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  第二章 避けられぬ亀裂 a

 (野良猫のせいかしら?──)
 上川家の住むつましい官舎には、猫の額ほどの庭があり、夏代はそこに花壇を作って草花を植えていた。ささやかなものだが、クロッカスが咲き、チューリップが咲き、夏には向日葵が咲いて、明日香を喜ばせるのだった。
 夏代は午前中、久しぶりに雑草の手入れでもしようと思い、花壇の前に立ったのだが、その一隅に大きな穴が開いているのを発見し、当惑した。ベイスターズの野球帽をかぶり、首に日除けのハンドタオルを巻き、軍手をはめた完全武装の夏代は目測で穴の直径を確認する。30センチはあるだろうか? そこは来春、また紫色の花をつけるであろう、クロッカスの球根が植わっているはずの場所だった。クロッカスはこの花壇ではシーズン最初に花を咲かせるので、明日香にも人気の花であった。擂り鉢状に掘られた穴の底には千切れた根は発見されても、球根はなくなっている。
 (明日香の悪戯ではないだろうけど)
 明日香は一時間ほど前から友達と公園へ遊びに行っている。明日香はこういう悪戯はしない子だし、今朝、余裕はなかったはずだ。これは夜間におこなわれた仕業である。たしかに野良猫の徘徊は町内でも周知の事実である。たぶんそのせいであろうけれど……。夏代はしゃがんだまま、シャベルでチューリップの茎をかき分けた。猫の足跡はみつからなかったが、さりとて人間の侵入した形跡もない。不吉な予感は残ったものの、夏代は猫犯人説で納得し、穴を埋め返した。明日香が見たら嘆き悲しむだろう。
 その明日香が帰ってきた。
 「ママー!」
 とくに用事がなくても、庭にママの姿があれば飛び付いてくる。
 「よっちゃんとはもうお別れしたの?」
 よっちゃんは遊び仲間である。明日香は頷き、そして少し思案して、今度は首を横に振った。
 「どうしたの?」
 「よっちゃん、泣いたから帰ったの」
 「ン? また明日香が泣かしたか?」
 幼稚園ではけっこう姉御肌の明日香である。
 「違うよ!」
 明日香は濡れ衣を着せられてふくれた。
 「おにいちゃんがブランコをとったんだよ!」
 「悪いおにいちゃんだねえ」
 夏代は子供の間のたわいのない喧嘩であろうと、とくに気にもとめなかった。今は春休みでこの時間でも小学生が公園に来ていておかしくはない。夏代は明日香の頭を撫で、家に入って遊んでなさいといって、自分は雑草取りに集中しようとする。しかし明日香は母親の背中にまとわりついて離れず、邪魔をするばかり。
 「ひっつき虫だなあ。もう小学生なんだからね」たしなめる夏代。
 「ねえ、ママ、『きょにゅう』って、なーに?」
 「え? きょにゅう……?」
 娘の口から飛び出した意外な言葉に、すぐには『巨乳』の漢字を思い起こせなかった。
 「──きょうりゅう──じゃなくて?」娘を見る夏代。
 明日香は首を振った。
 「いーや、きょにゅう!」
 他に似た発音の語彙はひらめかない。
 「巨乳がどうしたの?」
 「ママはきょにゅうなんでしょう?」
 「……」
 明日香もテレビを見るから、気を付けていても、そういった情報を完全に排除するのは無理である。どこかで言葉を覚えたのだろう。
 「おにいちゃんが言ってたよ。明日香のママはきょにゅうなんだって」
 夏代の頬がやや緊張する。もちろんマセた小学生なら口走ってもおかしくない。でも──。
 「おにいちゃんって誰?」
 「さっき公園にいたおにいちゃん」
 「よっちゃんを泣かしたおにいちゃん?」
 明日香は母親の真剣さを感じて、恐々と頷いた。
 「そのおにいちゃんって、背が高かった?」
 「……パパより高かったよ」
 夏代は思わず立ち上がった。不吉さが全身をこわばらせる。変質者か? 直感だが違うような気がする。考え過ぎではあるかもしれないが、もしこれが貴文の仕事関連の嫌がらせであったら悪質である。子供にアプローチするとは許しがたい。この町に来てからはその種の嫌がらせとは無縁だと思っていたのだが。
 「明日香、家に入っていなさい! ママが来るまで鍵を開けては駄目よ!」
 夏代の剣幕に明日香は縮みあがり、玄関へ駆けこんだ。夏代はその足で公園へ向かった。
 住宅街の片隅にそれはある。簡単な遊具しかない小さな公園だが、ドングリを落とすミズナラの木が三本あるので、真夏などには涼しい木陰を提供してくれる、住民にはわりと好かれた場所だった。夏代は公園の名前を刻んだプレートのある、入り口のひとつから中へ足を踏みいれる。まだいるとは思えなかったが、心臓が高鳴った。カッとして駆け付けてみたものの、現場に到着すると、ずいぶん無謀かつ無思慮な行動のような気がしてくる。もしその男がいたとして、自分は一体どうすればいいのだろう? 危険な目に合う可能性もないではない。
 (民家も近いし、いざとなれば大声を出せば大丈夫よ)
 と、自分を落ち着かせ、様子を探る。
 子供たちの声はしない。誰もいないようだ。
 こちら半分にジャングルジムとシーソーがあり、遊歩道を通って、樹木の向こうにブランコがあった。夏代は背伸びをして木立の奥を確かめたが、早くも緑の葉が茂り始めており、死角になっている。
 いや、待てよ──。
 夏代は耳を澄した。
 音が聴こえる。油の切れた、蝶番のきしむ音。
 ブランコが、ゆっくりと前後に振れているのだ。
 誰かいる!
