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第一部 前哨


1-1-1 元気溌剌若手教師

マンションの二階にある志方家の食卓には午前五時だというのに皿器が並んでいた。
志方和美(シカタ・カズミ)が娘である有希(ユウキ)の名を呼ぶのはもう二度目である。
この春から朝はいつもこんな風にドタバタしていた。
「ほら有希、そろそろ食べないと間に合わないわよ」
台所で盛りつけていた野菜和えを有希の味噌汁の前に置いた和美は、Tシャツにスウェットの上着を羽織り、ジーンズを履いた姿で、彼女もまた起床してすぐであるようにノーメークの顔を窓からの朝日に輝かせている。直線的で清潔なボブ・ヘアの毛先をおとがいまで伸ばした瓜実顔──五十路間近の年齢であるはずなのに、それが少しも衰えて見えないのは、感情が豊かに映る印象的な二重の双眸と、意思を強く感じる鼻筋の先の、ムチムチと立体的な鼻頭のせいである。去年退職したばかりの元教師という真実より、ベテランのキャビンアテンダントだと嘘の紹介したほうが納得する人間は多いにちがいない。すっきりとしたボディラインもその心象をつよくさせた。きっと年齢的に消耗しきれない脂肪分は、二の腕に少しと、あとウエストラインにもう少し、つけているだけなのだろう。
「ゆうちゃん、いい加減にしなさいよ」
娘の好みどおり、甘めに仕上げた卵焼きを配膳し終えると、和美は有希の部屋の扉をノックするのだった。
「──おはよう、また寝坊しちゃったよ──」
なんとかブラウスとスラックスという『仕事服』に着替えていた有希だが、前髪を垂らしたままの櫛を通していない黒髪が無造作に肩まで落ちていたし、母親譲りのせっかくの目鼻立ちも寝起きのままに薄くボケていた。娘のほうが、やや切れ長で切れ上がった目を持っている。
有希もまた三年前から都内のR高校に国語科の教師として赴任している。
現役の女教師なのだ。
慌てて洗面所に駆けこんだ彼女は最低限の洗顔を済ませ、髪をポニーテールに束ねると、倒れこむように食卓へ戻ってきた。
味噌汁を啜り、卵かけ御飯をかきこむ娘の姿に和美は輝くような若さを感じないわけにはいかない。
メイクもスキンケアもほとんどお手盛りを決めこんでいるはずなのに、そのうえ最近の超過と呼んでいい激務の影響もないわけがなかろうに、素肌の美しさは高校生の頃と少しも遜色がなかった。多少の日焼けは見られるとしても、キメの細かさと張りは健康そのものである。すべてを二十代半ばという若さが吸収しているのだった。
「・・・昨日の夜回り、何か問題あった?」
自分も椅子に座り、箸をうごかしながら和美が尋ねた。
「──いや、ないよ」
有希は朝刊に目を通したまま素っ気なく答える。
「ヤンキーの兄ちゃんに『ババァ、可愛がってやるぜ』って言われたくらいだから平和なもんです」
(やれやれ──)
母親は目尻に苦笑の皺を寄せて肩をすくめた。
我が娘はしかし動じている風ではない。
彼女は去年の後期から生活指導の仕事に回され、週に三日は夜十時まで学区内にある盛り場をパトロールしていた。むろん常識的には、有希のようにクラス担任をもっている女性教諭には稀にしか声がかからないはずの──自校生徒による不純異性交遊、徘徊、暴力行為への被害や加害の監視と補導という──心身の緊張が伴う任務である。
加えて新学期からは陸上部の顧問にまで『抜擢』されている。
生徒の指導は外部から招聘する形で学校OBがあたるから、陸上競技など門外漢の有希でも問題ないのだが、グラウンドを使った早朝練習には教員が同伴する内規があり、春の大会前のこの時期、連日この時間の出勤となるのだった。
「ずいぶん見初められたものよね、有希先生──」
からかうように言う母親に娘は舌打ちする。
「あのヅラ校長、今に見てろってもんよ」
記事を読む視線はそのままに、頭のほうを『指し箸』しながら有希は呟いた。
「え? カツラなの、あの人?」
「生徒たちはみんなそう噂してるからそうなんじゃないの」
思いだすのも不快とばかりにニシン漬けにかじりつく。
