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  疑惑の土地

 パトカーから二人の警官がおりてきた。一人はスタンドの男よりも一回り肥満体で、ジャクリーンよりも背が低い。もう一人は若造だ。彼らは胡散臭そうにホンダをみやりながらこちらに歩いてきた。
 「何か問題があったのか」デブがいった。
 その見下すような物言いにいくらかカチンときながらもジャクリーンはとりあえず笑顔をつくった。ことによると彼らがサラを逮捕した張本人たちかもしれない。いまは素性を知られないほうがいいだろう。
 「いいえ、ポリス、何の問題もありませんわ」
 しかし警官たちは怪訝そうな表情をしただけだった。そしてデブがもう一度いった。
 「何か問題があったのか、グレッグ?」
 警官はどうやら従業員に尋ねたらしい。ジャクリーンは内心苦笑したが、改めてここでは自分が異邦人であって警戒されるべき存在なのだと思い知らされた。
 「どうってことないよ、ウィリアム」
 ウィリアムと呼ばれた男は露骨に不快な表情をした。
 「仕事中はファーストネームで呼ぶなといっているだろう、グレッグ。いい加減にちゃんとしてくれないか」
 「ああ、悪かったな。どうってことないよ、ヒギンズ保安官助手」
 助手の部分を一際、強調して、グレッグはニタついた。
 「ヒギンズ万年保安官助手といったほうが正確かね」
 ウィリアム・ヒギンズの表情がさらに険しくなった。二人の言い争いを無視して若造のほうはさっきからジャクリーンをジロジロと眺め回していた。それが警察官の特権であるかのようになんのてらいもなく値踏みしている。
 どうやらホテルの所在をたしかめる風向きでもなくなったと、ジャクリーンはホンダへ戻ろうとした。するとグレッグとやりあっていたヒギンズがくるっと振り返って、「待ちなさい」ときつい声をかけてきた。と同時に若造の手がジャクリーンの細腕を掴んだ。
 「なんですの?」二三歩引き戻されながら女弁護士は驚いて声をあげた。
 「逃げる気かね?」とヒギンズ。
 「逃げる?」意外な言葉に彼女の美しい眉根が寄った。
 「おや、ホテルの場所はいいのかね」グレッグがまたニタニタしている。「このお嬢さん、いま俺に宿をどこにしようかと尋ねていたのさ」保安官助手に向って説明した。
 「答えも聞かずにいこうとしたわけだ。我々の制服をみた途端」ヒギンズはすっかりジャクリーンに向き直り、その赤ら顔をしかめている。
 「保安官──」と慎重に言葉を選んで、ジャクリーンはつづけた。「勘違いをなさっていますわ。お二人の仲がよろしいようなので私は気を使ったんです。ホテルの場所は公衆電話ででも探せばいいのですから」
 そういうと、まだ腕を掴んではなさない若造の手をふりほどいた。彼女の二の腕に爪のあとがくっきりと凹んでいた。
 「逃げたわけじゃありません」
 「私にはこそこそと逃げだそうとしたようにみえたがね。ハリー、お前はどう思う?」 ヒギンズは若造に尋ねた。
 「ええ、保安官。僕にもそう映りましたよ。ずっと観察してましたがね。我々をみると顔色が変わったような感じでした。汗もびっしょりですし」
 「馬鹿馬鹿しい!」思わず声を荒げるジャクリーンだ。「汗くらい誰だって掻くでしょう。こんなに暑いんだから。私は失礼しますよ。長旅の疲れを癒さないと」
 ジャクリーンはそのままくるりと彼らに背を向け、歩きだした。