 夏代は首にかけていたハンドタオルで頬の汗をぬぐった。
 このまま戻ることもできるのだが、娘の安全を思えば引き返せない。ジャングルジムの鉄柱を伝いながら、ミズナラの木の枝をくぐって、反対側へと顔を出した。
 ──男がいた。
 明日香の言ったように背の高い、そして坊主頭の青年であった。白のワイシャツにギンガムのズボン。ブランコに腰掛け、両手で鎖をつかみ、風にまかせるように緩慢に揺れていた。二重瞼の目は大きく、前方を、ただぼんやりと見つめている。周囲の音などまったく耳に入っていない様子。何時間もその姿勢のまま過ごしているような雰囲気さえあった。
 若々しい横顔は美男子と言えるかもしれない。鼻筋が通り、口元が整っている。ただ、肌の色が病的に青白い。病気療養を長期間していたのかもしれない。そして丸坊主の頭。どこか浮世離れしている。平日の昼間、こんなところで時間を潰している大人とは……。夏代は警戒して呼吸をとめる。青年は何の気配も感じていないようであった。
 スニーカーで地面を踏み締め、思い切って接近する。
 「本当に──」青年が急に口を開いた。「いい気候になりましたね」
 ギクリとして立ち止った夏代の方を、青年は振り向いたのだ。視線が合った瞬間、夏代はこの青年の顔を自分が記憶している事実を悟った。横顔ではなく正面からの映像。誰だったか、すぐには思いだせない。
 「いい気候になりましたね」
 青年は繰り返した。そうか、と夏代は考えた。髪の毛がないからわからないのかもしれない。記憶にしまわれている肖像は頭髪付きなのではないか。夏代は心のなかで青年の頭にかつらを幾つかかぶせてみた。──
 夏代は声をあげるのをようやく呑みこんだ。
 「あなたは──」
 青年は愛しいものにでも出会ったように微笑んだ。
 「ご記憶でしたか? ええ、その通りですよ。私は斉藤将志です」
 忘れるわけがない。貴文が左遷になった、くだんの事件の被告張本人である。直接顔を見たのはこれが初めてだった。夏代が知っているのは雑誌等に載っていた逮捕時の写真ばかりである。何度も見たはずだが、そう、当時は長髪で染めていたのだ。いま、夏代の目の前でブランコに乗っている青年はそれとは明らかに違い、どこか超然としている雰囲気である。
 「上川判事の奥様でいらっしゃいますね?」
 将志は丁寧に会釈をし、そう言った。
 「あなたがどうしてここに? それになぜ、私を知っているのです?」
 そして娘までも、と付け加えそうになったが、恐ろしくなってやめた。上川貴文という名前が公表されている以上、家族構成や住所を調べるのはさして難しくないのだ。斉藤一族には思想部が関与しているのである。
 「こちらにお掛けになりませんか?」
 隣のブランコを示す将志。夏代は首を横に振る。
 「時間が沢山あるわけではないのよ。質問に答えて欲しいわ」
 将志は頷いた。そしてまた遠くをぼんやりと見つめる。
 「こう言っても、信じていただけるかどうかはわかりませんが、半分は偶然だったのです。私の友人がこちらの町に住んでおりまして、たまたま訪ねてきていたのです」
 話の信憑性を云々する以前に、夏代には彼の言葉遣いの慇懃さが不気味であった。斉藤将志の裁判における言動や、判決言い渡しの際の狂乱ぶりは、その後、貴文の同僚などから聞いていたからだ。ここにいる青年の言動はそれとは正反対の、ホテルマンのような腰の低さである。更生したのだろうか? 覚醒剤依存の治療もなされたはずだが、それも成功したのか?
