した。
被害者はこちらなのにと、和美はやや白けてしまう。
「・・・しかし洗濯物をバルコニーに干したのは乾燥装置が壊れたからで、その日一日のことです。計画的に盗んだと言えるのるかしら」
「たしかにそういう疑問をお持ちになるのは自然です。検分してみましょう。バルコニーのどこに、どのように干されたのか、ご案内ください──」
和美の同意を得る前に二人は立ちあがり、とくに外原は勝手にバルコニーに面した窓のカーテンを開け放つのである。
「・・・っ」
例えばこれがかつての有希だったら、活発に抗議しているところだろうが、不惑をずいぶん前に通り越した都雅な母親は黒目勝ちの瞳をほんの少し見開くだけで、冷静に対応する。
バルコニーへ出た二人はその隅から隅までを検証した。マンションの外の環境も観察し、一般道路との位置関係を吟味する。
「あそこに脚立を置き、あの排気口に足をかけられさえすれば、難なくここへ登って来られますぞ。二階だからといって油断しましたね、ね、お母様」
玉置は和美の肩を気安く叩いた。
さらに指摘は続く。
「──ここにこう物干用のハンガーを? それじゃ通りから丸見えじゃないですか。変態性欲者を挑発しているようなもんでしょうな、いや、結果的にですよ結果的に」
「・・・下着は影に隠れるように他の物を外側にくるように吊るしましたが・・・」
「それは無意味です。けっきょく目立ちますから。頭隠して尻隠さず──ですねお母さん!」
この男は何故そんなに嬉しそうなのだろうと和美はいぶかる。
頭隠して尻隠さず?
正確にはその諺は悪事を隠そうとして隠し切れていない様を喩えている。被害者に用いるのは不謹慎なのだ。
ただの無知なのか、嫌味なのか。
「下着というのは正確にはどういう種類のものですか。まず娘さんのほうから」
外原が無表情で質問してくる。
「・・・さあ、たしか普通のブラジャーとパンツだったと思いますが」
「色とサイズをお願いします」
「白ですね。サイズは・・・正確にはちょっと・・・」
「お母様のサイズと比較して、どうでしたか」
さすがに中年男性はバルコニーの下を覗きこんだり逆に振り仰いだりして聞かぬふりをしていたが、外原はジロジロと和美の身体に視線を這わせてくる。
「私よりは大きめですが・・・」
「でしょうね。ではお母様のお胸とお腰のサイズをどうぞ」
「どうぞって・・・?」
玉置が見兼ね、割りこんできた。
「外原君、私がいる前で女性のデリケートな話を要求してもだね。できれば寝室にでも移動してもらって、そこでご協力頂きなさないよ。私はこちらで待機しているから」
さあさあと二人の肩をつかみ、居間へと戻ってくる。
外原も配慮が足りなかったと何度も頭を下げるのだが、下げるたびに和美の背を押して寝室へ向わせようとする。
根負けするように和美は寝室の扉を開けた。
「綺麗に片付けられているではありませんか」
扉を閉め、二人きりになると外原は首を大きく回してベッドのあるその部屋を観察した。
「何か?」
「いや、下着を盗まれる女性の五人に一人は、ADHDの『ケ』が見られるという研究報告もあるのです」
「ADHDって・・・」
「注意欠陥・多動性障害のことです。整理整頓できないタイプですね」
「ちがいますよ。私は」
「娘さんはどうでした?」
「娘もそういう『ケ』は持っておりません。それに、もしそうだったらどうだというんです。泥棒が犯罪でなくなるとでも?」
外原はまた何度も恐縮する。
「風に吹かれて落下したかもしれないという選択肢もまだ否定されたわけではありませんので、多方面から真実にアプローチしていかねばなりません。なにとぞご理解を」
わからないではないが、こんなに不愉快な思いをする必要性がどこにあるのだろう。
早く帰ってもらわねば、今夜も熟睡できそうにない。
「ではお母様のサイズをお聞かせください。もし正確な数値に心当たりがないのでしたら、実物の下着をご提出頂いても構いませんよ。きちんと計測できますので」
「いいえ。それには及びません。80のAカップです。ヒップは82ですね」
メモを取る外原。なんだかおかしな気分である。
「すると娘さんはそれよりも豊かであると」
「そうなりますね。Cという言葉を聞いた記憶はありませんが」
「最近、一緒にお風呂に入られたことは? お尻のサイズの印象はどうでしょう」
「そんなに厳密に特定しますか。パンツなんて少し小さいのや大きいのを履くことだってあるでしょう」
取り乱してもいない和美を外原は大袈裟に両手を振ってベッドに座らせる。
「いいですかよくお聞きください。証拠に少しでもズレがあると冤罪の元にもなりかねません。無実の人間の人生を葬るような事態になっては取り返しがつかないんですから、ご理解頂かないと、お母様」
「わかっていますが、しかし──」
「一緒にお風呂に入られたことはあるんですか、ないんですか」
「・・・ありませんし、気にしたこともないから・・・」
「娘さんの下着は残っていませんか。未使用のものでも宜しいんですけど」
「ないですね。すべて持って引っ越していきました」