 「動くな!」ハリーと呼ばれた若造の身体に緊張が走った。今までとは比べものにならないくらいの緊張感の漲り。ハリーは腰のガンベルトにぶらさがっているホルダーから拳銃を抜き出し、ジャクリーンの美しいブロンドに狙いを定めた。ジャクリーンはギョッとして立ちすくむ。ハリーの眼は、お前は一線を踏みこえたんだぞ、といっているようだった。
 「手を頭のうえへ! 早く! ゆっくりとだ!」
 ジャクリーンはとまどいの微笑みを漏らしかけ、助けを求めるようにヒギンズとグレッグのほうに顔を向けた。ヒギンズはさきほどより難しい表情になっていて、ハリーの行動を不当化しようとするつもりはないらしかった。スタンドの給油マンにいたっては銃口を突きつけられた美女の驚愕と忿懣をニタニタと楽しんでいる。
 「グズグズするな! 牝豚!」
 ハリーの行動と言動はどこか芝居じみていて、これがやりたいばかりにこの職業についたのだ、と傍目にもすぐわかった。
 (狂ってるわよっ)心の中で罵りながら、ジャクリーンはゆっくりと両手を頭へもっていく。汗ばんだ腋窩が晒された。細腕が後頭部で組まれ、くの字に曲った。豊かなバストがそれにつれて位置をあげ、さらに上向きに尖端をツンとさせた。
 「後を向いて足を広げるんだ! 馬鹿な真似はするな。ハリー様のリボルバーがお前の脳味噌を狙っていることを忘れるんじゃないっ」
 ハリーの声はますます精気を帯びてきているようだった。仕事柄、不快な目にあったことはこれまでもたびたびだったが、こうも露骨な不法行為に遭遇するのは初めてである。ジャクリーンは反撃の機会──もちろん暴力的にではなく、法律を盾にした正当な権利の主張だ──をうかがいながら命令どおりに従った。背を心持ちそらし、両足を一メートルほどの間隔に開けば、ジーンズにぴっちりと包まれた魅惑的な臀部がブリブリと蠢いた。
 「保安官っ」とハリーは視線をジャクリーンに置いたまま、ヒギンズにいった。「逃亡を図ろうとした不審者の身柄を確保しました!」
 手柄を親に報告する子供のような単純な誇らしさが感じられた。
 「うむ、ハリー。上出来だ。日常の訓練のたまものだな」とヒギンズはいい、靴音をさせて近付いてきた。グレッグの、喉を震わせるようなひねこびた笑いが聴こえた。
 「保安官。これはどういうことですか。すぐに拳銃をひっこめさせてください。もちろんこれは……行きすぎですよ」
 ジャクリーンはこみあげてくる憤怒を必死に押さえながら、努めて冷静に言葉を発した。 
 「行きすぎなもんかね。お嬢さん。職務質問中に警察官の制止を振り切って逃亡しようとしたんだ。二十年前なら撃ち殺されたって文句はいえないさ。ま、今だってあんたの肌がもう少し黒けりゃとっくに頭蓋骨に穴が開いてるよ」そこで唾をぺっと吐き出し、「ハリー、凶器を所持していないか、ボディチェックしろ」と続ける。
 グレッグが今度は声をたてて嗤った。
 「ハリー、これだからやめられんな。ポリスはよ」
 ひやかしを無視して、ハリーは慎重にジャクリーンに手をのばした。明らかに昂奮している若者の鼻息を肩越しに感じながらボストンからきた美人弁護士は大きく深呼吸する。怒りで頭がチカチカする。落ち着こうと思っても膝が慄えた。
 まず男の手が剥き出しの腕──そんなところに何を隠せるのだろう!──に触ってきた。ハリーの手のひらは不気味なほどの熱を孕んでいた。変質者の熱だ。頭に組んだジャクリーンののびやかな腕を撫でながら、しだいに下へおりていく。二の腕をさすり、肩をさすり、腋の下までスルリとさすりあげる。さすがに武者震いがおきる。鳥肌がたった。
 「ハリー、ぬかるなよ。おっぱいの谷間に何かを潜ませてるかもしれねえぜ」
 グレッグの下劣な合いの手をヒギンズが手を振ってたしなめた。
