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1-4-4 モモエ探偵社所長 リンリン誕生

だが学校は夏休みに入ってしまった。
期待していたネットワークもこの時期を迎えると休業状態になってしまう。
そのほとんどが学校関係者なのだから致し方ない。
今のところ和美の元にもたらされた情報といえば、例のコーチのフルネームと略歴くらいであった。

中西益雄(ナカニシ・マスオ) 54歳
R高校卒業後、G体育大学入学。米国やロシア、韓国への留学経験あり。専攻はスポーツ心理学。自身が選手となっていたのはレスリングやサンボといった格闘技が中心で、なぜか陸上競技ではない。教員の資格は持っているようだが、特定の学校に勤めていた形跡は見当たらない。少なくとも公立の学校には奉職していないだろうという。どこかの教育塾か、あるいは民間企業に所属していた可能性が高い。

R高校のガードが固くそれ以上の調査は進んでいない。
ネットワークのこうした内偵行為は、察知すれば学校として敬遠するのは当然であったが、この高校の場合、やや神経質がすぎる印象も受ける。
志方有希先生に関しては箝口令が敷かれているように、誰もが口を閉ざしてしまう。中西コーチについても同様に鉄のカーテンが周囲に張り巡らされているようなのだ。
有希に不利益が降り掛かっては逆効果になるので、内偵も、あまり派手にならないでくれと和美が釘を刺しているものだから、強行に動くわけにもいかず、膠着状態に陥っている間に夏休みを迎えたわけだった。
やむを得ないところである。
学校という組織はその気になるとハリモグラのように身を固めて周囲を寄せつかせない術をもっているものである。
学校サイドの調査が手詰まりとなって、和美はもう一方のサイド──金髪の青年の側──からのアプローチを開始する。
とはいえ興信所などには伝手どころか知識もなく、ネット検索から試してみるしかなかった。
志方家ではパソコンもインターネットも有希の担当で、和美は初心者に近かったが、見よう見まねの経験はある。
──この世にいったい幾つあるのだと目を疑うほど、興信所の数は多かった。業務内容もほとんど変わらないようだし、どこに差を求めて選べばいいのかわからない。
最初は途方に暮れるしかなかった和美だが、何日かやっているうちに意外なところからこちらの要求に合致する会社に行き当たった。
市議会議員柴山圭のホームページのリンク集に載っていたNPO法人の女性人権団体が、ドメスティックバイオレンスに関する会合を開催したという報告を、自サイトに掲載していたのだ。活動家や医師、弁護士などの基調講演やデスカッションが行われたわけだが、その中にひとつ、ユニークな企画が組まれていた。
『DVからの効果的な離脱法』というのがそれである。
夫、恋人、或は家族から暴力を受けた場合、具体的にどうやって身を守り、身を隠すか、方法を解説していた。
講演者は『興信所所長』とある。
何枚か写真もあった。
それほど年配とも思えない──三十代半ばだろうか──スーツ姿の女性が登壇し、OHPを使って喋っている姿。
トンボ眼鏡に近い大きな黒ぶち眼鏡をかけている。

モモエ探偵社代表 児島桃枝(コジマ・モモエ)

プロフェイールにはそう書かれていた。講演の内容を読むと技術的実際的な話が平易な言葉で語られているようだった。
さっそくモモエ探偵社のサイトへ行ってみる。
それによると規模は小さいが、二十数年前から業務を続けている老舗で、児島桃枝は代表権を父親から引き継いだ二代目にあたるらしい。社名はその時に変更されている。女性の名を用いることで、暗い興信所のイメージを払う効果を期待した。そういう例はこの業界では稀に見られるようだった。
社名変更以降、従来どおりの業務と並び、ストーカー対策やDV問題を得意としているとある。時代の趨勢だろうが、女性所長としての目配りも感じられる。
時間ばかり浪費するわけにいかないし、児島桃枝に好感を抱いたこともあって、和美はここに相談すると決めた。
柴山圭に連絡をとると、その女性人権団体はむろん旧知であるが、興信所のほうには面識がないと言った。ただし団体に手配をしてそちらから和美を紹介してもらうのは、何ら問題なしと請け合ってくれた。
圭は和美より年下であるが、さすがに大人であり、詳しい事情を説明せよとは求めなかった。
