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1-2-2 タイガー・圭

志方家が住む地域は、マンションやアパートが軒を連ねる居住地区と、古くからの町工場や商店街が混在した下町の雰囲気を残してもいたが、それでも夜の盛り場などは発展しておらず、至って穏やかな歴史を営んできていた。
それが最近、駅前地区を中心に再開発の計画が浮上し、住民を二分する騒ぎとなっていた。
和美が理事を務める町内会の区域では、人の流れの変化をあてこんだ遊興施設の建設が取沙汰されておりキナ臭さは一層である。施設はパチンコ店や飲屋街といったものが中心で、それだけなら目をそばだてるほどではないのだが、デベロッパーの一つに暴力団との関係を噂される企業が入っているとの情報もあり、ならば最悪、性産業の進出もあるのではないかと、色めき立っているわけである。
連日のように対策会議や勉強会が開かれ、和美も中心メンバーとして忙しく立ち働いていた。
今夜も市会議員に出席を求め、会議が遅くまで開かれていた。残念ながら和美らの要請に応えて足を運んでくれたのは、柴山圭(シバヤマ・ケイ)という女性市議一人だけだった。じつは市長や市議会のレベルではほぼ再開発賛成で固まっており、彼女のような少数の市民派議員だけが異を唱えているという情勢なのである。
それでも政治家が一人でも参加してくれれば運動にも弾みがつく。
「いえいえまだまだ希望はありますよ」
ひな壇の席に座った細身の女性が言った。軽くウエーブのかかった黒髪が紺色のジャケットの肩に届いている。同色のズボンに包まれた下半身を無機質な折り畳み椅子に乗せ、膝を揃えた二肢を上品に傾けている。
「エンタープライズ悠善と卯高組(ウダカグミ)の関係がはっきりすれば、再開発計画に打撃なのはたしかですから」
関西弁のイントネーションが若干感じられる口調である。
エンタープライズ悠善とは例の疑惑のデベロッパーのこと。市議会ミニ会派ではあるものの、様々な妨害にもめげず、こうした疑惑を暴いたのは彼女の功績だった。
「卯高組・・・」
誰かが有名な暴力団のその名を怖れとともに口にする。たしか九州で暴力団追放運動をやっていた代表が狙撃されたというあの事件は卯高組でしたよねぇ、と囁き声が聴こえてくる。ヒソヒソ話は市議の発言の最中も途切れない。
──そこまでいかなくとも脅迫電話や頼んでもいない寿司が大量に送りつけられるみたいな嫌がらせは普通なんじゃないですか。
──夜道は人通りの多いとこを選んで歩くようにしてますよ。
──うちは娘がいるもんだから家内が怖がっちゃって取りなすのにひと苦労です。
──ペットも用心したほうがいいですよ、狙われやすいそうですから。
──可哀想なのは代表の佐藤さんですよ、ブルっちゃってこの頃は会の仕事をほとんど志方さんに押しつけているっていうじゃありませんか。
──まあ女性のほうが暴力団にとってはやりにくいでしょうから、大目に見てやらないと。
──それにしても志方さんはやり手ですな。市会議員を担ぎだしたのも彼女の尽力でしょう。佐藤さんじゃこうはいかないし。
──でも、あの柴山って議員はどうなの? 警察の腐敗を追及するなんて大見得切って当選したけど、今回のように暴力団絡みじゃ警察の協力も仰がないとどうしようもないのに、かえって逆効果なんじゃないですか?