「衣裳ダンスを探してみたら、ひょっこり出てくるかもしれませんよ。仲の良い母娘であれば知らぬ間に共有しているケースも多いでしょう。ないという先入観だけで決めつけるのは危険です」
まるで人の言うことを信用していない。それほど重要な情報であるとも思えないのに。協力しないこちらが悪人のような空気になっていないだろうか。
和美は不満であったが、もう終わりにしたかったので、淡々とクローゼットから下着類を収納しているファッションボックスをとりだした。
「もちろん洗濯済みですね」と外原。
「──当たり前じゃないですか」
「いや、お母さん、誤解しないで。押収されたという下着の中には持ち主のものと思われるバケ学的痕跡があったと玉置が説明したと思うんですが、じつはそれ、女性本人の体液のことなんです。つまりどういうことかというと、こちらでもし娘さんの体液──汗とか唾液とか澱ものとかですが──体液を採集できれば、DNA検査にかけて照合することができるわけです。本人のものか特定可能となるのです」
「だったらその押収品の下着とやらは、娘のものではないでしょう。だってなくなったのは洗濯した物ですよ。痕跡なんて残っているはずがないわ」
「月経や排卵の最中であれば、通常の洗浄ではすべての痕跡を除去するのは不可能です」
外原は和美の主張をまったく受け付けない。箱からベージュ色のパンティを無造作につかみとって己の鼻面へ近づける。
「──あるいは個人差を否定するわけにはいきませんよね。体液の濃い娘もいるわけですから。ほら、いくら入念に洗われているとおっしゃられても、お母さんのパンツにはお母さんの匂いが染みこんでいるのがわかる。それに昨今、高学歴の職業婦人には、お身体の身だしなみを疎かにしてしまう習慣もお見受けします。種々の状況からして、娘さんは痕跡をたっぷり下着に残しているのではないでしょうか。じゅうぶん照合可能ですよ。さあ、早く探してみてください」
さすがの和美もカッときて外原の手から自分の下着を奪い返した。
「いえ、探すまでもありませんわ。ここには娘の私物は紛れこんでおりません。もうはっきりそう断言できますっ」
「予断を持つのは危険ですよ。肉親を美化したいのは当然ですが、生理現象なんだから誰にも罪はないじゃありませんか。ほら、そこの黒のブラとパンティ、お母さんの物としては大胆な色柄ですよね。娘さんの物ではありませんか」
「いいえこれは私の物ですっ。娘が誕生日にジョークとしてプレゼントしてくれたのですっ」
二人のやりとりが熱を帯びてきた時、寝室の扉がノックされた。
「どうしたんだね、外原君。声が大きいようだが──」
玉置が扉越しに語りかけてくる。外原がさっそく答えた。
「すみません。私の説明不足も一部あって、お母さんにDNA検査の重要性をご理解頂けないようで」
「うん、そうか。そこのところはいつも難しいケースが多い。しかし無理強いはいかんよ。あくまで任意のものだからねぇ、我々の調査は。とりあえずそこまでにして、一旦こちらへ戻りなさい」
ハイわかりましたと外原はあっさり従い、扉を開けてしまう。
そこには玉置がいて、寝室内を覗きこんだ。蓋の広げられたファッションボックスや、ベッドの上へ並べられた熟女の下着は遮るものもなく、大部分を目撃されてしまうのである。
和美は憮然たる面持ちで寝室を出、背後でビシャリと扉を閉めた。
きつく抗議をしてやろうとイキリ立ったが、居間のテーブルを見て言葉を換えねばならなくなる。
そこには出した覚えのない湯気の昇る茶碗と羊羹ののった小皿がきっちり三膳、並んでいるではないか。
玉置が勝手に棚を物色し、台所を使ったのだ。
しかも飲みかけの茶碗は夫の形見であった。
「え? ああこれ──ウエルカムドリンクがまだでしたので、気を利かさせてもらいました。本当は冷たい飲み物の時節柄でしょうが、見当たらなかったので──ナニかえってこのほうが汗が収まるというものです。お気になさらずともいいですよ」
さあお母さんの分もあるのだから、お掛けになって一息つきましょう、と、玉置はまったく悪びれた様子もなく、和美の柔らかい二の腕をとって導こうとする。
その手を邪険に振り切って和美は唸った。
「・・・あなた達は本当に警察官? もう一度、警察手帳を見せてくださいっ」
和美の厳しい物言いに、しかし玉置も外原も一つも慌てた表情をしない。いつも遭遇している反応であるといったような自若ぶりである。
「──警察?」玉置が言った。「あなたは相当そそっかしいお人柄のようだ。これがポリスの『ID』に見えましたか」
玉置が背広の胸から再び取りだした認識章には、金色の紋章はあったがただの円であり──つまり旭日章ではなく──、所属署の名称とはとても思えないネームが小さく入っている。

『BCGパートナーズ』

そう書かれているだけだ。
「嘘よ。警察から来たと、たしかにそう言ったはずだわ」
「お母さん、正確に思いだしてください。我々は『警察のほうから来た』としか言わなかったのですよ」
「──っ」
たしかに指摘されればそうかもしれない。いつもの和美先生ならありえない凡ミスだが、有希への心配が頭から離れず、注意力が散っていたのだろう。
するとこの二人は何者か?
