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 絶対的リーダーの出現 

「・・・まだこのまま一時間だなんて・・・」
暗闇の中、今後の希望を語った万田船長に対してようやく感想を述べたのは、ここでも元CAだった。
「うむ、さすがにそのくらいの時間をもらわないとどうしようもない。小さな潮目にでも遭遇すれば、潮流に逆らう形で進まなければならない場合もあるでしょうから」
「・・・だけど夫達はそろそろ限界が・・・」
奈々子は海中にかれこれ一時間半は入ったままの夫三人の体力を心配しているのだ。ディンギーは日没が迫るにつれて約束通り速度を落ち着かせていたが、当初、自らも立ち泳ぎして船の推進力に貢献していた三人の下半身はさすがに疲れが見え始め、今はほとんどバタ足せずに伸びきり、船に引きずられるままになっていた。
「低体温症だって考えなくてはならないはずでしょう・・・」
「おっしゃる通りではあります。ただ海水温は高いですし、波をかぶることもなかったですから、まだまだ幸運は我々にある。それに槌谷さんのご主人はウエットスーツを着ていますので状況はより有利と言える」
万田の解説は理路整然としていて、どこか奈々子を論破するのを楽しんでいるようでもある。
「・・・そうですね。ウエットスーツを着ていればだいぶ違うでしょうけれど・・・」
しかし崇史も堀部雄馬もほとんど半ズボン一つの姿である。
「こうするのはどうかしら──」奈々子は胸に温めていた提案をした。「──私と夫を交代するというのはどうです。私が海に入り彼がボートに乗って休息する。三十分くらいしたらまた交代する。それを繰り返せば疲労も半分ずつになるでしょう」
秀美もそうだわそれがいいわと同意した。
綾音も万田の肩越しに声をかけてくる。
「ウエットスーツを着ればいいわ。私と船長が脱いで、海に入る人が着ればいい。この暗さなら真っ裸になったって見えっこないんだし」
『真っ裸』という単語を選んだ綾音の飾らない性格に、小さな笑い声が六人の間で起こった。
笑いに参加しなかった万田船長が慇懃に喋りだした。
「皆さんのサバイバルにかける積極的なご提案は痛み入るばかりです。これでこそ勝利を約束された運命共同体というものでしょう」
そこで一つ咳払いをする。
「ですので、船長としてそれらの提案に賛成しかねるのは残念で仕方がありませんぞ」
ともった希望の光がすっと消えていくように、六人は無言になる。
「海賊の追跡を100%不可能にし、大和撫子の素肌が真っ赤な火脹れになるのを防ぎ、この万田に精密な海図を提供してくれた、この夜の暗闇こそ、今度は皆さんのご提案を不受理せざるを得ない理由となってしまうのは、何たる皮肉な巡り合わせでしょうか」
どういうことですのと奈々子は静かに尋ねた。
「ご説明しましょう。まず、大海に浮かぶ小舟においては、海中の人を船上へ引き上げるのは昼間でも困難な作業であるという厳然とした事実があります」
「さっきは出来ましたよ。私達は這い上がれた」
「ええ、たしかにおっしゃる通りです。先ほどは出来た。それは経験豊富で鍛錬した肉体をもった私と、まだほとんど疲労していなかった皆さんとの共同作業であったから──それでもずいぶん運が良かった方です──成功したにすぎません。今度はひ弱な女手と疲れきった男子のみでやらねばならない。私はここからでは手が貸せませんからね。成功の確率はゼロに等しいということです」
「席を交換して船長が船尾へ移動すればいいのでは」と綾音。
「転覆のリスクが高すぎますな。ボートの定員がなぜ設定されているかをお考えください。それ以上乗れば、設計上安全と基準される吃水の大きさが崩れ、ちょっとした揺れにも対応できなくなる。四人が乗ったこのボートでは僅かなバランスの乱れでも命取りになりかねない。よろしいですか、夜の海でディンギークラスのボートが転覆したら200%助かりません。全員が確実に溺死するのです」
綾音の嘆息が聴こえてきた。
「ウエットスーツの件ですが、これも許可できないでしょう。そもそも私のスーツはワンピースタイプなので、陸上でだって着脱が容易ではない。ここではむろん不可能だ。槌谷夫人のはセパレートタイプだから上着だけなら何とか脱げるかもしれないが、それを海中の人間が着るなどとは曲芸のレベルの話になってしまう。もし仮に、船体から手を離して、ボートと人間との距離が2メートルついてしまえば、200%彼はもう戻って来られません。ボートの位置も漂流者の位置もこの闇では数秒でわからなくなる。定員オーバーのボートはまったく小回りが効かないので救助には向かえない。他の多数のゲストの命を危険に晒してまで一人を助けようと海へ飛びこむ船長は、船長の職責を放棄したも同然です。そんなことをするくらいなら、そもそも最初から幸子を見殺しになどするわけもないのですから・・・」