 「これはれっきとした職務だぞ、グレッグ。レイモンド巡査は忠実に職務を果たしているだけだ。親愛なる納税者のためにな」
 しかしハリー・レイモンドの手つきははっきりと豊満な肉体を感じていた。汗でびっしょりと濡れているノースリーブシャツの背中を二度三度とタッチしていくと、ムチムチした肉付きが跳ね返ってくるのだ。くびれた腰をそのラインに添って、まるで秘宝の壷を慈しんで磨くように這わせた。
 あまりのおぞましさにジャクリーンはうっと息をつめる。これはまさしく痴漢行為であった。ボディチェックなどは軽くポンポンと触っていけばいいものではないか。思わずこの若造の股間を蹴りあげてやりたい衝動にかられたが、依然として頭に突きつけられているリボルバーが彼女のうかつな抵抗を押さえこむ。唇を噛みしめ、屈辱に耐え忍ぶ以外にない。
 ハリーの手がお尻の丸みを撫で回してくると、ジャクリーンの腰はそれを避けるように右に左にふらついた。はいていたのが厚手の生地のジーンズだったのがわずかな救いだがそれでも双つの臀をたしかめるように、そしてその間の谷を探る淫猥な指の動きにはハラワタが煮え繰り返る思いだった。
 しかしなんとも刺激的なダンスだ。グレッグは軽口をやめてゴクリと生唾を飲み込んだ。この美人のヒップのなんと見事な成熟ぶりよ。この場で丸裸にしてこの手でいやというほどスパンキングしてやったらどんなに気持ちいいだろうか。
 ハリーの手は未練を残しながら腰を離れ、すらりと長い下肢の捜索に移る。片足ずつ、上から下へ丹念に触った。内腿、ふくらはぎ、足首とどれもがシェイプアップされていて、硬く引き締まっていた。
 女体の裏側のチェックがおわると、今度は下から這い昇っていくように前へのタッチが始まった。さすがに股間はさっと通過しただけだったが、それでもジーンズのファスナーの上を男の指が動いていくのだ。指は陰部のかすかな起伏を感じたに違いない。全身の産毛がそそけ立つ恥辱に女弁護士は両頬を紅潮させる。やや贅肉をのせはじめた下腹をねっとりと撫で回されると、衣擦れの音が耳に入った。昂奮して荒くなっている呼吸に大きく喘ぐ感触をその手は楽しんでいるのである。
 スッと指が乳ぶさの下縁に触れてきた。しかもハリーは己れの身体をジャクリーンに密着させるように寄り添わせてくる。強姦されているような感覚にとらわれ、眩暈がした。ハアハアと犬のような息が耳元に吹きかかってくる。乳ぶさの丸みをなぞるような指は左のそれを一周し、さらに8の字を描くように右のふくらみも一周する。手のひらが開き、ツンと浮き上がったトップをスッ、スッと軽くこすった。
 最後に顔面をペロリと撫であげて屈辱のボディチェックは終了した。
 「大丈夫です。保安官。危険物の所持は認められません」
 ハリーは昂奮さめやらない声でヒギンズに報告した。
 「よし、パトカーに乗せろ。署まで連れていくんだ」
 ヒギンズの言葉にすぐさま反応を示したのはレイモンド巡査ではなく、ジャクリーンだった。彼女はとらされていた姿勢を崩し、勢いよく振り向いた。
 「どういうことっ。私が何をしたというのっ。なんで警察にまでいかなけれがならないのよ!」
 カッと眼を見開き、両手を差し出すように抗議するジャクリーンの剣幕に男たちは一瞬、呆気にとられた。
 「ずいぶん生きのいいお嬢さんだ」とヒギンズは柔らかく微笑みながらいった。「同行を拒否するというならここで緊急逮捕して、手錠をかけて連行してもいいんだよ。だがそんなことはしたくない。この静かなクライズヒルズの夜をできるだけそっとしておくのが我々の役目だからな」
 彼の諭すような語り口にジャクリーンは気勢をそがれたが、それでも彼らの言いなりになる気はなかった。