 「いや、最初から話さねばなりませんね。私は刑務所で3カ月服役した後、今から約一年前に仮出所いたしました──」
 そう、意外なことに将志はあの判決に服し、控訴しなかったのである。控訴すれば執行猶予付き判決はおろか、無罪だってもぎとれた可能性が高かったのにである。罪を自覚し、判決を真摯に受けとめた、と解釈するなら喜ばしいことである。しかし、あの時の思想部をも巻きこんだ騒ぎは何だったのか。簡単に、額面どおりに信じられない。
 「私の刑期は6カ月でしたが、有り難いことに模範囚の評価を戴いたので、半分の3カ月で出ることができました。その後も保護司の方のご協力のもと、社会復帰のプログラムも良好に推移しております。こうして旅行を許されたのも、その証拠と言えるのです」
 たしかに筋の通った話ではある。刑期の計算もあうようだ。もし本当なら、夏代は彼女の性格として警戒感を緩めざるをえない。つまり、将志は社会が見守ってやるべき更生途上者であり、社会的弱者の一人なのだ。激しい敵意は抱けない。貴文の判決も無駄ではなかったことになるのだし……。
 「あなたの苦しい立場は理解できるわ。よく努力していらっしゃるようね。だけど──、いえ、だからこそ、紛らわしい行動は慎まなければならないはずよ。自分に有罪判決を下した裁判官の家族に接近するなんて、誤解を与えるような真似は危険すぎる話だわ」
 「李下に冠を正さず、という諺を自分も知っております。それについては弁解するつもりはありません。とくに奥様には恐怖感を与えたのかもしれませんね。しかし真意はもちろん違うのです。一度、上川判事にお会いして、謝罪し、感謝の言葉を口にしたいと、ずっと考えていたことなのです。あの時の自分はどうかしていました。覚醒剤の影響もあったのかもしれません。あのままの状態で生きていたらと思うと、今は心底、ぞっとします。そこから救ってくださったのが、上川判事なのです。刑務所のなかで冷静になって考えました。けっきょく判事だけが自分の将来を真剣に考えてくれたのではないかと……。この町への旅行が決まった後、偶然、判事ご一家がこちらに赴任していらっしゃると知りまして、もし可能であれば、お目にかかりたいと、その思いだけが先走ったのであります」
 「それはしかし──」
 被告人と裁判官の交流などは常識的にはほとんどない話であろう。何十年も時が過ぎていれば別だろうが、あの判決からはまだ数年も経ていないのだ。将志の気持ちもわかるが、やはり一線は引かれるべきなのだ。
 「今はまだ、やめておいたほうがいいと思うのだけど」
 夏代の言葉に将志は冷静だった。
 「ええ、おっしゃる通りだと思います。今回の行動は軽率でした。ついついご自宅の近くまで来てしまい、偶然この公園で、お嬢様に遭遇してしまったのです。お友達との会話から、名前を耳に挟んだもので、話し掛けてしまいました。その前にご自宅の前を一度通ったのです。奥様はお庭で仕事をされていましたね。自分のこそこそとした真似は誉められるべきではありません」
 「……」
 真偽のほどはわからない。最悪の事態を想定して、毅然とした態度を取るべきなのかもしれない。夏代は母親としての責任と己のなかの人道主義的な部分──前科者への偏見を嫌うという──とで板挟みになる。
 「巨乳──」
 夏代は思い切って口にしてみた。
 「は?」
 将志はまったく動揺せずに聞き返した。
 「娘に何か言いませんでしたか? 女性の身体の一部分を侮辱するような表現で」
 「巨乳とは胸が大きいという意味ですか?」
 その時初めて、将志の視線が夏代の顔から離れ、胸へ下りていった。その視線の感情のなさに、夏代は寒気を覚える。この青年はやはりどこか異常なのではあるまいか。
 「さあ、記憶にありませんが。自分が奥様を拝見したのは、先程、お庭の仕事をなさっているときが初めてです。通りすがりにちらっと見ただけですし、奥様は屈まれておられましたから、お胸の大きさまではわかりようがなかったと思います。たぶん、お嬢様は何かと勘違いをなさっているのではないでしょうか」
 用意していたような弁明にも感じられる。しかし明日香はまだ義務教育就学前の幼児だ。彼女の証言を信用するのは母親だけだろう。自分の肉体を品評されただけ、損をした気分である。
 「あなたの更生の努力は支持しますから、今後は疑いを誘うような行動を慎んでください。約束して戴けますね?」
 夏代の凛とした口調に将志も同意した。夏代はひとまずそれで区切りとし、この一件は忘れようと言った。将志はブランコから下りて立ち上がり、深々と最敬礼する。威圧されるほどの背の高さである。190センチは越えているだろうか。


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