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  炸裂する空手チョップ

 そこへ折れていくと、急に薄暗くなった。木立が高く迫り出して半アーケードの感じになっている。熱気がこもり、ジャングルのような蒸し暑さだ。
 ジャクリーンはあごに滴る汗を拭った。肩にも胸もとにも二の腕にも、甘い体臭を含んだ生汗が滲みだして、細かい羽虫たちを惹きつけた。勾配がきつくなり身体を前傾にして、一歩一歩踏みしめるように歩かねばならなかった。こういう道は不気味だが、かえって安全なのかもしれないと彼女は思った。何しろ人一人が通るのがやっとの狭さである。正面からでも背後からでも、攻撃してくる敵は単独行動を取らざるをえないのだ。両側の茂みに隠れていて、わっと襲いかかる? いやいや、この薮では一歩動きだせばすぐに音を立ててしまうだろう。身構える準備さえできれば、恐くないのだ。自然の防犯装置に取り囲まれているといっていい。
 三本目の矢はやはり右側の木に食い込んでいた。今度はスリップが磔の刑に処されていた。メッセージはこうだ。
 『あと少しだ。ほんの少し、ムチムチの太腿を動かせば俺に会うことができる。そうすりゃ天国にいけるんだぜ、ジャッキー。違う世界が開けてくる。ブロンド美人の新しい門出に乾杯! もう分かれ道はない。まっすぐ、まっすぐだ、俺のペニスのようにまっすぐ歩いてこい!』
 そして亀頭がコブラのように肥大したペニスの絵がズンと右上がりに頂上を示している。
 ジャクリーンにはちっとも恐怖感がなかった。気の弱い変質者であることは最初からわかっている。こうした変執的な方法、芝居気が過剰でどこか幼稚な方法にこだわるところなどは、その典型といっていい。仲間がいるとも思えなかった。いるとしてもたいした男ではない。なぜなら電話に出たのは──つまり変質者にとって一番おいしいところに顔をだしたのは──一人なのだ。仲間がいるとしても分け前にもあずかれないような脇役であろう。ようするに『真夜中の恋人』氏の子分だから、彼以下の能力であり、そうであればまったく無視してもいいのだった。
 登坂は突然、中断された。頂上に出たのだ。樹木が切り倒され、薮が刈り取られして、小広い空き地ができていた。その中央にプレハブの小屋が建っている。看板には何かの企業の名前が書かれている。まったく殺風景な光景であった。
 しかしここからはクライズヒルズ郡のほぼ全域を見渡すことができるようだった。ミセス・バルビーのモーテルの赤い屋根がすぐ麓にみえる。その向こうが碁盤の目状の町並みだ。ジョージ・スピルマン所長のお屋敷のあるあたりが、その東南のはずれ。正反対の側へ視線を移せば、遥か彼方にクライズヒルズ刑務所の監視塔を望むことも可能であった。スモッグのない空気は澄み切っていて、それらが生き生きと佇んでいるのだ。こうして眺めているとこの町がどれほど腐り切っているか、一瞬、忘れてしまうような錯覚にとらわれる。しかしそれはやはり錯覚であった。ジャクリーンはすぐに現実に引き戻された。
 「いい度胸だ。ブロンド女!」男の声が静寂を破った。
 ジャクリーンは振り返ったが姿はどこにもみえない。あのプレハブ小屋か? いや違う。茂みのどこかだ。淫らな視線が自分の肉体に注がれているたしかな感じがあった。彼女は落ち着いて腰に手をあてた。
 「あなたはどうなの。『真夜中の恋人』さん! からっきし度胸がないみたいじゃない。せっかく来てあげたのに、また電話ごっこのつづき? 顔をおみせなさいよ」
 凛とした声が響いた。ジャクリーンは反応を待った。沈黙の時間が無為にすぎていく。どうやらまだ挑発が足りないらしい。
 「何が恐いのかしら」とジャクリーン。「警察なんか連れてきていないわよ」
 ひからびた笑い声が沸き起こった。ジャクリーンは素早く声のする方角を見極める。小屋を中心に考えると、その少し右の薮のあたりだ。彼はそこに身を潜めているに違いない。
 「俺がポリ公を恐がっているだと! 馬鹿馬鹿しい。ありえない話だ」
 「あら、意外にハッキリ断言するじゃない。それじゃどうして出てこないの」
 「いいんだよ。お前は少々口数が多すぎる。命令は俺が下すのだ」
 男はかなりいらついているようだ。この間の晩のようにジャクリーンに主導権を取られるのが恐いのだろう。
 「その命令とやらを聞かせてもらおうじゃないの」
 「ふん、売女め。また指図しやがって。いいかよく聞け。その小屋のなかに手錠が置いてある。お前はそれを自分の手首にかけるんだ。そうすればその時、俺の顔を拝むことができる。俺の跨ぐらにぶらさがっている双つの玉嚢と肉棒もな」
