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  狙われたブロンド

 しだいにクレッシェンドしていく蝉の声。呼応していくかのように短くスタカ−トで囀る小鳥たち。静かな風が樹々を揺らし、繁った緑がピアニシモを奏でる。
 バスルームの窓をほんの少し開けておくと、そんな心地いい音がシャワーを浴びている、イボンヌ梨田の耳にも聞こえてきた。
 (今日はなんて気持ちのいい日なのかしら)
 勢いのいいシャワーの水がイボンヌのグラマラスな肢体にぶつかり、弾け飛ぶ。ジメっとする湿度に、まるで蝋ででも塗り固められたようになった肌に、生気が甦る。
 日本にきて三ヵ月、こんなに爽やかな気分になれたの久しぶりだ。イボンヌはシャワーを止め、チューブを絞って香りのいい乳液を両手にまぶす。
 身長百八十二センチ、バスト九十二、ウエスト六十四、ヒップ九十五。三十七歳という年齢を感じさせない形を保ち、年齢相応の熟れ切った、北欧スウェーデン育ちの人妻の肉体。まず首筋と、タオルでひとまとめにされた髪のために、あらわになったうなじにかけて撫で付ける。彫りの深い顔。とくに日本人では考えられないくらい高い鼻の周りは念入りにマッサ−ジする。青く澄んだ瞳が心なしか潤んでいるようだ。仄かに赤らんだ胸元から、次は乳房だ。両方の掌で持ち上げるように双つの房を愛撫する。量感は素晴らしく、とても一つの手では隠しきれない。ピンク色でやや大きめの乳輪から突き出た乳首を、人差し指と親指の腹で揉みほぐす。両手は臍を通って下腹部で前後に分かれた。左手は後、白人特有の突き出た大きな双臀へと滑っていく。弾力をたしかめるように肉丘を踊った五本の指は、やがて切れ込むような谷間へと入っていき、アヌスを探しあててマッサージを開始する。右手が触れた織毛はよく繁茂していて、もし漆黒の佇まいを見せていたなら、むさ苦しささえ感じたかもしれない。しかしイボンヌのそれは目も冴えるような黄金色、ブロンドの輝きを湛えていたのだ。ヌラヌラと乳液を塗り付ける。指はさらに下がり、最終部分に到達する。まず周囲の内腿を少し激しく揉んで、すっと貝の口を撫で上げる。長めの爪を気にしながら、どぎつい紅色の肉襞に分け入った。とうとう両方の手が核心を捉えたのだ。イボンヌは長身をくの字に曲げて手首を動かし続ける。白い身体が朱に染まり始め、目を半開きにして唇をぎゅっと窄めると、喘いだ。大きな乳房がブルンブルンと揺れて全身に小さな痙攣が走り、軽いアクメが襲おうとした時、イボンヌははっと我に返った。
 (いやねえ、まったく)
 シャワーの蛇口を全開にする。ほてった身体に氷の欠片がブチブチとあたるようで気持ちよく、痺れ切った脳が思考を取り戻す。
 (せっかく爽やかな気分だったのに…)
 この国へ来てからいつもこんな調子なのだ。ストックホルムにいた時はオナニーなどしたこともなかったのに。それもこれもみんな、幹雄のせいだ。
 画商を務める夫、梨田幹雄が日本で仕事をしたいと言い出したのは、半年ほど前のことだった。何でもジャパンマネーで膨れ上がった日本での取引が急増しているため、とりあえず日本に根拠を移したいというのだ。それまでヨーロッパ以外で暮らしたことがなく、しかも大学で政治学の教鞭を執るイボンヌにとって、まさに青天の霹靂であった。躊躇するイボンヌを幹雄は三年間という期限付きで承諾させたのだ。まあ、一生のうち、何年間かオリエントな文明に触れることも、いいオーバーホールになるかもしれない。それにアジアの大国日本の政治を学ぶのも無益なことではないだろう。なにより愛する幹雄と別れて暮らすのは耐えがたい事だった。そう考えて日本の土を踏んだイボンヌだったが、期待はまったく裏切られた。スウェーデンにいた時はヨーロッパのペースでゆっくり仕事をしていた夫は、あっという間に日本の商習慣に染まってしまった。イボンヌの想像を絶したそれは、朝早くから夜遅くまで寝る間も惜しんで働き、なんと休日まで接待ゴルフというものがある。夏のバカンスも無期延期。毎晩帰宅してゆっくりと語り合う時間があった昔は夢のようで、これでは語り合うどころか愛し合うことだって不可能だ。日本人はどうやって子供を作るのだろう。