詐欺的な悪徳訪問販売業者?
そんな得体の知れない輩を招き入れ、寝室すら公開し、あろうことか下着までご披露してしまった。とどめに夫の形見を無断で使われてしまう始末である。
和美は自分の愚かさに眩暈すら覚えてしまう。
「・・・とっとと出て行ってちょうだいっ・・・」
感情を押し殺したように和美が息むのを、玉置は手慣れたトークでなだめすかす。
「お母さん、勘違いなさらないで。誤解はもっともだが、ここは冷静に思いだしてください。我々はこれまであなたに何か購入してくれと要求しましたか。ノーですよね。入会してくれとか、レンタルしてくれとか、契約してくれとか、求めましたか。それもノーなんですよ、お母さん。手帳のくだりは唐突だったかもしれないが、あれは一般市民であるあなたの危機管理能力を計る、ちょっとしたテストでもあったのです」
「・・・テストって・・・馬鹿げているわ。じゃああなた達はいったい何者? 何をしにきたって言うのよ」
「馬鹿げている、とは虚妄だと思いますがそれはそれとして、では今からご説明申し上げますから、いったん着席ということで──」玉置は強引に和美を座らせる。「──外原君、リーフレットをお渡して」
和美の前に外原が広げた冊子は『BCGパートナーズ』の概要を紹介したものだった。
ご大層にNPO法人であるらしい。
設立趣意を、地域による弱者の養護と、地域の安全を守る人的・組織的共同体の構築、と規定している。
なにしろ『BCG』のアルファベットが意味するところこそ端的だ。

B aby・・・乳幼児
C hild・・・小児
G irl ・・・女子

その頭文字からとっているのである。
これらの社会的弱者と積極的にパートナーシップを築き、犯罪や危難から彼らを未然に護ると宣言していた。
「もちろん関係官庁、地元警察からもご声援を頂いております。今回の下着窃盗事件も、公的捜査では手の回らない部分の補完であるとか、犯罪に強い地域の育成といった根本的な課題にも、各位とのあうんの呼吸を保ち、果敢に取り組んでおりまして、各方面からありがたい評価を頂戴する流れとなっております。今回、たいへん高い位置からの不仕付けなレクチャーとなりましたが、お母様にも我々の高邁な理想にぜひご賛同頂き、未来繁栄の礎であるBCGが安全に暮らせる地域作りにお力をお貸し願いたいと、そう思うところなんでございますよ、ハイ──」
玉置は立て板に水の勢いでまくしたてると、ひと呼吸を置くように、その湯呑みで喉を潤した。
「──それで、そうそうDNA検査の件でしたね。ここに娘さんの私物がないとすると、娘さんの引っ越し先を訪問して、そちらで採集させて頂く形をとるしかありませんな」
「DNA検査を民間団体が担当する? 荒唐無稽なお話だわ」
「言ったでしょう。補完ですよ補完。市民有志の情報提供を参考に、実際には司法当局が動くんです。話をそらさないでください。娘さんは現在どちらにお住まいですか」
「・・・答える義務があるとは思えませんが・・・」
苛々する和美だったが、その部分を質されると、ふと視線が内省的になるのをどうしようもない。
すかさず外原が玉置に耳打ちの報告をする。
「どうもこちらの母娘関係には諸問題が内在しておるように見受けられます。関係の良好な母娘に普通にあるべきサムシングエルスが欠落しているのです。娘の衣裳や体格についての関心が著しく希薄であるという感想を持ちました」
「うーん、そこは重要だねぇ。ひょっとすると、娘さんは何からの原因で、家出同然に別居に至ったのかもしれん。いや何ね、電話のところのアドレス帳に、それらしき記載がないのだよ。まともな親の神経であれば、娘の移転先のインフォメーションは最初の行に書き留めておくはずだろう。それが常識だ。おそらく娘は母親に反発して連絡先を教えずに飛びだしていったのではなかろうか」
和美はギクリとして据え置き電話を振り返った。
「ああお母さん、ご心配には及びませんよ。茶菓子を探している拍子にチラリと視界に入っただけだから。詳細は気に留めておりませんよ」
「どういうつもりよ、まったく──」
「それはいいから、私の推理についてどう思われます。娘さんとは喧嘩されたんじゃないですか。出て行かれたんですよね」
「ちがうわっ、そもそもそんなプライバシーをあなた方にお話しする必要なんかないでしょう。下着泥棒と何が関係あるというの」