有希先生がここまで『見初められた』のは、若手、独身、有能、という表向きに説明されているもっともな理由の他にもあった。今の校長──現職時代の和美とも面識がある──と馬が合わず目をつけられているのである。CPCP運動に参加しているのが主な理由で、現代教育界の潮流に泡立つ恫嚇的部分へ、批判的懐疑的言行をたびたび取るものだから、見せしめのように狙い撃ちにされているのだろう。
CPCPとは(Corporal Punishment is Crime Problem; 体罰は犯罪問題だ)の略だが、体罰廃絶を唱える教職員や文化人を中心とした全国にネットワークを持つ市民運動のことだ。ちなみに和美も教職を辞するまでCPCPの主要メンバーだったという経緯がある。
とにかく──ヅラなの本当に?──体制派のあの校長は怜悧狡猾の最たる人種であった。任免権を握っている上司になびかぬ教員はいつでもどこでも少数派に留まってしまう。そんな職場で信念を貫くのは困難であり苦闘であるのだが、校長の陰湿な攻勢にも「喧嘩上等よ!」と怯まずすべてを受け入れ、全力でこなしている娘──身びいきではなく褒めてやりたいと思う気持ちで一杯である。
・・・胡瓜の漬け物を音を立てて噛みつぶしながら、有希は長い腕と細い指で箸を操作する和美へ視線をすべらせた。
同業の大先輩の母親は学校内部のそうしたドロドロの断面について分かりすぎるほど分かっている。彼女のほうが自分よりもずっとそういう経験をしてきたのだ。何といったって、働く女親の姿──理想を見失わず妥協せずに教育に立ち向かう姿──を子供なりに感じて育ったのが、同じ進路を選択した大きな理由だった。
「お母さんの現役バリバリだった頃も──」と有希はふと尋ねてみた。「──やっぱりあったのよね、上からの圧力?」
「それは当然よ」
大きな瞳をこちらに見せて答えた。
「でも今とは状況がちがうし単純に比較するわけにはいかないわね。まあ私の場合は、周りに仲間も多かったから、有希のほうがずっと大変そうに見えるよ」
それから母は手の動きを休め、どこか遠くのほうを見つめる空気感を漂わせた。
いけない、と有希は内心で自分を叱りつけた。
もちろん母親が見ているのは、昨年他界したこれも教員であった有希の父、秀彦の姿であるに決まっている。誰に言わせても二人は相思相愛だった。一緒に闘った仲間の中心に父がいたと聞いている。だからこそ死の病に伏した父への看病が彼女に退職を決意させたのだ。臨終直後の悲痛な落ちこみぶりはどれほど母が父を大きく思っていたかの証であり、娘でも声をかけられないほどだった。最近ようやく知り合いが開いている小さな学習塾の手伝いをしたり、町内会に携わったりと、回復の兆しがあったので、つい油断して父の記憶に繋がる話題を振ってしまったのである。
「──陸上部のOBね。あいつもアナクロな奴でさ、アレじゃ生徒が可愛そうだって」
慌てて話題を変える有希。
雲の形をなぞるような瞳をしていた和美が我に返ってきた。
「ふーん? 親・体罰派?」
「どうやらね──」有希の鼻面がキリキリとする感じ。「──私の前ではまだやらないけど。どうも裏では・・・なので──」と味噌汁を最後まで啜りあげると立ちあがった。「──私が遅刻するわけにはいかないんだな。練習時間の最初から監視していないとね」
有希が歯磨きを終えると、和美も腰を上げる。
「頑張って。体罰を止めるのは最初が肝心よ。いったん認めるとタガを嵌められなくなる」
「大ベテランの貴重なお言葉、肝に銘じておきます」
敬礼する有希。弱音よりファイティングポーズが似合う理想の若手教師だ。
「でも無理は禁物。何でも一人でやろうとしちゃ駄目よ。私の伝手もあるんだからさ」
バタバタとスリッパの音を立てて玄関へ向う母娘。
娘はグレーのジャケットに華奢な腕を通す。白ブラウスの胸の影が濃淡をくりかえした。
「──それはそうと有希、アレはどうなったの」
和美が尋ねた。
「アレ・・・って?」
まったく心当たりがないように有希は靴に爪先を入れつつ母親の目を見つめた。
「電話の・・・アレよ・・・」
急に質問の意味がわかって、年齢相応の明るい声で笑いだした。