貴方達のために、と、さすがにそこまでは口にしなかったが、六人全員の心にはそう聴こえていた。
「助けを呼ぶ彼の声だけは聴こえるでしょう。闇の中で、それを聴きながらまんじりともせず過ごす地獄をご夫人達は味わうことになる──」
「・・・やめてください・・・」
奈々子がたまらず万田を制した。
「そこまで言わなくとも・・・」
「失敬。最悪の可能性を指摘しただけですがご気分を害したかな。けれども過去に幾つも例のある話なので。リーダーの指示を無視し、統率を離れて軽挙妄動に走ればそうなると、肝に命じて欲しかったのです」
大丈夫ですよ三井の奥さん──そう声を振り絞ってきたのは雄馬であった。
波の揺れに声帯が震えているのが痛々しい。
「我々なら大丈夫です。あと一時間くらい、どうにかなりますよ」
「ゆー君、喋らないで」秀美が夫の手を固く握りながら言う。
「そうだよ奈々子──」崇史も雄馬の言葉に同調する。「──僕だって問題ない。ドキュメンタリーのロケに行けば、色んなことが起こるんだから。それをすべて乗り越えて今の僕があるんだからね。見くびってもらっちゃ困る」
しかし妻の耳には彼の声が十分前と比べても勢いの衰えがはっきりとわかった。
スーツを着て、有利といわれた浩一でさえも、この頃では得意のジョークも影を潜め、めっきり口数が減っている。
「船長、何か手立てはないのですか!」
奈々子の悲鳴に近い声が響き渡った。
「うむ──ようするに何かロープのような物があれば、それでご主人達の手や身体をボートに括り付けることが可能なわけだが。残念ながらディンギーにそんな用意はないですし」
「あるわっ」
秀美が食いついた。
「私のビキニを使えば出来ますよ! ブラのストラップは完全な紐だし、パンツの穴に手を通せるわ!」
「駄目よ」綾音が遮る。
「どうして? ヌードなんて糞食らえって言ったのは綾音さんじゃない」
「そうじゃないわ。その材質では男性の体重がかかればすぐに千切れてしまう。かえって危険なことになるでしょう」
「・・・切れる・・・かしら・・・」
「切れますな」と万田。「残念ながら槌谷夫人のご意見が正しいと言わねばなりません」
そこで綾音が声を正した。
「でも私の着ているウエットスーツなら? ちょっとやそっとじゃ千切れない。そうですね、船長」
着せられはしないが、ロープ代わりにすることはじゅうぶん可能だと気づいたのだ。
「うむ、物理的な意味でならそうですが、しかし・・・」
「私のスーツはセパレートタイプなので脱ぎ易いとおっしゃいましたよね、船長」
「正確には『脱げなくはない』と言ったまでで、簡単ではありませんぞ。細心の注意が必要な作業になる」
「危険な状態になればすぐに中止すればいい。船長の指示には必ず従うと約束します」
思案に暮れるようにしばし沈黙する万田。
沈黙は周囲から白紙委任状を集めるための政治的手法であったりする。
万田はやがて口を開いた。
「ゲストに犠牲を強いるようで忍びないが、やってみる価値はあるでしょう。国際級のアスリートであった槌谷夫人の運動神経とバランス感覚は、信じるに値する要因と言えますからな」
彼は船尾の五人の同意を確認する。当然、彼らは万田の判断を支持した。
「とにかく横揺れに繋がる体重移動は厳禁とさせて頂きますぞ。このディンギーに残っているのは、前後が浮沈するような縦の揺れに対する復原力だけです。それも雀の涙程度だが」
そして背後の綾音にこうアドバイスする。
「バランスが崩れそうになったら、間違っても足で踏ん張ろうとしないように。乱れたエネルギーが船体へ直に伝わってしまう。その場合は、万田の背中にしがみついてください。鍛錬された全身の筋肉が避雷針のようにエネルギーを吸収し、偏りなく放出しますから」
「わかりました」
「それから──」と船長は全員へ向かって厳命した。提案でなく命令。「──ここからは非常事態に入ると認識して頂く。なので必要があれば皆さんの敬称を略することにします。男性は苗字を帯び捨て、女性は名前を呼び捨てだ。サッカーだって試合が始まれば先輩後輩関係なく短い愛称で怒鳴り合うでしょう。まして我々は今、生と死の瀬戸際にいる。気取っている暇は一秒だって、ない。なお私のことは『船長』と呼ぶのを許可します」
誰も口答えをしなかった。万田の言葉はすべて合理的で正当性があるように聞こえる。
「では綾音、慎重に脱衣を開始しなさいっ。まずはベルトからだ!」


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