「どうもここの所、嫌がらせが多くてね」と議員の日常活動へ話題を変えてくれる。
「事務所への無言電話や脅迫電話は昔からやけど、自宅にまでかけてこようとする輩が増えてるのよ」
和美のような気心のしれた相手には関西弁がちょくちょく顔を出してくる。東京は大学かららしい。
「え? まさか卯高組関係?」
「うーん、たぶん別口だとは思うけど・・・用心に越したことはないわ。志方さんも注意したほうがいい」
「私なんか下っ端だから大丈夫だけど、会長の佐藤さんには言っておきますよ」
「佐藤のおっちゃんには言わないほうがいいんじゃない。これ以上、縮みあがったら消えてなくなってしまうわ」
きついジョークはそこまでとなり、追って紹介の日時などを連絡すると約束してくれた。
友人の配慮に、有希との距離が少し短くなったような気がして、ここ数週間の曇りがちな心に日差しが入ったようだった。
さらに好転は続いた。
R高校の生徒が電話をしてきたのである。
女子で、名前を山室沙耶香(ヤマムロ・サヤカ)という。
なんと陸上部に所属していたらしい。
彼女は志方有希先生の実家に、顧問の様子を尋ねるため連絡を入れてきたのだった。
娘はここにはおらずアパートを借りて一人暮らしをしているらしい、と和美が説明すると、山室沙耶香は非常に驚いた様子だった。
ネットワークを使っても、ようとして判明しなかった学校内での有希の情報が、向こうから飛びこんできたのである。しかも陸上部の子であるのだから、かなり詳しく事情に通じているはず。受話器を握りしめる和美の手に力がこもった。
「──陸上部で活動しているのね?」
和美は努めて落ち着き尋ねた。
「・・・正確には過去形ですけど・・・」
少女の可憐な声は消え入りたげである。
「おやめになった?」
「退部届けを出しました。三日前に・・・」
「そう──」
根掘り葉掘り問い詰めるのは得策でない。本人の話しやすいようにもっていくのが教育者としての心得だ。
「顧問の有希に・・・志方先生に提出したのね」
「正式にはそうすべきなんですけど、志方先生、一週間くらい前から体調不良で学校、休んでて・・・。それでコーチのほうに郵便で・・・送ったんです・・・」
何かとても罪悪感にかられたような声の調子である。
「あら、娘は休んでいるのかしら?」
「ご存じなかったんですか。私、心配になってそれでお電話を・・・」
「どうもありがとう。志方先生も素晴らしい教え子に恵まれたみたいね」
「いいえ。とんでもないです──」山室沙耶香の声はますますか細くなっていく。「──先生が体調を崩されたのも、元はと言えば、私の責任みたいなものですから」
「それは、どういうことかしら。いえ、あなたを責める気なんて私には少しもないのよ。ただ、最近、娘の様子に色々と腑に落ちないことがあって、一つひとつ確認してみたいと思っていたところなの。協力して頂けると本当に助かるのだけれど・・・」
和美は正直に心情を吐露することにより、山室沙耶香の信頼を得ようとした。かなり心痛が深いようではあったが、短い電話の受け答えの中から、彼女は本来しっかりとした常識をもち、大人とも会話を成立させる自我をもっていると判断した。この機会を逃してしまうのは致命的な失敗に繋がるような気がして、和美も必死である。
「・・・最初は・・・私がコーチに渡すメディカル・チャートを出し渋って・・・それでコーチに怒られて・・・それを志方先生が庇ってくださって・・・それがすべての始まりで・・・」
「メディカル・チャートというと?」
「・・・あの・・・女子部員は全員提出が義務なんですけど・・・生理の周期とか書くやつなんですけど・・・」
そこで山室沙耶香は嗚咽を抑えきれなくなった。嗚咽の波が言葉を飲みこんでしまう。状況を説明しきれずに、一足飛びで結論にしがみつくような取り乱しぶりである。
「・・・志方先生がいたから・・・何とか私・・・ここまでやって来れたけど・・・先生が長く休むんだったらとても耐えられないし・・・もう限界と思って・・・退部届けを・・・郵便で・・・それも内容証明付き郵便で・・・」
「──そう、長く大好きな陸上をやってきたのに、さぞかし残念だったでしょうね」
優しい言葉をかけ、有希の話を尋ねようとする。
「コーチと顧問はあまり仲が良くなかったようね」
「・・・ええ・・・それはもう・・・最後は志方先生はパシリのようなこともさせられて・・・」
「──っ」
パシリ?
いじめられている生徒がやらされる、あれ?