──あんなに美人なのに、いまいちマスコミの扱いが低調なのは、そっちのスジが影響しているとかいう・・・渾名がタイガー・圭って・・・別れた旦那の身元も政治絡みらしいとかさ。
──美人といや志方さんもでしょ。最初に彼女の年齢を聞いたときは耳を疑いましたよ。あと胸に詰め物をする『常識』さえわきまえてくれれば、この会の出席率、まだまだ増えるんだけど。
──いっそ代表を彼女にやってもらいますか。ひな壇の中央に居てもらったほうが目の保養もしやすし。
──ま、とにかく商店街の鼻先にハイパーモールみたいのができれば、ウチラとしては首縊るしかないんだから、せいぜい反対運動していきましょう。なーに恐いことはぜーんぶ女闘士さんたちが引き受けてくれますって。

・・・和美の耳にも会を開くたびにこうした本音とも冗談ともつかぬ声が聴こえてくるようになった。議員や自分に対するセクハラ一歩手前の猥談など妥協してもかまわないが、やや気がかりなのは運動の勢いが以前ほどではなくなっているという印象のほうだった。どこの住民運動も一枚岩ではありえない。この地域特有の雑多な構成も影響して、それぞれ立場のちがう者が参加しているのだから尚更である。卯高組の名が漏れてきたのをきっかけに表向きには盛りあがったが、しだいに事の深刻さに気がつき始め、小さな動揺を来しているといったところだろうか。モザイク状の団結は失速するとあっという間にバラバラになる性質を持つので恐かった。
その辺りを含めて、和美はCPCP運動を通じて知己でもあった柴山圭に少しでも彼らの不安を和らげるよう、発言を依頼したのだった。
圭は今の段階で卯高組本体が何らかの行動を仕掛けてくるというのは考えにくいと説明した。彼らはまだエンタープライズ悠善との関係を隠しおうせると判断しており、尻尾をつかまれるような動きは控えるだろう。こちらとしてはその隙に一般住民が納得できるような明白な証拠を握り、一気に反撃する作戦でいくのがいいと思われる。だからそれまでは卯高組をちょくせつ指弾するのではなく、再開発計画そのものを批判したほうがいいだろう。
彼女の親しみの持てる語り口は自信に満ちており、対応策にも説得力があったので、会は久しぶりに前向きな雰囲気を取り戻したように見えた。
拍手とガンバローの声が威勢良く上がって、夜遅くに無事終了した。
圭と今後のスケジュールについての簡単な打ち合わせをした後、彼女を送りだし、それから大急ぎで会場の後片付けを済ませ、ようやく帰宅したのが夜半零時を過ぎた頃であった。
照明がついていなかったので、てっきり有希は先に寝てしまったのだと思った。彼女は相変わらずハードワークを続けており、自分もこの調子である。話す時間はおろか顔をあわせる暇も少なくなっていた。
和美は忍び足でリビングに向い、照明をつけた。
シャワーを浴びてから床につこうとしたが、そういえば玄関に有希の靴がないのに気づく。そしてリビングテーブルの上に置かれている見慣れぬ白い便箋が目に入った。
短い文章が書かれている。署名以外、ワープロの文字である。

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お母さんへ。
アパートの部屋を借りてそちらに住むことにしました。
忙しくて急になってしまいご免なさい。
詳しくは後で連絡します。
有希より。
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まさに青天の霹靂で和美は疲れを忘れるほど驚いてしまう。
有希の部屋を覗きに行くのも小走りになるほどだ。
空っぽの六畳間──。
本棚やベッドを含めて家具は一つもなく、ゴミ箱すら運びだされている。
若手教師の暮らしていた痕跡は何一つ残っていなかった。
その空虚感に圧倒されてしばらく立ち呆けてしまった。
なんとかリビングへ戻り、置き手紙を読み返してみた。
署名は有希の筆跡だと思うが、こんなに短い文章をわざわざワープロで打つのは少し不思議だろうか。いや彼女はパソコンを普通に使いこなす現代の若者だからそういうものかもしれない。転居先をなぜ書かなかったのか? 慌ただしく引っ越さねばならなかったので暇がなかったのだろうか?
母親は娘の携帯に電話してみた。
半分予想できたことだが、電源が切られており繋がらなかった。
受話器をもどすとテーブルに両肘をつき、ゲームの次の一手でも考えるように、組んだ指に顎をのせた。
・・・冷静になれば、それほどおかしな話ではないのかもしれない。
有希も成長した社会人である。独立は時間の問題だった。二三年前からそうなってもおかしくはなかったが、父親の発病と他界があったので先延ばしになっていただけとも言える。自分も不在になって一人残されてしまう母の孤独を案じたのだろう。じゅうぶん時間が経ち、母も社会活動に復帰できるまでになった。もう出て行っても支障はあるまいと、決断したのかもしれない。
時期についてはそうした理由がすぐに思いつく。とくに非常識な点はなかった。
しかしやり方は・・・?