玉置は先程の冊子に人さし指をついてトントンと叩いた。
「我々はBCGとのパートナーシップを求めておるんですよ。腹を割って語り合わずしてどうしてそれが達成されるというのです。またパートナーシップを作らずして、どうしてBCGを養護していけるのでしょうか。残念ながらお母さんはまだご理解できていないようだ」
一人ごちで勝手な理屈を並べている玉置に、和美は胸が熱くなるほどの嫌悪を催す。
「・・・私も娘も、あなた達に養護されなきゃならない子供じゃないの。あなた達のサービスは必要ありません。さあ、お引き取りください。じゅうぶん──調査だか捜査だか何だか知らないけど──協力したはずよ。これ以上居座るというなら不退去ということで警察へ通報しますっ」
毅然とした和美の態度に、さすがの玉置も言葉を探す時間をつくらざるをえない。
「・・・お母さん、教員といえばエリートでしょう。そのへんの愚衆じゃないんだから、そういう利己的な態度を改めなければ、BCGの安全に直結する地域の平和を危険に晒すことになるというくらい、簡単に理解できるはずだと思うんだが──」
取りつく島を求めるように玉置は和美の顔色をうかがったが、まったく軟化の兆しがないと悟るとついに諦めたようだ。
慇懃無礼のBCGパートナーズ。二人揃って帰り支度をはじめだす。
外原が立ちあがり、玉置も腰を浮かしかけた時、彼はふと、テーブルの下に置かれていたマガジンラックから、そもそもそこに挟んであったのを知っていたかのような手際良さで、新聞や雑誌を選り分けると、一枚のチラシを抜きだした。
「なるほど。こういう手合いに感化されておられるなら、愛郷精神も鈍麻するはずだ」
玉置が示したのは新聞広告でなかった。
市議会議員、柴山圭の選挙運動用ビラである。前回の市議選のさいに配られたものだろう。すっかり忘れていたがまだ残っていたのだ。多色刷りのそれには圭の下膨れの笑顔が大きく映っている。
「こいつは小癪なフェミニズム思想の持ち主ですぞ。親和的な家庭観を解体し、fatherhoodを割礼する、不遜な女闘士ではありませんか。いけませんいけません、こんな煽動家に騙されては、地域の絆はズタズタだ」
和美も立ちあがってビラを返せと手をさしだす。力ずくで奪いとるより相手へのダメージがある。
「イタチの最後っ屁はいいから早く退去してくださいな。イタチは虚妄? こそこそ狭い所を掻き回している姿はそのものでしょう」
酸っぱそうな表情をしてビラを返す玉置。
中年男から目を離さぬままに美しい直線の折り目を作ってビラを畳んだ。
「これはたまたま捨て忘れていただけ。私は彼女の支持者の『ほうへは』行ったことがありませんからご心配なく──」
和美は煙幕を張り、玄関を指さした。
彼らはようやく背をこちらに向けて廊下を歩きだす。
市議への中傷をブツブツとまだ繰り返している。どうやらBCGパートナーズの出処は圭の政治信条とは正反対の側に根ざしているのかもしれない。
胡散臭い夜警団──
それが彼らの正体なのだろう。最初は非営利を謳っているが、付き合っていくうち見料でも要求してくるに決まっている。
「下着泥棒が逮捕されたらまたお伺いしますよ」と玉置が靴べらを冗漫に使いつつ皮肉な笑みを浮かべて言った。「犯人の手口を研究して防犯に役立てるのも我々の使命です。お母様に危機管理意識や地域への愛情を強化・増進して頂くため、辛抱強く啓蒙せねばならんでしょうからな。ま、それまではせいぜい戸締まりに気をつけて、下着に名前を刺繍などして過ごされるのがいいでしょう」
「次にお越しの際は、遠慮なさらずに、来た方角なんかではなく、立派な法人のお名前をお名乗りください。万が一ヒマだった場合、お相手しないとも限りませんわ」
言葉のパイ投げ合戦は互角かもしれなかったが、和美には彼らの鼻先で、小気味いい音を立ててドアを閉めるというキメ球が残っていた。
それでも玉置の唇の粘細胞が密着した秀彦の形見の湯呑みを、大量の洗剤で泡まみれにしつつ洗っていく最中には、苦々しい思いで胸が灼ける不快さになってしまう。あんな茶番に時間をとられたおかげで、児島桃枝への連絡の時機を逸してしまったし、昼間の一之瀬佑香のもたらした有希の驚愕情報とあわせても、今日という日は超弩級の重量感のある一日だった。