それが事実だとすると、敵対関係といっても、同じ土俵に乗った闘いを通り越して、一方的に人格を抑圧される従属状態に置かれていたことになる。
全身が慄えてくるのを感じる。
是が非でも山室沙耶香からすべてを聞きださねばならない。
しかしそれは電話ではやはり無理のようだった。冷静に記憶──自分の恥になる部分もあるかもしれない──を話すのは、孤立した状況では困難である。実際に会って、手を握ったり肩を抱いたり、スキンシップを図りながら味方になってやらないと、信頼は生まれず安心して話せまい。女子高生はそれを求めているのだろう。
はやる気持ちを抑えて、和美は彼女に電話ではなく、どこかで対面して会話をしようと提案した。
山室沙耶香もそれを受け入れ、二日後の予定を約束してくれた。
最後は二人ともはっきりした言葉で別れを交わしたのである。

高速の立体交差と、地下鉄の地上部分の高架橋が、ヒトやモノの流れをくぎり、まるで人間の欲望を界隈として堆積していった、都市の中州のような場所──
街路樹を探すのすら難しい、コンクリートとスチールで大方ができている中層ビル群街区──
陽炎が立つ、体温並みの気温の一日──
翌日、和美はモモエ探偵社の入居しているビルを訪れた。
直視しようとすれば網膜が惑乱する歪んだ天空の太陽と、ヒートアイランドの地面からの照り返しとで、彼女の繊細な肌は鰻の肉のように炙られ、腋や背の腰あたりから脂汗を融かしだしていた。
銀メッキの郵便受けが壁一面に積み重なったビルの一階で、ようやくひんやりした日陰にありつける。
しかし和美の気持ちは怒りと猜疑心から晴れることはない。
教師である有希がパシリをさせられていた──
山室沙耶香から告げられた言葉が脳裏に刻まれて離れない。
屈辱的な意味にちがいない鉢巻きやゼッケンを身につけた、言語道断のユニホーム姿も瞼から消えずに残ったままだ。
だからここへは、もう少し後になるはずのスケジュールをやや強引に前倒してやってきた。
探偵社の都合もあろうが、柴山圭からも口添えてもらい、急きょ実現させた。
事態は深刻だとはっきり悟ったからである。

モモエ探偵社──
窓が曇りガラスを使用しているのを除けば、何の変哲もない応接室に通された。
まもなくやってきた女所長は小柄な背丈をぴんと伸ばして和美と握手した。
児島桃枝は思ったとおりエネルギッシュな人物である。
160センチほどの和美より頭一つ低い身長だが、肩幅と腰幅があって馬力を感じる容姿だ。
着込み倒した紺のジャケットに白シャツの襟を返し、金鎖のチョーカーが細く覗く色白の胸もとは豊かなふくらみを予感させるものであったし、履き古した黒のスラックスにねじこんだ下半身は、事実、豊満であった。
ネットで閲覧した写真ではオカッパ頭だったが、今回はひっつめで黒眼鏡もしていない。
それを尋ねると女所長は、薄い瞼への化粧によって──頑張って──画然と見せているつぶらな瞳をほそめ、綺麗な歯並びを表して笑った。
「あれは一種の変装でした」
「変装?」
「この仕事は面がバレると、やり辛くなる部分が、たしかにあるのですよ」
なるほどそういうものなのか。所長直々に前線で探偵活動をするのらしい。
「ええ、うちの会社は小規模ですからね。私を含めて常勤の調査スタッフは五名です。ですので私自身も普通に仕事に参加しますよ。しかし必要があるなら人員を増員する方法も備えていますので、ご心配は無用です」
和美の担当も、懇意にしている団体からの紹介状もあり、所長自ら担当するという。
女探偵・・・ミステリアスな雰囲気もあるのかと勝手に想像したが、オーラの種類を詮索すれば、叩き上げの中小企業の社長といったほうが当っていよう。
二人はテーブルを挟んで長椅子に熟女の尻を下ろした。
さてどこから話したものか・・・。
調査票を広げ、依頼内容を書きこむ用意をした桃枝に和美はしばらく呼吸を整える。
「・・・じつは教員をしている娘のことなんですが・・・」
考えてきたつもりだが、うまく話すとなると難しいものである。しかも自明であり根拠のある教科を講義するのとはわけがちがう。家族のプライバシーの絡んだ事実を、憶測を交えた推理とともに、探偵の必要な疑惑として他者へ伝えなければならない。迷った末、R高校の陸上部の話も加えた。娘の『家出』と関連があるかどうかははっきりしないのだが、この際すべてを伝えたほうが万全のように思えたのである。ただ山室沙耶香の件はまだ対面していないこともあり控えた。
一時間近くに及ぶ和美の説明と所長による聞き取りがなされた。
「すなわち──」と桃枝は最後に整理する。「志方有希さんの所在調査と行動調査、愛人関係と目される男性の身元調査を──必要なら素性調査および行動調査を含めて──行う、ということでよろしいですか」
桃枝は凛々しいメイクによっても演出された表情を和美へ向ける。きわめて事務的に事実のみに視点を当てる表現である。