 「こんなことで逮捕したらそれこそ不当逮捕だわ。ただ車にガソリンを入れにきただけでしょう。そこの従業員に聞いてみればいい。素晴らしいクライズヒルズの法律は許すわけがないはずよ」
 「ガソリンを入れにきただけ?」グレッグが肩をすくめた。「そいつは正確とはいえねえな。ガソリンを入れにきて、それからホテルがどこにあるかきいたんだ。そして俺にチップにしては多すぎる額の金を渡した。ウインクして腰を振りながらさ」
 「嘘をいわないでよ!」
 「お嬢さん。大きな声をださんでくれ。私はレディのキンキン声は好かんのだ」ヒギンズは顔をしかめながら制する。「で、何が嘘なのかね。ホテルがどこにあるか聞いたことはないというんだね?」
 「いえ……それはその通りですが、ウインクなどしてませんわ」
 「駄目だな、お嬢さん。するとガソリンを入れに立ち寄っただけというあんたの話は正確じゃないってことじゃないか。嘘をついているのはやはりあんたじゃないのかね」
 「嘘だなんて。昂奮して忘れただけですわ。スタンドで道を尋ねたり宿を聞いたりするのはごく自然なことで、罪に問われるようなことじゃないでしょう?」
 「もちろんその通り。だから今、あなたを逮捕するわけではない。しかし小さな嘘が大きな嘘の尻尾の場合もある。昂奮して何かを忘れたり、記憶の辻褄があわなかったりするのは、普通の人間にもままあることだが、犯罪者にはそれが顕著なのだよ。そのへんの見極めが警察官の仕事としていちばん難しいわけだ。こういう小さなタウンのいいところは住民のほとんどが顔見知りで普通の人間だということがわかっている点だな。たとえばこのグレッグ。しょうしょう気が荒くて品性下劣だが──まあまあグレッグ、そうむきにならないで──嘘つきで犯罪者でないことは私はよーく知っている。子供の頃からみているからな。しかしお嬢さんのことは何もしらん。他所者だからな。それに警察の制服をみたら急に逃げようとした。だから署まできていただいて色々と話を聴こうというわけだ。普通の人間か犯罪をしでかすような人間か、それでわかる。もちろん普通の人間とわかればすぐに解放する。素晴らしいこのクライズヒルズを満喫していけばいい。ただそれだけの話だ」
 (ただそれだけ? 冗談じゃないわよ──)
 ジャクリーンはむっとしながらも口をつぐんだ。ヒギンズの屁理屈に納得したわけではない。彼らのこの行動──他所者に対する過剰な攻撃性──が妹の事件になんらかの繋がりがあるのではないかと思いはじめたからだ。それならば彼らに付き合うのもあながち徒労ともいえまい。この保守的で抑圧的な警察組織の正体を暴くことができればサラの冤罪──ジャクリーンはとっくにそう結論づけていた──を晴らす端緒につけるかもしれなかった。
 「いいですわ。保安官助手」ジャクリーンは皮肉めいた笑みをこぼした。「御供しますわ。どこへでも。あなたちは私を、私はあなたたちを理解するために努力しましょう」
 ジャクリーンはきびすを返すと自らパトカーに向って歩きだした。ハリーが慌てて彼女の腕を掴もうとするがそれを反射的に避け、あっという間にパトカーの後部シートに乗りこんだ。
 「いいのは顔だけでないようですな。頭もとびきり回転が早いようだ」
 ジャクリーンの横に座ったヒギンズがいった。運転席のハリーがサイドブレーキを外して車を発進させた。
 「車のことは心配せんでもいい。後でハリーが取りにくるから」
 窓を覗いているジャクリーンにヒギンズがいった。
 「また来いよ。お嬢さん。ガソリン、安くするからさ」