これではまるで家出、もしくは夜逃げではないか。
顔を合わせる機会が少なくなったとはいえ、ゼロではなかったのだから、予定を話すチャンスは幾らでもあったはずだった。
そこはどう考えても不自然である。
和美はここ数日の有希に関する少ない記憶をできうる限り思いだそうとする。
たしかに表情が──あの娘にしては──暗かったのかもしれない。真剣な雰囲気であったのはその通りである。だがそれは仕事上の困難な課題を克服しようとするときの大人の顔つきと思うほうが自然だろう。
いつもと格段の変化はなかったはずだ。
何か別の特殊な事情が絡んでいるのだろうか。
詮索されると困る理由──駆け落ち?
彼氏でもできたのか。
和美は苦笑しつつ首を振る。健康的な有希はこれまでも何人か男友達と付き合っていた。そのさいは親へ紹介してくれていたはず。こそこそする性格ではなかった。教師となってからは恋愛の時間もないほど働いていたわけだし。
不倫?
ますます縁遠い話である。有希の気性からして、女性が負い目を持つようなそうしたスタイルを選択するとは思えない。
翌朝になっても有希から連絡はなかった。携帯も繋がらないままである。
学校へ直接、電話をしてみれば声を聞けるはずだが、ためらわれた。娘を信用していないようだし、学校側へ彼女のプライバシーが漏れることになるのは彼女の立場にとって不利益をもたらす危険性もある。
有希の自由意志を信じよう──和美は再開発反対運動に進んで身を置き、不安を掻き消すことにした。

しかし音信不通が一週間も続けば、さすがに我慢の限界である。
携帯電話が通じないのはどうしたっておかしな話ではないか。
まず学校へ電話をしてみる。
出たのは男性教師であった。
志方有希の家族であると告げると、急に声に緊張感が生じたようだった。
こちらが質問する前に、少々お待ちくださいといって保留音に切り替わってしまう。
五分も待たされただろうか。
昼休みを狙って掛けたから、すぐに有希が出てもおかしくないと踏んでいたが、とうぜん昼休みであっても多忙な教師は多忙であるのを元教師の和美は知っている。それでも娘の安否を気づかう母親としては苛々するほど長い時間となった。
保留音が止んで聴こえてきたのは有希の声ではなかった。
「──お待たせしました、校長の大村でございます」
妙に静かで落ち着いた調子の声。
またなぜ校長が直々に・・・?
心の内の動揺を抑えながら、自己紹介する和美。
「志方先生のお母様──ということは志方和美先生ですね。お久しぶりです」
「昨年退職しましたので、元教員ということですが・・・」
「そうでしたそうでした、志方先生からもそう聞いていましたよ。貴方のような優秀な先生が定年を待たずにお辞めになられるとは、惜しいの一言でした」
大村の皮肉な物言いに和美は片方の柳眉を持ちあげた。この男とは面識があったが、同じ学校に籍を置いていたわけではなく、何らかの会合で顔を合わせた程度のものだった。彼は管理職側のメンバーの一人として、和美は教員グループの女性教諭代表として、会に参加していた。ジロジロと見られたのは覚えているが言葉を交わすこともなかったはず。時と場合によっては尖鋭的に対立する関係だったのだから評価してくれていたとも思えない。
「・・・娘がいつもお世話になっております。校長先生もお元気なようで何よりです」
こちらもやや皮肉をこめて言ってやった。
「いやいやもう歳ですから、若い教師の諸君らに付いていくのが精一杯ですよ。とくに志方先生には教えられることが多くて多くて。きっと優秀なのはお母様の血筋なんでしょうなぁ──」
そこで大村は非常におかしそうに笑い声をあげた。
何ともいけ好かない男である。
芳佳の匂う眉から頬にかけてが冷え冷えとしてくる。
有希の天敵上司はようやくこう続けた。
「──それで今日はどうされましたか?」
「娘の志方有希に家族として急用がございまして、お電話させて頂いたのですが、何の間違いか、校長先生に繋がってしまったようです」
「そうでしたか急用でしたか・・・どんな種類の急用で?」
「え? えーと・・・娘は出勤しているのですよね?」
「ああ、じつはですね、有希先生は──と呼んでいいですかね。姓だけだとお母様と混同してわかりづらい──今、陸上部の顧問として合宿所のほうへ入って頂いているのですよ。土日含めて五日間ですがね」