「はい・・・。調査に難しい部分はありますか」
と和美は尋ねた。出された麦茶にも手を付けていない。
この依頼人のクオリティは高いと桃枝は見切った。
興信所にとって依頼人は客であるが、この業種の性質上、彼らの感情や心情は複雑である。話した内容がすべて真実であるケースは少ないし、すべての事実をありのままに話すケースはさらに稀と言わざるをえない。だから探偵たるもの、短い時間のこうしたガイダンスから、彼らの背後に潜んでいる葛藤の濃淡や大小を見通し、調査の過程に反映させて行かなければならないのだ。
所長としての長年の経験と勘は、志方和美の言葉に質の高さを認知した。視線の美しい元学校教師は純粋に娘を案じる気持ちを語っている。
ならば自分も自信をもって依頼人のために働ける。危険を伴う展開も有り得る探偵稼業に、この信頼はたしかな地歩を与えてくれるだろう。
「・・・調査に難しい部分はありますか?」
「うん、もちろんこの段階で100%を請け合うのはやってはいけないことですが、この案件では、通常の家出人捜索よりも容易であることが予想できます。夏休み期間であるとはいえ、有希さんはれっきとしたR高校の現職教師であり、通勤している明白な事実もあるわけですから、そこから辿れば居住先は短期間で判明すると思われます。有希さんがその金髪青年と同居している場合、青年の身元を追跡するのもそう難しいとは思われません。懸念材料があるとするなら──」
しかし桃枝は一つも表情を変えず淡々と話す。
「──金髪青年と陸上部のコーチ、中西益雄氏とが、何らかの関係を結んでいた場合です。常識的にみて、結託することにどんなメリットがあるのか、なかなかイメージできませんが、そうであるからこそ、関係が事実であれば、そこから予測不能な事態に発展して調査に支障が出る危険性も考慮しておかねばならないかもしれない。しかしそれはあくまで大きくない可能性であって、それ以上でもそれ以下でもないと、今のところお含みおき頂きたいと思います」
てきぱきとした分析は頼もしいと和美はまず安堵する。
柴山圭といい児島桃枝といい、現代のプロの女性なのだ。自分らの対象へ、何ら臆することもしないが、かといってエキサイトするわけでもない。すなわちプロフェッショナルなのである。
その一人に有希も入っていたはずなのだが・・・。
桃枝は次に料金について説明した。
和美にとって少なくない負担だったが、覚悟してきたものである。娘の安否にかえられるものなど存在しない。
それに事前に確認していた『相場』と比較して良心的といえるかもしれなかった。
「そうですね。女性が被害者と推定できる案件については、多少勉強さしあげるところはありますね。もっとどんどん行動を起こしてもらいたい、そういう願いもありますので」
さすがにDV問題の集会へ参加するくらいのポリシーの持ち主である。
「しかし志方さん──」調査票を固いフォルダにしまい込みながら桃枝は静かに続けた。「──何度も言ますように、現段階ではほとんどは推定にすぎません。我々の調査の結果、お嬢さん本人の名誉を傷つけ、ご家族の信頼を甚大に裏切る事実が確定されるかもしれません。そうであっても我々は何一つ隠さずに結果をお伝えすることになります。依頼者の中には感情的になるあまり受けつけない方もいらっしゃいます。お嬢さんは現職の教師でありますので、その可能性は低いと思われますが、覚悟だけはお持ちになっていただいたほうが宜しいでしょう」
和美は頷いた。
「自分の育てた子です。すべては自分の責任と腹をくくっております」
桃枝も頷き、メイクのテーマを忘れた、人懐っこい素の笑顔になった。
「大丈夫ですよ、我々はこれからすぐに仕事に取りかかります。お母さんの期待に一刻も早く応えられる体制で挑むとお約束します」
ミニサイズの営業規模とは裏腹の強い自負と深い抱擁力が彼女の全身から伝わってくる。人を納得させる迫力をじゅうぶんに輝かせていた。
モモエ探偵社に依頼した自分の選択は間違っていないと確信した。

山室沙耶香との待ち合わせ場所には、あるホテルのロビー・ラウンジを指定していた。
彼女が学生であるのを考えれば、喫茶店やファミリーレストラン等が適当かと思われたが、そういう市井のフリースペースでは、万が一、R高校生が紛れこんでくる虞れもある。内容が内容だけに、それでは安心して話ができまい。
このホテルの利用者はビジネス客や外国人観光客がほとんどなので、そうした心配はしなくていいわけだ。
小上がり風に仕切られた伊太利亜料理店もある。密会には最適だろう。
さすがに場末の中古ビルの探偵社とはちがい、豪壮な吹き抜けの造りのロビーには冷房も適度に効いている。
和美は正面エントランスが一望できる位置のソファに腰掛けて待つことにした。
所定の時間を十五分過ぎたところで、白いブラウスに紺のスカートを履いた女子高生風の娘がエントランスに歩いてきた。目印としてR高校のロゴのついたボストンバッグを下げることになっていたが、彼女の肩にもエビ茶色のバッグがかかっている。