 スタンドマンのグレッグの嗤い声が聴こえ、そしてすぐに背後へ遠ざかった。
 十分足らずのドライブでパトカーは警察署に到着した。署といっても二階建のこじんまりとした建物で警察よりドラッグストアのようである。日頃、大都会の警察署を見慣れているジャクリーンは思わず微笑を漏らした。
 中へ入ると受け付けのカウンターに中年の女がいるだけでひっそりと静まり返っていた。ヒギンズとハリーは彼女と何事か会話をかわした。女はチラッとジャクリーンを横目でみ、陰気な表情を向けてきた。
 「さ、こっちだ」ヒギンズは廊下の奥を指した。ハリーは外へでていった。ホンダを取りにいったのだろう。
 案内されたのはガランとした一室。取り調べ室だが、窓には金網も鉄格子もなく圧迫感はない。ジャクリーンはそれでも警戒心は緩めず、勧められた椅子に腰をかけた。ヒギンズが向い側に座り、ノートを広げる。
 「まず名前だ、お嬢さん。それに住所と年齢も」
 ジャクリーンは躊躇した。本名を名乗るべきかどうか。サラ・ドーセットと同じ姓をきいて彼らはどんな反応を示すのだろう。不審と警戒のマントを羽織って容易に尻尾をみせなくなるのではないだろうか。しかし名前を偽っても嘘はすぐにバレてしまうに違いない。所持品検査でもされればイチコロだ。免許証は車の中である。ジャクリーンは正直に答えることにした。
 「ジャクリーン・ドーセット。三十歳。職業、弁護士……」
 反応を盗みみる。ヒギンズはメモをとる手を休めたがそれは彼女の名前よりも職業の影響であるようだった。
 「弁護士……」
 彼は反復し、まじまじとジャクリーンをみつめた。ほとんどの男性がそうであるようにヒギンズもその職業とジャクリーンの美貌──それに豊満な肉体も──とを結びつけようと苦労しているようだった。ドーセットの姓にはひっかかりはないのか。かすかな狼狽の色を期待していたジャクリーンはやや拍子抜けする。しかし無関心を装っているだけかもしれない。つづいて赤ら顔の保安官助手の観察に眼を凝らした。
 「弁護士バッジは見当らないようですが」
 ヒギンズは『若者に説教する大人』といったそれまでの態度を一変させ、慇懃な上目遣いで彼女をみた。
 「もちろん車のトランクのなかのスーツケースにありますわ。あなたの優秀な部下が今こちらに運んできているはずでしたね。別にいつも付けているわけではありません」
 ヒギンズの表情には困惑がありありと浮かんだ。相手が弁護士と知っていれば署まで連れくることはしなかったのだ。面倒になったぞ、訴えられたらどうする? そんな自問自答がつづいているようにみえた。
 「どこからおいでになったのです?」
 「マサチューセッツ・ボストン」
 東部の大都会の名がますます彼を萎縮させたようだった。
 「クライズヒルズにはお仕事で? それとも観光ですか? ドーセット弁護士」
 「少なくとも観光ではありませんわ。仕事──になるかどうかもまだはっきりしません。一両日中にはわかるでしょう」
 ジャクリーンはすっと癖なく高い鼻を蠢かせる。ほつれ落ちてきたブロンドをかきあげる仕草が痺れるような色っぽさだ。
 「さ、さしつかえなければどういうことか教えて戴けませんか。警察として何かお役に立てることでも」
 「さあ、それもまだわかりませんね。こちらの弁護士エド・ローエンに会って、しかるのちに妹に面会してからのことです」
 「エドに? 妹さんがこちらにご滞在なのですか?」
 「正確にはここの刑務所にですわ。ヒギンズ保安官助手」とここでジャクリーンは相手の表情をみすえた。「サラ・ドーセットというのが妹の名前ですわ。ご存じかしら?」
 「サラ・ドーセット……」