目標の全国大会は夏休みにあるのだが、都道府県予選はこの時期にある。それに備える仕上げとして合宿を打つのが恒例だという。陸上部は優秀な成績を残した過去もあり、授業を休むといった特例を校長の許可により認めているのだった。
「まあ有希先生はクラス担任も引き受けて頂いているので、二三日といえども学校を離れては欲しくないのですが──」
「それも校長先生のご用命ですのね」
大村の嫌がらせの一つだろうと想像した和美は険のある言い方をしてやる。
「ン? うーんイヤイヤ、和美先生──まあまあ退職されたとはいえ私のイメージの中ではこう呼んだほうがしっくりいくので──和美先生は誤解しておられるようだが、今回の件は有希先生のほうから是非にとお手を挙げられたのでしてね。自分は部のコーチである中西先生──在野の方なんですが、うちのOBなんですよ──彼の情熱的な教育哲学と他に類を見ない指導理念に敬服しており、今後の教員生活の糧にするためにも、寝食を共にする合宿という場でぜひ薫陶を賜りたいと、お目を学生のように輝かせてですね、おっしゃるわけです。まあ、そこまで心酔しておられるなら、汲んであげましょうということで許可を出した次第ですよ」
和美は唇を噛んだ。
中西某? 有希が心酔するなど有り得ないウルトラ体育会系だろう。
大村の話が本当だとすると、有希が内偵を進めていた体罰問題が理由になったのかもしれない。事実の確証をつかんだとすれば、たとえ数日であっても、外部から隔離された合宿所生活に生徒だけを送るのは、責任感の強い有希にとっては忍びなかったのだろう。自分から付き添いを要求したのは暴力の深刻さの現れにちがいない。
「──なにしろ中西コーチというのは独立不羈のヒトカドならぬ人物ですからな。有希先生も当初はいつものプロテスターぶりで接していたようですが、時がたつにつれ誤解が晴れて、熱烈な信奉者に転向されましてね。我々も彼女のような有望な若手にあのように慕われたいものだと常々話すまでになりましたよ」
そこでまた意味不明の低い笑い。
転向?
あの有希が?
それは絶対にフィクションだと和美は即断する。中西某との蜜月ぶりを見せかけることにより、合宿へ同行するアリバイを手に入れようとしたに決まっている。
不在の理由はわかった。しかし携帯は?
「・・・その合宿所ですが、住所はどちらですか。携帯が繋がらなくて困っているのです」
「まさか。そんなに山奥のはずはありませんよ。私のところには毎日、有希先生から報告の電話がきていますし」
「でも実家には・・・」
「それはですね、きっと──」と大村は合点したように言った。「生徒は合宿中、トレーニングに集中するということで、携帯をコーチ預かりとしているのです。律儀な有希先生だから、彼女もそれに倣っているのではありませんか。見あげたお心がけです。さしづめ生徒目線の教師というところでしょうかな」
民間人が教師の携帯も預かる? 無用の越権行為のような気がするが・・・。
「合宿所へちょくせつ電話をしたいので番号を教えてください」
「関係者以外に学校関連施設のプライバシーを公開するのは防犯上の理由から厳しく制限されておりまして、それは和美先生もご承知のことと思います。必要であれば、今すぐ私のほうから実家へ連絡するよう有希先生に電話を入れますので」
学校侵入事件が多発した影響だ。和美も退職まではその方針を支持していた。大村の意地悪とまでは言いがたい。それに急用と言っても有希が無事であるなら完全に家庭の問題でしかないわけだから、無理に要求を押し続ける大義名分もない。
「・・・では待っておりますのでよろしくお願いします・・・」
「和美先生もお一人になられたそうで大変だが、早くベターハーフをお見つけになって温かい家庭を育んでいかれるのがいいでしょう。有希先生については私も親代わりになり見守っていくつもりですからご心配には及びません。今後はどんな些細なことでもご相談に乗ります。いつでもご連絡ください」
「──っ」
電話はそこで切れたが、何ともいえない不快感が胸に残った。恩着せがましい言葉の端々に、一方的な女性像と家庭観の押しつけが感じられた。有希がこの男の人格に反発するのも無理からぬところと思う。『胡散臭い男』と称したのは言い過ぎではなかった。
(たしかにこの校長に比べれば、キムタケ君なんか可愛いものだわ)
和美は舌打ちしながら有希からの連絡を待つことにした。


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