神経の昂りはアルコールランプで熱した石綿のような焦げぶりを和美の心にもたらしている。予想通り、今夜もここ数週間と同様に、寝付かれない夜になるのだろう。

しかし次の朝、こちらから連絡をする前に、モモエ探偵社から所長直々に電話がかかってきた。
第一回の調査報告をしたいというのだ。
まだ依頼から丸二日も経っていないのに、である。
もちろん児島桃枝からは、調査対象が比較的身近に存在する今回の案件では、定期報告を頻繁にとることになろうとは聞かされていた。
彼女もいつもの通り冷静だし、粛々とした口調に変化は感じられない。
それでも是非とも今日中にお会いして話したいと明確に伝えてくる。何か重要な事実が発覚した気配がありありだった。電話での報告とは行かない種類のそれ・・・。すぐに有希にとって不利な展開を連想する。昨日の『事件』など口にするのも忘れてしまう重圧が和美の胸にのしかかった。
とるものもとりあえず、探偵社のビルに駆けつけるしかない。

前回と同様の応接室で、和美はこれもまた前回と同じ衣服の女所長と対面する。
元教師も半袖のワンピースだから以前と大差がない。
「有希さんの居住先が判明しました」
「・・・」
ひんやりとした緊迫感で言葉が詰まってしまう。桃枝はフォルダーから資料をぬいてテーブルへ並べる。
「これが住所。こちらがその写真です」
「・・・高校から2駅くらい? 離れた街ですわね・・・」
居住先と説明された家屋の写真は数枚あり、和美は孔を穿つほど見つめた。その化粧は淡白だ。
中古のマンションだろうか、八階建ての高さで何一つ特徴というものがない凡百の景観。
「ただし、駐車場が地下にあるタイプです」
わざわざ付け加えられたその情報が何を意味するのか、桃枝はここでは触れない。
「有希さんはこのマンションのどこかの階に──まだ特定できていませんが──この男と同居していると思われます」
さらに1ダース程度の写真が追加された。
「確認できますか。お母様が学校の正門前で目撃したという金髪の男性と同一人物かどうか──」
一刻も早くと呼びだされたのはこのせいもあるのだろう。面通しは時間との勝負である。
和美は唇を噛み締める。
あの時はサングラスをしていたし、正面から拝んだわけでもないので、正確な照合は難しいかと思われた。
が、写真を一目するだけで、和美は確信に至る。
スポーツカーを運転している金髪の日焼け男はあの男に間違いなかった。助手席に有希を乗せておらずサングラスもしていなかったが、ハンドルを握る気障な身のこなしは忘れたくても忘れられない。
顔はたしかにイケメンだろうか。目が細いところに愛嬌すら感じられる。年齢は・・・よくわからない。
運転している写真の他は、煙草を吹かしながらパチンコしているもの、風体人相に難のある男達と麻雀に興じているもの、等があった。
「・・・間違いありませんわ・・・娘と一緒にいた男でしょう・・・」
「そうですか。了解しました」
桃枝の表情に若干の暗さが通過する。
「何者です。名前は? チンピラじゃないですか、これでは──」
とくに麻雀仲間はパンチパーマありアロハシャツありの、柳眉をひそめる如何わしさである。
感情が昂りそうになる母親を桃枝は頷きながら制した。
「こうした手合いに名前などないのです。あるのは無数の偽名ばかり。このマンションの契約にどんな偽名を用いているか、まだ判明していません」
和美はスリムな腰を下ろした。まだ二日だ。居場所がわかっただけでも桃枝の手柄である。
有能な女探偵は続けた。
「もう一つだけご確認を。今からビデオをお見せしますので、有希さんかどうかご指摘ください」
デジカメが大型モニターに連結されている。
彼女が躊躇なく操作すると、大画面に再生が開始された。

屋外駐車場である。
広大だ。
カメラがスタジアム風のゲートに焦点を絞りこんだ。

『○○公園陸上競技場』

そう看板に出ている。
桃枝が解説する。
「R高校陸上部がよく練習に使う会場です。おそらく有希さんも引率教員の一人として帯同するだろうと踏み、待機してみました。──このバスが陸上部のコーチ、中西益雄氏の所有する遠征用のバスです」
指がさしたのは、マイクロバスよりひと回り大きなバスで、個人所有としてはずいぶん豪奢な規格と思われた。