 ヒギンズは呻くように呟いた。ポケットからタバコを取り出して火をつけた。毛むくじゃらの指が細いフィルターを挟み、口から離れる。白い煙とともに濃いニコチンの臭いが室内に充満する。タバコをもつ手は明らかに震えていた。
 「知っていらっしゃるようですね」
 ジャクリーンが問い正そうとしたとき、部屋のドアの外が騒々しくなった。荒々しく扉がノックされ、返事もきかずにどっと開け放たれた。ハリー・レイモンドが駆け込んできた。手にもっているのは白い粉がつまったビニール袋……。
 「保安官、大変です。車を調べたらこんなものが──」
 ハリーが袋をヒギンズの鼻先に突き出した。
 「ま、待ちたまえ。レイモンド巡査。やにわに入ってきて何をいってるんだ!」
 ヒギンズは椅子を飛ばす狼狽えようで立ち上がり、ビニール袋をひったくった。
 「運転席のアタッシュボードにねじこんであったんです。常習者に違いありません!」 なおも勢い込むハリーの胸をヒギンズはどんと突き飛ばした。
 「どの車のアタッシュボードだか知らないが、こちらのドーセット弁護士に関わりあいのないことで怒鳴りこんでくるんじゃない! 君は礼儀というものを知らないのか!」
 声を荒ららげ、胸ぐらを掴んで激しく揺さ振った。その奇異なほど唐突なアクションのなかでヒギンズがしきりにハリーへ目配せをしている事実を、美人弁護士の鋭い観察眼は見逃さなかった。
 「べ、べ、べ、弁護士?」ハリーは悲鳴をあげる。
 「そうだ、こちらはボストンの弁護士さんだ。どこのジャンキーのブツか知らんが、こちらとは一切関係がないんだから、怒鳴りこんでくる奴があるか!」
 「ひっ……す、すいませんでした」
 腰が抜けそうになるハリーをヒギンズが強引に支えている。
 半開きのドアがまた大きく開いた。
 「どうしたんだ? 何を騒いでいる?」
 そういいながらヒギンズたちと同じ制服の男が部屋に入ってきた。日焼けした美しい肌をもった男だ。スポーツマンのような鍛えこまれた逆三角形の体格をしている。
 組み合っていたヒギンズとハリーが直立不動の姿勢になった。
 「保安官っ。いえ、ちょっとその……」
 いい淀んだヒギンズは保安官とジャクリーンへ交互に視線を移した。それで初めて部屋のなかに誰かいることに気付いた保安官はゆっくりと振り向いた。ヒスパニック系と思われる野性的な彫りの深い顔立ちをしていた。美形だが右頬にやや長めの傷がついている。
 彼は一瞬、ジャクリーンの美しさにうたれたようだったが、恭しくお辞儀をした。
 「お嬢さん、しばらくお待ちください」
 保安官はそういうと、二人の首根っ子を掴むようにして廊下へでていった。扉が閉められたため、彼らの会話はわからない。
 ジャクリーンはハリーとヒギンズのパニックを反芻して、その意味を理解しようとした。答えは明瞭である。ハリーがもっていたのは麻薬に間違いなかった。ヘロインか、それともコカイン。少なくともそれにみせかけた粉である。ハリーが口走った車とはジャクリーンのホンダに決まっている。つまりハリーはなんらかの目的でジャクリーンに麻薬所持の罪を着せようとしたのだ。ヒギンズが彼と結託しているのは疑う余地のないところ。彼女が弁護士であるのを知り、おじけづいて、急きょ計画を変更し下手な芝居をうったのだ。
 ジャクリーンはサラの事件との関連性を疑わずにはおれなくなった。彼らがどんな理由でそういう芝居をしているのか。点数稼ぎに犯罪をでっちあげる不良警察官は存在する。そのほとんどは味をしめると常習化していくのだが、ガソリンスタンドからの巧みな連携プレーをみていると、その可能性が高い。悪辣なその罠に妹が落ちたことはじゅうぶん考えられる。しかしまだそう決め付けるには早すぎる。この無法が下っぱ警察官の単独のものか、警察ぐるみのものなのか、それは彼らの上司とおぼしきヒスパニック美男子の出方を見極めるのが先である。
