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(四)

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高橋カメ(仮名)は都市伝説の紹介する通り、地方公務員であり、課長職に就いていた。ただし都庁ではなく某県庁である。その県はジンタロウ氏のみせた日本全図に記されている五つの赤い点のひとつだった。趣味はトレッキングではなく一人娘の高校生・クマ(仮名)が通うピアノ教室へのボランティアである。(発表会当日に映した親子写真有り)県庁において、カメが率いていたセクションは女性福祉を主に担当していた。ある年、県下郡部における女性への家庭内暴力(DV)の実態を調査把握するという案件が上程されてきた。大規模な面接調査を含む本案件は、ここ数年、何度か議題に上ってはいたものの、着手されることはなく先送りされるのが常だった。(地方紙バックナンバーより)なぜなら署名活動を含め強く陳情・請願してくるのは、いつも県議会少数派グループの支持母体のひとつである女性団体などが中心であったからだ。これを簡単に認めるのは多数派グループとして何の利得もないし、また多数派内部に一派閥を形成している郡部選挙区を地盤とした男性議員達が、地元の不名誉を証明するかもしれない統計調査を喜ぶはずはなかった。(某議員の集会での演説有り)県庁としても議会のこうした『空気』を無視して行政を推し進めるわけにはいかず、無気力なモラトリアムを繰り返していたのである。慣例として、女性課のトップは皆、本案件を支持するわけだが、カメの場合はおざなりではなく、より確固とした信念に貫かれていた。(課長による年頭挨拶の録音有り)しかし一年前、この職に昇進したさいには準備が間に合わず、前任者と同じように先送りを認めざるをえなかったという苦い記憶があった。今年はその轍を踏まず、見所のある部下若干名を選んで春先から体制を組むと、周到な根回しを開始し、秋口の定例議会での承認を目指した。東京から大物女性国会議員を招き、講演会も開いた。何しろ握りつぶしてきた年数がもうずいぶん重なっている。民主主義の建前をそうそう蔑ろにするわけにもいくまい。とうとう『空気』は本会議での可決成立が濃厚となっていった。(地方紙政治面より)しかしその本当の推進力は他にあると地元の業界紙などは書き立てていた。『県庁を取り仕切る美人課長の凄腕』とタイトルを付けた特集記事が月刊誌に組まれたのだ。都会的なスーツに包んだ厚みのある胸と腰で魅力を振りまきながら、テレビ映えのする美貌に有名大学出の才女とは思えぬ人懐っこい笑顔をつくり、大人の女優のようなボイスで個別にブリーフィングをされれば、つい鼻の下を伸ばして反対票を賛成票へ持ち替える議員先生は、10人を下るまいと匿名の証言を交えて憶測をブチ上げていた。そこには一流企業に勤める夫や進学校へ通うクマの紹介もされていた。ところが条例案は結局、本会議どころか委員会にも提出されず、いつものように先送りされてしまった。一般紙の解説は木で鼻をくくったような低調なものだったが、政界通、議会通から流れてくる噂話は騒々しいまでに明快であった。本案件を強力かつ聡明に前進させてきた高橋カメ課長の行動力に、ある時期を境に急ブレーキがかかったというのである。趣旨説明の原稿が頭に入っていない、反対派に論破される、そして重要な会議にも遅刻する・・・これまでの彼女には有り得ない失態の連続だった。そしてとうとう定例議会招集半月前という大事な時期に、家族揃って夜逃げ同然で姿を消してしまったのである。無二の司令塔を失った推進派に、夕立の中、店仕舞する露天商のように態度を元へ戻していく多数派議員を食い止めるすべはなかった。たしかにカメはまもなく長期無断欠勤を理由に懲戒免職になっている。記者達が真実を求めて取材しようにも居場所すらわからなかった。それは夫と娘にも共通だ。閑静な住宅街にある高橋家の品のいい一軒屋はすでに不動産会社の管理下にあるらしい。
ここで平和に暮らしていたエリート一家に何が起こったのか。
噂は後にして、確実な証拠だけ時系列に並べてみよう。