「大会前などには学校のグラウンドではなく、ここを使っているようです。ええ、ご承知のように公営の競技場です。一高校の運動部がトレーニング用にほぼ占有するというのは普通ないことだそうです。どうしてそのような特待が可能なのかは、今のところ、調査の範囲外と判断しておりますが──」
言葉を濁したものの、桃枝は中西コーチの人脈や影響力を原因としてほのめかしたいようである。
しかしそれより先に今は有希と金髪男の素行を探偵しなければならない。
やがてもう一度、桃枝が画面の隅を指摘した。
息を飲む和美。
駐車場の一通の走行帯を一台のスポーツカーが進んでくるではないか。
忌々しいほど網膜を刺激してくる真紅のボディのコンバーチブル。
運転席には金髪のあの男だ。
「シボレー・コルベットという高級車です。毎日、パチンコや麻雀にうつつを抜かしていて買える車ではありません」
シボレーはR高のバスの近くにスペースを見つけ駐車した。幌を畳んでいるのでエンジンを切った男が競馬新聞を読みだしたのもはっきりと観察できる。
さらにカメラは車体のナンバープレートを大写しにする。
この数字から得られる情報は決定的なものになるとでも言いたげに。
バスに生徒が戻ってきたようだ。
ジャージ姿の男女の部員。
二十名近くいるだろうか。
その中には昨日、一之瀬佑香が自分に突きつけた何枚かの写真にも映っていた部員も、たしかにいるようである。
有希をいいように弄んでいた部員達。
母の動悸が聴こえてきそうだ。
彼ら全員がバスに乗りこんだ後、大人の男女が続いてきた。
カメラのフレームの中央に二人を捉えたところで桃枝は画面を静止させる。
「お嬢さんですか」
女のほうを指先で示した。
感情に素直になるなら、いいや、それはちがう、別人だ、と和美は叫んでいただろう。
しかし客観的な目は母親を頷かせるしかない。
屈強な肉体の男性の横に侍るように従っている小柄な女性は、衣服がどうであるのかわからぬほど、大量の荷物を抱えているのだった。両脇に何個も抱え、両手にも何個も持ち、リュックを背中ばかりか胸にも着装し、両肩からも何個も下げ、それで立つだけでも難しいのに、大股で歩く男性の後を遅れまいと早歩きをする格好は、借り物競走でもしているような突飛さであった。
確認できない衣服が例のユニホーム姿であるのは、額に締めた『研修中』の鉢巻きからして察することができよう。
鉢巻きの顔を真っ赤に日焼けさせた有希──。
荒い呼吸に大口を開け、切れ長の目をしばたかせて男性──中西益雄へ媚びた視線を向けている。
「・・・娘の有希です・・・」つぶやくしかない和美。
桃枝は感情を殺したまま告げた。
「隣の人物が中西益雄氏です」
まだ山室沙耶香からの一連の動きを報告していないので、女所長は依頼人が謎のコーチの素顔を知らないと思っているのだ。
桃枝は一時停止を解除した。
中西は有希などには目もくれず、さっさとバスのステップを駆けあがり車内へ消えた。
残された有希はカニ歩きをしてバスの横腹まで移動し、その底部に設けられている格納庫に、自分の体格の三倍はあろうかという荷物群を、そのうちの二三個ずつ地面へこぼしたり拾いあげたりしながら、なんとか納めていく。
あんのじょう背中も太腿もあらわなユニホーム着だった。
ようやく収納をやり終えると、彼女もステップを昇ろうとする。
だがその前に自動扉がバンと閉まってしまった。
同時にエンジンが排気音を高鳴らせ、煤煙を女教師に吹きかけた。
バスが発進してしまう。
置き去りにされた有希はしかし特別慌てた様子もなく、徐行しながら出口へ向うバスの後尾を、ジョギングよろしく追走し始めるのであった。
まるでトレーニングの一環であるように──
まるでいつもの日課であるように──
やがて駐車場の出口から一般道へ進入したバスが速度を上げると、有希との差は圧倒的に広がっていく。
それでも彼女は諦めずジョギングの速度を落とさないでいる。
バスはもう見えなくなってしまったのだが、有希は遥か彼方のゴールを念頭にしているかの小走りを続けるばかりだった。
いつの間にか競馬新聞を捨て、ハンドルを握った金髪男がシボレーを彼女の背後につけて尾行している。
パーキング灯を点滅させているので、それは『100』ゼッケンの立派な伴走車だった。
監督役?
救護班?