 (それにしても到着早々たいした歓迎だわ)
 ジャクリーンは内心苦笑した。しかし早々とクライズヒルズの秘密を垣間見れたのは収穫かもしれない。
 しばらくしてドアが開いた。入ってきたのはそのヒスパニックただ一人だ。
 「お待たせしました」と彼はいった。椅子には座らず、ドアのノブをもったまま、恭しくエスコートする。「私はこのクライズヒルズ郡の保安官、デビッド・パターソン。もしよろしければ、お宿までお送りいたしましょう」
 ジャクリーンは腰を浮かせながら優美な眉を大げさに吊り上げていった。
 「あら、もういいんですの?」
 「当然です」パターソンは難しい顔をし、吐き捨てる。「部下の不作法はどうかお許しください。あなたをここに連れてくる必要はなかった。きつく叱りました」
 「すぐにでも逮捕されるような雰囲気でしたよ。麻薬か何かで」
 二人は廊下にで、並んで歩いた。六フィート弱のジャクリーンの身長より、パターソンはさらに頭ひとつ大きかった。
 「麻薬……そう、あれについては部下にも少しは同情すべき余地がある……」
 玄関ホールにでると、受け付けの女が来たときと同じように胡散臭い視線をジャクリーンに送ってきた。ハリーもヒギンズもそこにはいなかった。
 「とにかくこのクライズヒルズは静かな町なのです。都会のような犯罪とは無縁な場所なのです。ここで生まれて育った部下たちのような人間には犯罪は眼が飛びでるほど珍しく、昂奮するものなのです」
 外はもうとっぷりと暮れている。パターソンはホンダの助手席のドアを開けてジャクリーンを促した。自分は運転席に乗り、ハンドルを握った。
 「車から大量の麻薬がみつかることなど、年に一度あるかないかです。部下は、とくに若いハリーは舞い上がってしまったのですな。それでまわりがみえなくなり、あなたのいる部屋に飛び込んだ。おかげであなたにたいへん不愉快な思いをさせてしまった。公職につくものとしては失格です」
 エンジンがかかり、ホンダは軽やかに発進した。パターソンの穏やかで落ち着いていた語り口にジャクリーンは危うく納得しかけるところだった。パターソンの物腰には自信に溢れて人生を歩んでいる男だけがもつ雰囲気が漂っていて、そういうものに女はつい騙されてしまう。しかも彼はハンサムだ。気を引き締めなければならない。あのハリーとヒギンズの行状を思い起し、疑念を蘇らせた。しかしそれをパターソンにぶつけるのはやめにした。ここはひとまず納得した振りをして体勢を建てなおしたほうがいい。尻尾はすでに掴んだのだから。
 「そういうことだったら」とジャクリーン。「大目にみることにしましょう。都会にはもっと悪辣な警官がうんざりするほどいます」
 パターソンは繰り返し礼をいった。
 「ところでどこへ向ってますの? 行き先を聴いていませんけど?」
 パターソンは子供のようにはしゃいだ笑い声をあげた。どんな人間の心でも和ませるような声だった。
 「これは重ね重ねの失礼でしたね、ドーセット弁護士。むろん、今夜のあなたの宿へですよ。このクライズヒルズに一軒しかないホテルです。野宿をする気がない旅行者には選択の余地はないのです」
 再び笑い声。ジャクリーンも思わずつられて笑いをユニゾンさせた。街頭の乏しい暗い道を安定したハンドルさばきでパターソンは運転している。その甘い端正な横顔──こちら側からはあの傷はみえなかった──をちらりとみながらジャクリーンは、もしこんな出会いでなければ彼の魅力にひきつけられたかもしれないと思った。