「キムタケからの電話? 馬鹿だよアイツ──」
ひと月前より、有希に若い男から電話がかかってくるようになったのだ。最初の電話を和美が受けたのだが、有希の出身中学を知っていたし、クラスまで言い当てたので、てっきり同窓生だと思いこんだ。そのとき有希は不在だったから後日またかけ直すようにと言うと、男は『おかあさん!』といかにも軽い声で叫んで、一方的に喋りだしはじめた。
キムラ・タケジロウ──
男はそう名乗った。
中学時代、有希のことが好きだったが告白できず、いったんは諦めたが忘れられず、意を決して電話したのだと切々と訴えるのである。軽薄な口は達者で和美になかなか話す暇を与えない。しきりに彼女の携帯の番号を聞きだそうともする。もちろん和美は巻きこまれずに何も話さなかったが、ようやく受話器を置いたときは一方的にパンチを浴びせられたボクサーのように疲労感を覚えたものである。
有希の帰宅を待って事実を告げると、あっさりキムタケの嘘がバレた。
記憶によれば少なくとも同じクラスにはそういう名前の男子はいなかった。卒業アルバムで調べても同学年にすら心当たりの人間は見つからない。
ようするに『無差別のナンパ』であろうと結論を下した。どこからか卒業者名簿を手に入れ、女子に電話をかけまくり、手応えがあれば強引に口説いてモノにしようというのである。昔からあるナンパ術だが、かなり横着で、かなりレベルの低いやり方かもしれない。以来、母娘の間では男のことを『キムタケ』と呼んで失笑のネタにしていた。
ただしキムタケはしつこく、なかなか諦めずに電話をしてくるのだった。在宅時間の長い和美が受けとる場合がほとんどで、さすがにウンザリしてしまう日もある。
今日はとっちめてやろうと思い、クラスにそんな名前の人間はいなかったと娘が言っていたわと指摘すれば、学年にいましたよと答え、学年にもいなかったと突っこむと、おかあさんは正しい、おっしゃるとおりです、有希さんの母親だから当然だがやはりインテリジェンスの高い方だ、正確には同じ学年ではなくディファレントの学年でした、一年先輩なんです、とかえって誠実に告白するようなムードを演じる。
それも嘘なんでしょ、とカマをかけても、一向に悪びれず、今手元にある僕の卒業アルバムをお見せしたいですよ、それならお疑いも晴れるでしょうに、でもインポータントなのはケアレスミスではなく、おかあさん、わかりますか、僕は肝心なところになるとからっきし口下手なのでうまく言えないんだけど、インポータントなのは僕の有希さんを想うマインドなんじゃないかと、ねえ、おかあさん、そうでしょう──と、どんな効果を狙っているのか知らないが、盛んに帰国子女風の発音の英単語を混ぜこぜながら開き直ってくる。
嘘や矛盾を追及をされるとそれに輪をかけた妄言をチャラチャラまくしたてるのだ。ベテラン教師だった和美をも辟易とさせる話術──これがもし即興であるなら一種の才能と認めても良いくらいだが、おそらくマニュアルが用意されていてトレーニングを積んでいるにちがいなかった。ナンパ師というより詐欺師に近いのでは、と疑いも沸いてくる。
和美は反対したのだが、有希はこれ以上、母に不快な想いをさせるのは忍びないと思ったらしく、先週、キムタケに携帯のナンバーを教えていた。
居間の据え置きの電話にはそれから一件もかかってこなくなった。つまり有希の携帯が鳴り続けていることになる。
母親はそれを心配しているのだった。
娘はジャケットの肩にバッグのストラップをしょった。
「気にしなくていいって。お母さん、私は一日中、キムタケの何倍も胡散臭い男たちと渡り合っているんだから、あんなのにどうこうされるわけないよ。ただ、今すぐ完全に突き放しちゃうとまたお母さんのほうに掛けてくるかもしれないので、適当に電話に出てあしらっているとこね。頃合いを見てバシッと言ってやるわ。志方先生はあんたみたいなチャラ男は眼中にありません、てね」
有希は笑うと目のなくなる愛くるしい表情を久々に母に見せ、溌剌とした姿で職場へ向って駆けだしていった。

・・・そんな彼女がこの日から二ヶ月もたたずに『家出』をしたのである。