いや監視係なのだろう。だからこそ有希はその勤勉な走法を中止できないのだ。
撮影しているカメラは定点のまま。
いずれ二人の姿も画面から消失した。

「──この後、対象の尾行は他の調査員によって担当されました。一般的には車での追尾は成功しないケースが多いのですが、目立つ車両、目立つ様態であることもあり、比較的容易に終点まで辿り着きました」
桃枝の操作により画面が転換する。

夕闇の街。
あのマンションの前だ。
どうやらワゴン車内からの撮影らしい。
手前の道を黒の幌をかぶったシボレーが滑ってゆく。
マンションの地下駐車場へ入る直前の交差点で赤信号につかまった。
運転席が丸見えである。
再びポーズボタンが押される。
「スタジアム駐車場からの帰りです。何度も恐縮ですが、助手席にいるのはお嬢さんの志方有希さんに間違いありませんね」
傷口に塩を揉みこむようになるが、本人確認は探偵の第一歩。怠るわけにはいかない項目である。
和美は観念したように肩を落とす。
夢なら覚めてほしいと心底願った。
なぜならフロントガラスを通して認められる有希は、助手席に座っている位置から、上体を運転席側へ斜に傾けて、頬がこけた感のある顔をほとんど金髪青年の肩に寄りかからせている。半開きの口。それよりも薄細い眼差し──その表情ときたらじつに官能的で、恋人同士以上の濃厚な男女関係が進行しているのを雄弁に物語っているのだった。
和美の持つ女としての直感力、そして今日、桃枝から提示された金髪青年の私的写真の数々、それらを総合してもこの男の品性のくだらなさは決定的であるのに、手塩にかけて育ててきた最愛の娘──しかも教師として社会的な使命に燃えていたはずの自慢の娘が、彼にそのすべてを蕩かされている・・・認めなければならない現実として、これほどの苦い気分を味わう映像は有り得ないのではなかろうか。
「・・・そうです・・・志方有希・・・私の娘です・・・」
大声を出し続けたわけでもないのに、和美の声は枯れていた。
桃枝はモニターとカメラの電源を消し、テーブルの前の椅子をひきつけた。
「映像資料は入ってきていませんが、今朝の調査報告もあります。それによると午前九時には有希さんを乗せたシボレーがあのマンションから出てきました。行く先はスタジアムです。つまり出勤しているということになりますね。完全な送迎車付きで、です」
「・・・それで娘が働いている最中、あの男はパチンコや麻雀や競馬に興じている・・・そういうことですね」
「たぶん、おっしゃる通りでしょうが、確証は二三日後に上がってくることになります」
桃枝は先ほど取りだしたパチンコ店や雀荘の写真をもう一度、並べ直した。
「じつはこの写真、ほぼ一年前に撮影されたものなのです」
「・・・どういうことなのでしょう・・・」
桃枝は自分の言葉を呑みこめないでいる和美の顔を見つめた。
「真相はこうです──」
彼女の説明はさらに戦慄すべきものだった。
この男は、札付きの結婚詐欺師で、何度も警察の捜査線上に浮かぶほどの常習者であるという。
つまり業界では有名人なのでこうして回状のように写真も出回っているのだった。
ただしこれまで逮捕に至ったケースは一度もなく、示談すら成立したこともないであろう悪運の持ち主だ。
いや、噂されている──氷山の一角なのらしい──経歴を知れば、この男の悪辣な成功が運だけでないことを証明できるだろう。
コマした女の総数は70人近くにのぼる。
そのほとんどから三桁以上の金額を吸いあげている。
そのうちの何人かは風俗店などへ沈み、さらに暴利を彼の懐へ貢いでいた。
餌食にした女性はくさぐさで、未婚のOLや女子大生はもちろん、一般家庭の主婦やセレブ妻など既婚者にも及び、人気の水商売関係者もいれば末端のタレントもいる、まさに貪欲な雑食性の喰い散らかしぶりなのだった。
並外れた『コマシ屋』の実力といえば──
例えば相手の人間性を見抜く眼力──目前の女がコマせるかコマせないか、60秒の観察で鑑別できると豪語する。
例えば話術──『言葉こそ恋』が自分のつけたキャッチフレーズ。『嘘の漆職人』が同業者のつけた渾名。無為の語彙を連戦連発し、薄い漆の膜でも重ねれば漆器になっていくように、この男の虚言も蛇にもなれば蛹にもなって、女性の心身へ侵入し、蝕んでいくのである。
例えば劇画的にまで誇張されて都市伝説化している絶倫ぶり──
・・・・・・
「・・・もう結構ですわ。そんな実力の一部始終までお聞きする必要はありません」
和美が気分を悪くしたように桃枝の報告を遮った。円い額に脂汗が滲んでいる。
「もちろんです。この男の危険性をご承知頂ければそれでいいのです。そうすればおのずと現状の把握ができるでしょう」
この男の前では教師だからといって例外ではないのだぞと、非情な現実を突きつけているのだ。その認識を覚悟して初めて現実と対峙できるのだぞと。
女探偵は依頼者である母の瞳を鋭く射抜き、彼女の心中を洞察する。残酷な方法であるが案件の解決に向けては避けられないものである。この男はそれほど厄介な存在といってよかった。
大丈夫──桃枝は和美の精神力の強さを再確認する。驚愕し悲痛に喘いでいるが、錯乱もしていないし観念もしていない。娘への愛情を疑ってもいない。ここからの艱難辛苦もきっと乗り越えていけるだろう。
桃枝はますます平坦な調子で提案した。
「お嬢さんを取り戻したいなら一刻も早く行動することをお勧めいたします。早ければ早いほど良いと断言できます。ここまでの短期間の内偵によってすら、居住先でのお嬢さんはおそらく軟禁に近い状況に置かれているのではないかと思われるのです。駐車場が地下にあるマンションはそれにうってつけの環境と言えるでしょう。職場まで監視の目を光らせている執着ぶりは、お嬢さんをそれだけ価値ある『原石』と値踏みしているからに他ならないはずです。社会から孤立させ、誰の手にも触れさせず、自分の都合のいい『商品』に育てていく。これがこの男のやり口なのです」
風俗嬢という文字が和美の脳裏に明々と浮かんだ。
まさかあの有希が?