 「エド・ローエンには連絡しておきました」その横顔をキリッとさせてパターソンがいった。「彼もホテルに直行するといっていました」
 「そうですか……」田舎とはこういうものなのだろう。ネットワークはすべてを網羅している。「妹のことはご存じで?」
 パターソンはゆっくりと頷いた。
 「この土地で知らないものはいませんよ。不幸な事件でした」
 「私は何も知らないのです。昨日、ローエン弁護士から電話を受けて初めて知ったのです。実の妹のことなのに」
 ジャクリーンはパターソンをみた。彼がサラを逮捕したのなら身内である私に報告すべきだったのではないか。彼女の言葉にはそういった色合が滲んでいた。保安官の短く刈り上げられた黒髪が額に垂れ落ちている。これも黒い瞳が憂愁を湛えている。
 「妹さんのことは……」静かな声であった。「エドから聞くのがもっともよろしいでしょう。担当の弁護士でもあるし。私はあくまで取り締まる側の人間ですから、公平さを欠く可能性がある」
 ジャクリーンは頷いた。紳士的な答えだ。しかしその裏側にどんな顔が潜んでいるのか、まだわからない。そう自分にいいきかせた。
 「ここですよ」
 パターソンはハンドルを切って駐車場に乗りつけた。けばけばしいネオンサインが点滅している。『ミセス・バルビーのホテル』はホテルよりもモーテルに近かった。平屋で半分離式のチューブのようなコテージが数珠つなぎになっているのだ。
 駐車場に一台の車が停まってい、その傍らに白髪の男が立ってこちらを眺めている。パターソンはその隣に横付けし、フロントライトを消した。
 「エド、よく来てくれたね。こちらはドーセット弁護士──」
 二人が下りていくと白髪の男、エド・ローエンはまず保安官と握手し、そして自分より背の高いボストンの美人弁護士の手を握った。
 「ようこそ、ドーセット弁護士。とんだ災難でしたな」ローエンはパターソンに一瞥する。「残念ながら当地の警察は未熟者が多いのです。このデビットを除いて」
 ローエンの皮肉にパターソンは肩をすくめる。
 「エド、すべて私の監督不行き届きだ。あなたからもミズ・ドーセットに謝っておいておくれ」
 車のトランクから荷物をだし、コテージの側まで運んでいくと保安官は律儀な挨拶を繰り返し、闇のほうへ歩いていった。
 「あら、彼、歩いて戻るのかしら?」
 「ふむ、別に遠い距離ではない。デビットはハイスクール時代スポーツ万能だったからな。もちろんマイルレースもダントツだった」とローエン。
 彼の後ろ姿を最後まで見送っていたジャクリーンの肩を押して、コテージの玄関の階段を昇った。
 「手続きはすでにすましています。後で料金をもっていけばいい。とにかく中でくつろぎたまえ。話はそれからだ」
 コテージは必要最小限のものがどうにか揃っている程度だったが、それでかまわなかった。シャワー室は一応清潔だったし、ベッドもスプリングがよく効いている。ローエンの勧めに従い、ジャクリーンはまずシャワーを浴びることにした。肌に貼りついたシャツや下着を脱ぐのは不快だったが、すぐに熱い飛沫がそれを弾き飛ばしてくれた。生き返るような気分である。髪も洗いたかったがローエンが待っているので、キャップをかぶり、乳液を全身にまぶして肢体を洗った。勢いよく放射される湯が乳ぶさに気持ちいい。彼女は両手で双つのふくらみをもちあげるようにして、まんべんなく湯を打たせた。あのド助平巡査にまさぐられた気味の悪い感触も綺麗さっぱり流れて落ちていくようだった。