証言1:近隣住民
近隣住民が異変とも言えぬその変化に気づいたのは、この年の春の終わり頃だったという。それまで、ときおり一階の窓から漏れ聴こえてきていた娘の練習するピアノの音が一週間も二週間も途絶したのである。漏れていたといっても大音量でもなければ耳障りな不協和音でもない。クマの実力はコンクールに入賞するほどだったから、軽やかなショパンやシューベルトの調べが、木々の葉が擦れあう音よりもかすかに、一時間半ほど続く程度である。これを聴くのを楽しみにしていた高齢者夫婦もいたくらいだから、近所に疎まれていたのではなかった。だが消されたピアノ練習曲はやがて、情熱的なダンス音楽に取って替わられた。窓を開けていればこれはもう騒音のレベルに達する音量が流れだすのだ。音楽に詳しい通りすがりの高校生はこれを『レゲエダンス・ミュージック』であると断定した。減量にも応用される激しいビートを伴っている。お嬢様の印象しかない娘や『有閑』には真逆の状況にいる両親がこれに興じていると想像するのは、かなり無理な努力のいる話だった。ただし、当初は窓が開放されることはほとんどなかったので、深刻な状況とまでは誰も考えなかった。

証言2:隣家A
夏に差し掛かったある日、隣家Aにおいて冷房装置が故障するアクシデントが発生した。それは夜中であったため修理業者が呼べず、一晩だけ窓を開けたままにする善後策が取られた。さっそく就寝した彼らだったが、深夜、大音量の音楽に叩き起こされた。例のレゲエ音楽だ。驚いて窓に飛びつくと、高橋家の一階の窓も開いていた。垂れ下がるカーテン越しに垣間見える県庁キャリアトップの居間においては、家具の片づけられた広い空間の中で、三人の家族全員が横一列に並び、熾烈なダンス運動を行っている最中だった。両端の父と娘の衣裳は平凡なスウェットの上下だったが、中央で踊る母親だけはピンク色の全身レオタードを身に着けていた。全員の額には白いバンダナが巻かれている。そして奇妙なことに、三人の踊るステージの正面には、客席が設けられ、十数名の男女がどやどやと座っており、拍手をしたり歓声を上げたり、『ダンサー』を囃し立てる姿が目撃されたのである。年齢は中年以上がほとんどのようだった。片手にしている団扇を忙しなく動かしているところから、この熱帯夜に高橋家も冷房を切っているらしい。それは連続的なアップテンポのリズムに合わせて全身を弾ませている三人が、汗だくである事実によっても立証できるだろう。彼らは人目を気にするようでなく、膝を高く上げ、腰を前後に揺すり、その場で何回転もターンし、ジョギングでステージを右に左にマーチするのだった。明らかに娘のクマの技量が図抜けており、沢山のトレーニングを積んでいる身体のキレが認められる。ついで父親の動きが『まあまあ』ともいえ、二人にずっと劣ったダンスしかできていないのが母親の女性課長であった。胸元や背中に汗の染みを作ったレオタードであるからこそ、余計、彼女の運動音痴ぶりが目立った。呆然と眺めていた隣人の姿に気がついたらしい客席の一人の中年女性が、立ちあがって窓際まで歩み寄り、こちらへ一礼しながら窓を閉めた。その際、騒音を謝罪し、高橋家三名のノロマさが原因で夜遅くまでかかってしまっているのだ、と弁明した。意味不明の言葉だったが、こちらの返事を待たずに窓を閉めたため、取りつく島がなかった。ただ一つ言えるのはその中年女性のイントネーションは訛を感じさせるものだったということだ。一気に半分以下に小さくなったレゲエ音楽はその日の未明まで連続したとされる。

証言3:隣家B
隣家Bの目撃談は娘・クマの挙動不審について語るところから始まっている。


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