さすがにそれはないと思っても、彼女のメロメロぶりを見せつけられれば、そうした最悪の事態も虚構だと一笑に付すわけにはいかないのだった。
「お母さん、気をたしかに持って、次の行動を考えませんか。我々も全力でそれを支えるつもりです」
和美に異論があろうはずもなかった。探偵社として当初の見積もり以上の体制を整えなければならないということでもあったが、負担ではなく信頼の拡幅と考えればいい。
すぐさま対策の会議に入る。
冒頭、和美は二日前の山室沙耶香の電話から昨日の一之瀬佑香との応接についてまでを報告した。
「胴上げ?」
桃枝はやや当惑した表情をみせる。想像できないのだろう。
ホテルで見せつけられた写真のうちの一枚くらい、手元に置けていればと悔しく思う和美。
「ええ。一種のイジメ、あるいは制裁だと思います。教育現場で頻繁にするような真似ではありません」
「たしかに疑問の残る事実ですね。しかしそれをどうやって立証するか。いえ、この誓約書を中西益雄氏に提出して会見するというのはお待ちになったほうがいい。事前に我々にご相談頂いたのは正解ですよ。いずれにせよ有希さんの身柄を確保すれば事足りるわけだから、まずそちらに専念すべきでしょう」
和美は桃枝の言葉を受け入れる。
「でもどうもおかしくはないですか。金髪男とR高陸上部コーチとは絶対に関係があるはずですわ」
今日見せてもらったビデオで、確信に至ったと和美は訴える。
その可能性を肯定しつつも、実証主義者の探偵はとりあえず慎重な判断を崩さなかった。
「二者のつながりは内偵を進めていくうちに明らかになっていくと思われます。まずは有希さんとどうコンタクトを図るか、です」
マンションへちょくせつ赴くのは無駄足になる恐れが強い。セキュリティは完備されているし、コールにも一切反応しないと思われる。事実、内偵の進捗はマンションの出入り口で止まったままだ。どの部屋に暮らしているかもわかっていない。このマンションは男女の愛の巣ではなく、犯罪者のアジトというべきものである。
出勤時や帰宅の際に、シボレーを停車させるなどして彼女の身柄を奪回する強行策は、そもそも物理的に難しいし、男の有希への厳重な警戒ぶりから量っても危険が多く、また法的な根拠も脆弱なため、最後の手段としてしか考えられないのだった。
桃枝の腹案としてはR高校内で接点を持つのが無難であり、有効性が高いと踏んでいた。夏休み中であっても教師の登校は少なからずあるはずだろう。しかしたった今、和美からもたらされた山室沙耶香の言葉を信じるなら、有希は陸上部の活動には来ていても本校へは病欠を装っているようではないか。おそらく陸上部のほうも不定期的に顔を出しているにすぎないと思われる。
陸上部の活動中に談判をつけにいくのは和美も消極的だった。
金髪男と中西益雄がグルだった場合の彼らの行動は、ちょっと想像がつかないのだ。
桃枝も同様の理由を指摘する。それに中西に対する有希の態度。母親に向って口にするのは控えたが、あの従属ぶりは尋常ではない。中西が母親との面会を許さなければ有希も彼に従う確率が高いのではなかろうか。
不確定要素の目立つ行為はやはりもっと後回しにしておきたかった。
和美としても、まだどこかに『教員・志方有希』の立場へ配慮したい親心がある。スケコマシと同棲しているなどという醜聞が発覚すれば事実上教員免許は凍結されるのだ。有希が真意を隠して中西を一種の潜入調査しているとしたら突入は浅慮な行動となる。笑われるかもしれないが、身内としてそうした一縷の望みを捨て切れないのである。
ではどうすればいいのか。
桃枝が捻りだしたのは、正攻法のようでトリッキーな案である。
和美が金髪男に会い、有希との面会を要求するというものだ。
「時間稼ぎかしら」
「お察しの通りです。有希さんへの迎えを遅らせ、隙を見てこちらの調査員が彼女を保護します」
あのビデオのようなスケジュールが繰り返されるなら、陸上部から金髪男へ身柄が移動する部分に空白はできそうだ。
むろんスケジュールが繰り返される保証は今のところないのだが・・・
「でも他に方法がないのならそれで行くしかありませんわ」
和美はさっそく決意を固める。何より自らの足で有希に近づけるのがいい。
「我々が近傍でサポートするのは当然ですし、男との面談には私も同席しますので危険はありません」
ストーカー対策などで相手に引導を渡す場合、よく用いる手法だという。経験の豊富さは力強い味方となる。
「いつやります? 今日これからでも行きますか。一週間なんてとても待てませんよ」
はやる和美の気持ちを押しとどめた桃枝は、早いほうがいいという自説をもう一度口にする。
それでも対象の日課を調査しなければならない。
決行は二三日うちに、という段取りになった。


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