ショートヘアで、かなり体格も良い彼女は周囲をキョロキョロと見回している。
山室沙耶香にちがいあるまい。
和美は立ちあがり、近づいた。
彼女も気づいたようだ。真っ黒に日焼けした顔をこちらへ向けた。
「山室さんかしら──」
「志方先生のおふくろさん?」
声がちがうような気がする。電話ではもっと高い声だったはずだ。この子は太くてハスキーである。
「志方有希の母ですけど、あなたお名前は?」
「たしかに鼻の形はそっくりだ。血は争えないもんだって、コーチの言うとおりだったわ」
「・・・」
別人だろうと断定する。山室沙耶香にはこんな無礼な態度をとる必然性がない。
和美が目つきを鋭くするのを彼女は面白そうにすかしている。
「私、R高校陸上部の一之瀬ですけど、沙耶香、今日、来ませんから」
「んっ?」
「今日から合宿所です。夏のゼンゴーに参加しますので。ゼンゴーってのは『全力合宿』ってこと。まあ、娑婆の言葉でいえば、夏期補習、かな」
「補習・・・。おかしいわね。山室さんは部活動をやめたって・・・」
「それは結局撤回することになったってわけ。あいつ、自分の意見が通らなきゃ辞めるってギャーギャー大騒ぎしてさ。まあ、結局、条件闘争よね。コーチの気を引くための」
まさか──和美は電話から聴こえてきた山室沙耶香のか細い声を思いだす。ヤマっ気のある底意は感じられなかった。
有希に続き、またしても転向者の出現だろうか。
「それであなたが代わりに私に会いに?」
そうそう、とアッケラカンに肯定する一之瀬。
「この糞暑い中、青春を捧げた大事な部活を中断して、わざわざ来てやったってわけ。なので、お茶くらい奢ってくれてもいいじゃん。せっかくこんな三ツ星ホテルなんだし」
この娘をまだ帰すわけにはいかないと和美は思った。山室沙耶香の件も有希の件も、一粒の情報だって収集しなければならない状況である。
さすがに伊太利亜料理店は候補から却下し、喫茶コーナーに移動する。
一之瀬はボーリングのピンほどもあるフルーツパフェを頼んだ。
和美は運ばれてきた冷珈琲を脇に置く。
「ここへ来たのは山室さんに頼まれたから? それともコーチの命令かな?」
特製のパフェスプーンをひと舐めする一之瀬。
「・・・おばさん、ナニ嗅ぎ回ってんの」
「嗅ぎ回る・・・穏やかじゃないわね。・・・私も教師だったのよ。それで同じ職業である娘の働きぶりが気になるってわけ。普通でしょう」
疑わしい目つきの女子高生。しかしパフェの甘さと冷たさに目尻が下がる。
「まあ、あんまり気にしないことですよ。今では全部、うまくいってんだからさ」
「今では? 過去には何かあったってことかしら」
一之瀬は和美のその問いをまったく黙殺してパフェを食べまくる。挙げ句の果てには携帯電話をとりだして、誰かと通信し始めもする。彼女の携帯は許可されているようだ。
「──そうそう──今会ってんの──」
当然、一之瀬側の声は耳へ飛びこんでくる。電話側の声はノイズのようにしか聴こえない。
「──おふくろさん──そこそこ見られる顔だよ──今、写メ、送るね──」
いきなり携帯をかざし、和美の顔へ押しつけんばかりに近づける。極小のカメラが作動してフラッシュが焚かれると同時にシャッター音が鳴った。
「ちょっと・・・」
あまりの傍若無人ぶりに和美は不快感を眉間に漂わせた。
「──どう?どう?──うん、似てるよね──そうそう鼻──フィジカル? フィジカルなんてわからねぇよ。一緒に風呂にでも入らなきゃさ──ククク──同感──ククク──熱湯風呂──私いまでも時々思いだして吹いてんの──おでん?──いややっぱお風呂っしょ──ああいうのって運動神経トロい奴にやらせてこそ、だよね──そうそう──リアクション芸がさ──」
延々会話を途切れさせないばかりか、パフェをほじくるスプーンの動きも休みなし。
奢ってくれたスポンサーの質問ばかり受けつけず、ただ思わせぶりな視線をこちらへ飛ばしてくるだけだ。
しかも、やっと電話を切ったかと思えば、すぐにゲーム機を取りだしてピコピコやりだす始末である。
「あなたはそのゼンゴーとやらに参加しなくていいの」
「レギュラーだから必要ないんですよ。まあ、たまに覗きに行きますけどね」
巨大パフェが半分になっている。
「合宿所って都内だっけ」
「知らないんですか。志方先生にお聞きになればいいじゃないですか」
「その娘となかなか連絡が取れなくて。いま合宿所にいるのかな。合宿所に入ると携帯を没収されちゃうって校長先生に教えて頂いたけど」
「没収なんて歪曲ですよ〜。撤回してくださいね〜。生徒が自主的に保管を願い出るってことはありますが、顧問の先生の携帯なんて自由ですよもちろん。一番のお偉いさんなんだし」
アイスクリームが融けだしてきたので、一之瀬はゲームを横において一心に平らげにかかる。