 あの含み笑いが聴こえてきた。ジャクリーンが小屋に入ってみると──そこは土木作業の材料置場だった──たしかに手錠はあった。
 「これをしろというの?」
 ジャクリーンは茂みに向って手錠をかかげて叫んだ。
 「そうだ。ジャッキー。俺はお前のような生意気な女が戒められている姿をみるのが好きなのさ。サラもなかなか魅力的だったぜ」
 「これをしたら出てきて話をしてくれるのね。サラのことも。スピルマン所長のことも」
 「ああ、そうだ。メッセージを読まなかったのか。ついでに赤毛の牝豚のことも教えてやると書いてあったはずだぜ」
 「わかったわ。だけど鍵はあなたがちゃんともってるんでしょうね」
 「当たり前だ。馬鹿。ちゃんと俺のブリーフのなかにしまってある。欲しけりゃ、俺の足元に跪いて自分で探しだすんだな」
 ジャクリーンは笑いだしたくなるのを必死でこらえた。なんだかんだいいながら、彼が恐がっているのがわかったからだ。女一人まともに扱う自信がないのだろう。ジャクリーンは手錠の輪を手首にはめて、カチリとロックした。無鉄砲なようだが、この拘束は空手使いの能力の半分を封じこめたにすぎないのだ。破壊力では上肢を上回る二本の足がまだ自由に放っておかれている。そして敵はおそらくそれで十分すぎるほどの相手なのである。
 ジャクリーンは短い鎖で繋がれた両手首を頭にかざし、まやかしのないことを証明した。「どう。ちゃんとはめたわよ。さあ、出てらっしゃい」
 それからまた約五分間が静寂の中で流れた。そしてようやく彼女が見当をつけていた薮がごそごそと蠢きだした。這い出してきたのは五フィートにも満たないような小男だった。年齢は二十代前半だろうか。低身長を補うつもりなのか、口からあごにかけて髭を生やしていたが、かえって滑稽な印象を増幅させている。黒の皮ジャンバーとジーンズもまったく似合っていない。彼が矢をつがえたボウガンを手にもっていなかったら、まったく威嚇的ではなかっただろう。
 男は慎重に狙いを彼女に向けながら近寄ってきた。
 「なんて挨拶したらいいのかしらね、こういう時は」
 ジャクリーンはボウガンのトリガーにかかっている男の指のかすかな慄えを確認しながらいった。
 「黙ってろ!」
 男は叫んだが、自分の緊張を悟られまいとしているのがありありとしている。彼は覗くようにして手錠が完全にはまっているのをたしかめてから、こういった。
 「よーし。そこに跪くんだ」ボウガンの先で地面を指した。
 ジャクリーンは心の中でふふんと嘲笑する。自分の背の低さに劣等感を抱いているのだ。そして自分よりも大きな女を見下ろすことにうっとりするようなサディズムを感じるタイプなのだ。まあいいだろう。ある程度従うところをみせ、唯一の武器である弓の照準をこちらからずらさせるように仕向けるのだ。この男ならば十秒もかからない。倒すのはレゴを崩すよりも簡単である。
 ジャクリーンはゆっくりと膝を折って彼の前に座った。
 美しいブロンドが自分の目の位置よりも低くなると男はようやく緊張感をやわらげた。上から覗くと女弁護士のつむじが量の多い髪の毛の中に埋まっているのがみえた。直線的な鼻筋と長い睫、さらにその下には豊満な胸の盛り上がりがみえている。男は狙いをつけたまま後退りし、プレハブ小屋から折り畳み式の椅子をもってくると彼女の前に腰をおろした。それでも彼女の頭は臍の位置までしかない。これでもたっぷり征服感に浸ることができる。
 女弁護士が顔をあげた。ゾッとするほどの美人である。さらさらとした頭髪がやわかい顔の輪郭をなぞって肩にかかっている。湖のような瞳にみつめられると、卒倒しそうな気分になった。これほどの女を跪かせている現実に男は感動を通り越した昂奮を覚えないわけにはいかない。ボストンからきた有能な美人弁護士! それだけでも胸が高鳴るのに、手錠を施されてこちらの言いなりなのだ。
 「それで、情報を教えて頂戴」
 「ほざくな。淫売!」男は専横に足を組み、爪先をぶらぶらさせた。「黙ってないとその風船みたいなおっぱいにこの矢をぶちこむぞ。空気が抜けて少しはみられるようになるかもな」
 だんだん調子が出てきた。この勢いで征服しろ!
 「こうして近くでみると、それほどの美人でもねえな。ツンツン鼻ばかり高くて、意地悪そうな顔をしている」
 「ありがとう。嫌われてほっとしたわ」


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