「本当にお偉いさんだなんて思ってる? 顧問としてリスペクトしてる?」
和美の追及に一之瀬は何故か吹きだしそうになった。あげく咳きこむざまだ。
「・・・沙耶香がどんなこと喋ったかは知りませんけど、おばさん、チョー誤解してますって。志方先生ほど我々陸上部に献身的に尽くしてくれる顧問はいませんから。部員全員、菩薩のように慕ってますから。コーチもマジ感謝してます。リンリンこそ──これって【勇気(有希)凛々】からとった志方先生のニックネームです──リンリンこそ陸上部の潤滑油だ、躍進の立役者だって」
ときおり横隔膜を引き攣らせながらそう言うと、バッグから封筒を選びだした。それには数枚の写真がしまわれていた。
一之瀬は一枚一枚、確認した後、和美の眼前へ突きつけた。
「大会があるごとに記念のショットを撮るわけですが、ほら、これなんか・・・先月、だったかな」
その一枚は、いわゆる集合写真で、おそらく男女の部員全員が並んでおり──前列が坐り、後列が立った構図。前列同士、後列同士全員が固く肩を組んでいる──その中央にいるのが有希であった。
上下ジャージ姿──もちろんエビ茶色──の有希は中腰の姿勢であったが、両側から巨体で坊主頭の男子部員二人にぴったりと挟まれていて、女教師のそれの倍はあろうかという寸法のニキビ顔面に、両頬を密着されていた。
「教師と生徒、上級生と下級生、男子と女子、垣根をとっぱらった青春のナイスショットってところかなぁ」と一之瀬。
たしかに全員が笑顔であるのはそのとおりだが、有希の表情はサンドイッチがきつ過ぎて左右から潰されていると言ってよく、笑っているとも泣いているとも、両方に取れる微妙な目鼻立ちになっている。
「この二人、陸上部員って本当? 柔道とかの選手にしか見えないんだけど・・・」
「投擲の選手ですって。一番やっちゃいけない歪曲だわそりゃ」
謝ってくださいよという一之瀬に曖昧に答えつつ、和美はさらに写真を検証する。
「──ちょっと待って。娘の目の下に見えるのは・・・暈(くま)・・・かしら」
有希の容貌に重大な変化を発見したようで、和美はくっきりした双眸をしばたかせた。本来、あるはずのない翳りが下瞼の底にくすんでいるのではあるまいか。どんなに激務に晒されても、有希の若さは美容に影響が出るような健康の滞りを持たなかったはずなのに・・・。
しかし一之瀬は写真をすぐに引きあげてしまう。
「ちがうちがう。これ笑い皺。志方先生もチョー喜んでたから、写真映りまでは気にしてないって」
「・・・それにしても頬ずりって・・・男子二人にハグ以上の抱擁というのは、行きすぎだわ」
和美の指摘に一之瀬はそっぽを向いた。
「じゃあ、志方先生にそう伝えておきますよ。これは先生のほうからのアイデアでしたからね」
「娘の?」
「そういう『筋の人』でしょ彼女。共同サンカクだかシカクだか、それでいつもコーチと──」
そこまで言って肩をすくめた彼女はさらに一枚を見せびらかした。
「マジ感動! 優勝者や好記録が出るたびに全員に胴上げされる志方先生。日ごろ、部員が顧問にどれほど感謝しているか、完璧に理解できるショット!」
胴上げ写真は三枚もあった。場所がそれぞれちがっている。
最初が室内。
数名の両手を掲げた男女部員の頭上へ、一気に飛びあがっているジャージ姿の女性が映っていた。万歳している猫背を下から撮るアングルであるし、結んでいない黒髪が空中にバラけているせいもあり、顔は見えなかったが、身体つきからして大人であるのは理解できる。
「・・・っ」
唇を噛む和美。有希にちがいなかった。
大部屋・・・合宿所の一室・・・。
とにかく広い部屋ではあるものの天井までの高さは一般的──二メートル程度──だから、かなりの勢いで胴上げされている彼女は今にも天井に衝突しそうなのだ。
通常、胴上げでは落下に備えてそんなに高く放りださないし、誰かが衣服のどこかを握って高さを調節するものだろう。
この写真ではそうした配慮がいっさい見られない。ひょっとすると、これは衝突した直前か直後か、そのどちらかを撮影したものかもしれなかった。
次は体育館。
カメラは高見の位置。演壇あるいはレフェリー台の上だろう。
男女部員の数が倍になっている。
有希の高さも印象としては倍だ。
さすがに天井までには余裕があったが、ちゃんと受けとめられるのか疑わしいほどの空中にまで上がっている。
黒髪が舞っているのは一枚目と同じだったが、服装はジャージではなく、エビ茶色のブルマーに半袖の白シャツという体育着。
背中のシャツはまくれ、小麦色の肌にうっすら貼りつくような背骨の元──骨盤との交わりの仙骨あたりがあらわである。いくぶんブルマーも下がり気味で、日焼けしていない真っ白なウエストラインも覗けてしまっている。それは腰に巻きつけられた縄の牽引力によってもいるようだ。凧を繋ぐ凧糸の役割──その縄の逆端を地上の部員たちの誰かが握っているのである。
しかしその命綱がちっとも彼女の安全を保障していないことは、万歳の両腕や両足が中途半端にしか伸び切っておらず、恐怖に萎縮しているように感じられるところから考えても、明白だと和美は思った。
最後が屋外。グラウンドだろう。
「──これはちょっと、勢い余ってひっくり返っちゃったのよね」
一之瀬はケケケと嗤いながら弁明する。
この写真の有希は空中に浮かんではいない。部員たちの掲げた二十本近くの『手のマットレス』に乗っかっている状態だ。ただし鉢巻きを締めた顔面は、雲一つ見当たらない紺碧の空へ向けられているのではなく、地面へ、教え子たちが歓呼の声をあげていると察せられるその表情へ向って、うつぶせの格好になっていた。
一人の部員の伸ばした片手が、親指と人さし指の股に有希の華奢な顎を挟んで、相撲の技でいう『のど輪』の形に決まっていた。
そうであるから、今回は彼女の表情もはっきりしている。頭髪も──ボサボサであったが──『研修中』のあの鉢巻きのおかげで眉から下には落ちていない。
苦悶・・・そう断言してかまわない。
有希は苦痛に叫び、恥辱に煩悶していた。
「またぁ〜歪曲するぅ〜。まあ、苦笑って感じはするけどさ。ちゃんと喜んでる体(てい)じゃん。不可抗力にそんなに目くじら立てたってさ、おばさん。なんかこう倦怠感ある? それきっと更年期だよ。生理まだあんの?」
「歪曲じゃないわ。いったいこれのどこが『喜んでる体』だっていうのっ」
さすがに自制が切れて、一之瀬から写真を奪いとると、和美は眦を吊りあげ凝視した。
イモ貝の足のような部員達の掌──女子もいたが背丈の平均が勝っているのだから、けっきょく有希の身体を支え担いでいるほとんどは男子部員達となる。つまり女性教師の顎ばかりに男子の手指が食いこんでいるわけではなかった。鉢巻き同様、有希の衣裳は和美がR高校の正門前で目撃した、あのスプリンター用ぎりぎりセパレートユニホームであって、露出の多い身体の至る所──二の腕、手首、膝、ふくらはぎ、足首は荒々しく素手掴みされている。
まるでいっさいの抵抗を封じるが如きにしておいて、彼らの一人の思いきり開いた掌が、ユニ・トップの胸にあてがわれ、柔らかなふくらみを押しつけるようにしているのがわかった。表面積の狭いトップの胸もとから、酷暑の熱射を免れた雪白の乳肉がドーナッツのようにふくれだしているのだ。成人女性平均とはいえ、有希のバストは揺れて困るほどの肉量でも肉質でもないのだから、それほどのドーナッツ状にされてしまうとは、男子の手腹の押しこみの容赦なさが窺えるというものである。
このカメラアングルでは女性の急所付近への狼藉は捉えられていなかった。
しかし鼠蹊部の毛穴が露悪するほどのボトムのあのカットラインが、男子達の興味の対象にされぬはずもない。バストへの痴漢行為が容易にそれを類推させるだろう。
有希は──娘は、胴上げの名を借りた陵虐を受けているのである。
「返してちょうだいよ」
一之瀬は敏捷な動きで和美から写真を取り返した。
「・・・あなた達はいったい娘に何をしたの・・・」
和美は今すぐ警察へ通報するために駆けだしたくなるのを、ぐっと堪えながら声を押し殺す。証拠は何一つない。この写真だって、一之瀬の弁明のようにシラを切られれば反論できないだろう。有希の複雑な表情はどうとでも説明できてしまうのである。
「何って何も。事実を歪曲して嗅ぎ回って、伝統ある我が陸上部を侮辱するようなことをしているのは、おばさんのほうでしょうって」
「歪曲? じゃあ答えてほしいわ。最後の写真で娘が着ている衣裳──あれは何? 教員がするものじゃないわよね」
「まあまあ、おばさん。そんなに真っ赤になるほど怒ったらまた皺が増えちゃうよ。血圧降下剤でも飲んだら」
「誤摩化さないでちゃんと答えなさいっ」
「マジ萎えるわ。モンスター・ペアレントの教育現場への介入!」
二人のやりとりに喫茶コーナーの客が気づきだした。和美がたじろいで言葉を控えると、一之瀬はゆったりしたシートに背をもたれて伸びをする。が、腕時計を視界に入れるとびくっと身を起こし、110番するように携帯電話の番号を打った。
絶対に欠かせぬ定時連絡──そんな雰囲気である。
「お早うございます!」
その瞬間だけ、背筋が通り、深々と最敬礼した。他者の目など一切おかまいなしのカルト内儀式に突入している感じ。
「二年次、一之瀬佑香、ご報告いたします!」
この態度からして相手はコーチであろうと和美は直感する。
中西益雄──。
彼女の手から携帯を奪いとり、じかに怒鳴りつけてやりたい衝動に駆られた。すべての元凶はこの男なのだろう。
一之瀬は和美に意図的に聞かせるように、志方教諭の母親が、いかに歪曲と誤解に満ちた偏向的な思考に終始しているか、いかに傲慢な言動で陸上部への中傷を連発したか、伝えている。
和美が口を挟もうとするや、うるさそうに手を振り、これでも拝んでいろとばかり、また一枚の写真をさしだした。
無視しようとしたが、和美の視線はそれに引きつけられ、動かなくなってしまう。
さきほどの体育館だろう。
真っ白なトレーニングウエア姿の角刈りの男性がベンチに坐っている。体格の剛健さは一目瞭然で、ウエアの上からも筋肉の隆々とした盛りあがりが見える感じだ。鉄の胸板に組んでいる両腕の赤銅色の皮膚が精悍で、太く濃い眉と眼つきの威迫さとともに、彼の生命力が今まさに人生の全盛を迎えている証にちがいなかった。
これが中西コーチ──。
そしてその彼の横に、上体を90°に曲げ、彼へ向って最敬礼する体育着姿の有希がいた。
完全なる靡然──こう評する以外、娘の姿から受ける印象はないのだった。
何らかの脅迫を受けて、強制的にとらされた格好であるか無いか、判定する材料はこの写真の中には一つも写っていないのにかかわらず、どう言えばいいのだろう──そう、二人の肉体から発するオーラの等級の格差が歴然としすぎていて、目撃する者に鮮明なメッセージを突きつけてくるわけだ。

益荒男子の貫禄に平伏する貧弱な小娘。

一方は日輪のような覇気を発散し、一方は負け犬根性とともに縮みあがっている。
どう観たってそう映る。
一種のプロパガンダ写真なのだろうか。二人の関係を強烈に叫んで勝利の宣言とし、敗北者のシンパを沈黙させるための統治・統制の手管かもしれない。
和美が慄然としてそれを眺めているうち、一之瀬は電話を切った。
「さーて、そろそろ行かなくっちゃ。練習に間に合わなくなるし」
「・・・この人が中西コーチね。今の電話の相手もそうでしょう。何もかも彼の差し金ね」
一之瀬は和美の眼前から写真を引き剥がし、代わりに用紙とペンをテーブルに置いた。
「おばさんのウザイ台詞はもう耳に入れたくないんですけどぉ。あとはコーチとガチでトークでも何でもしてくださいよ。ただし、これにサインして提出してからじゃないと会うつもりはないんだってさ。まあ、当然だわ。自分を犯罪者扱いした人間と謝罪もなしにまともに話す気なんて、そうそう起こらないものね」
一之瀬が指し示す用紙にはこうワープロで打たれていた。

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『誓約書』
一、私、志方和美は、R高校陸上部コーチ、中西益雄氏に対し、いわれなき嫌疑をかけ、人権侵害に等しいプライバシー調査を決行し、収集した情報を歪曲し、同氏を犯罪者扱いした事を認め、謝罪いたします。今後は前言を払拭する事に努め、同氏の人格を尊重し、業績を尊敬し、実像を啓蒙する事により、同氏の名誉を回復する事を誓います。

一、私、志方和美は、R高校陸上部の名誉を、流言蜚語をもって冒涜し、信頼を地に落とそうと画策した事を認め、謝罪いたします。今後は同部の活動を良く理解し、活動を応援し、発展に寄与することを誓います。
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和美は思わず失笑してしまうのだった。こんなヘンテコリンな文章をあの厳つい体育教官がキーボードへ向って作成したのかと想像すると、呆れる前に微笑ましくさえなる。
「最後の行に署名すれば、念願のコーチとのお目通りが叶うってわけ。どうするの?」
立ちあがった一之瀬の視線を睨み返しながら和美は思考を巡らした。
敢然と拒絶するのは簡単であるし、そうするのが道理に決まっている。親が娘に会おうと努力して何が悪いのか。
しかし──和美は喉まで出かかった威勢の良い言葉を飲みこんだ。
「サインをすれば本当に彼に会えるのね」
代わりに発した声は沈着なものである。
一之瀬は頷いた。
「人物ができてるから。筋が通れば寛容ですよ。でなきゃ誰もついていかない。志方先生もこんなに懐かないでしょ」
「わかりました。サインをして明日、郵送します。それでいいわね」
こんな笑止千万の似非書類にサインしようがしまいが何の影響ももたらさない。それよりも有希の安全である。それに繋がるなら自分のプライドなど幾らでも捨てられる。ただし、児島桃枝に一言相談しておくのが賢明だろうと和美は考えた。彼女なら更なるアイデアをもたらしてくれるかもしれない。そのための一日の猶予である。
「そんなのそっちの勝手だけど、大事なのは誠意だからね、おばさん。そういうとこに厳しいからうちのコーチ。リンリンも、初っぱなからガチでそれを教えられて──」
一之瀬はそこで口をつぐみ、一瞬だが和美を見る目つきに影を浮かべた。その影が何を意味するのか──同情? 憐憫? まさか哀悼に近い感情?──憶測の域を出ないものの、三十も年下の若者に自分の行く末を見通されているようで驚いてしまう。
「親子の血は争えないってか」
バッグを担ぎ直した自称アスリートは和美に背を向けながらそう言い残して立ち去っていった。


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