 さらにイボンヌにとって、言葉が通じないのは致命的だった。スウェーデン語はともかく英語も駄目なことがほとんどなのだ。テレビを観ても雑誌を開いてもあんなに横文字が氾濫しているというのに。かといってサロン風で排他的な在日外国人の集いにも馴染めなかった。物価は高く、気に入った服を買うのもままならない。追い打ちをかけるのは奇妙な食生活でパンやチーズは、名前は同一だが母国の物とは違った食物にさえ思える。いきおいインスタントやレトルト食品ばかりの毎日となった。テレビを付ければやたらにうるさく、けばけばしく、幼稚な歌番組や破廉恥なバラエティのオンパレードだ。街を歩けば好奇な目、ガリバーでも見るような目でみられ、なにか好色な話題の肴にされているような錯覚を起こさせるほどの忍び笑いが背後でしていることもある。
 知的で行動派だったイボンヌがしだいに出無精になり、欲求不満に陥り、ついには軽いノイローゼ状態を呈してきたとしても何の不思議もなかった。
 バスローブを着て、頭のタオルをとる。軽くウェーブのかかったブロンドが垂れかかる。冷蔵庫を開けて缶ビールに手を掛けた。
 (いけない、今日は人に会うんだわ)
 それでなくても最近は酒量が増えているのだ。このままではキッチンドランカーになってしまう。彼女は隣のコーラを取った。湿った髪をタオルで拭いながら、軒先の籐椅子に身体をあずけた。缶のリングを開けて一口飲んだ。広くはないが、手入れのいき届いた庭の芝生の草いきれが気持ちいい。今日は、でもまだいい方かもしれないと思うのだ。オナニーも止められたし、こうしてアルコールも口にしていない。
 (きっと、あの薬のせいよ)
 イボンヌは一ヵ月前から幹雄には内緒で、ある精神科のカウンセリングを受けていた。どうしようもなく落ち込んだ時に、その病院の評判を聞きつけて通ってみることにしたのだ。
 『北野総合病院』
 治療といってもたいしたことはなく、身の回りの出来事をドクターに話すだけなのだが、それでも気持ちはだいぶ楽になった。
 そして、ある時期からイボンヌの主治医が代わり、なんと院長、直々に担当するようになったのだった。突然の変更は合点がいかなかったが、接してみると願ってもないことであるのがわかった。院長は学生時代、ストックホルムに留学していたことがあったのだ。それだけで打ち解けることが出来たし、それに彼は日本の中年男性には珍しく紳士だった。マナーもヨーロッパ風で、ジョークを交えた英語も流暢だ。服装の趣味も悪くない。時折、供にするディナーもTPOを心得ている。イボンヌのドクター北野にたいする信頼は確固たるものになっていた。
 そんなドクターが二週間前から、ある薬を処方するようになったのだ。まだ新しい精神安定剤ということで、少し不安だったが効き目は悪くないようだ。今日はその新薬の効果の具合を伝えにいく日だった。

 (けっ、大年増の白豚め。何をもたもたしていやがるんだ。もう二十分も遅刻だぞ)
 高級ホテルの港の見えるラウンジ、そこの一等いい場所で、北野伊知郎はいらいらしながらイボンヌ梨田を待っていた。釣り舟や大型船にはそろそろ灯が入っていた。九州行きのフェリーが出航の汽笛を鳴らした。
 (そうだ。どっかのトイレでオナニーに耽っているのかもしれんぞ。あの薬は即効性はないがじわじわと確実に性中枢神経を蝕んでいくからな。今頃あの長い脚を大股開きにして…)
 ドクター北野が紳士然としたその身形からは想像もつかない、淫らな妄想を抱いていると、透き通ったトーンの英語が背後から聞こえてきた。
 「ドクター北野、遅くなって申し訳ありません」
 振り返るとイボンヌ梨田が所在なげに立っている。薄い紫の、袖なしのワンピースのドレス。白い幅広のベルトでウエストを締めている。自慢のブロンドは今日はアップにして、清涼感のある印象だ。
 「マダム、私もいま着いたところです」
 気障ったらしくエスコートして椅子に座らせる。ドレスの背が大きく開いていて、思わずしゃぶりつきたくなるような乳白色の肌に目を吸い付けられる。この部屋の男という男がポカンと口を開けて、注目している。北野はそれを痛快に思いながらも、表情一つ変えず、ウエイターにワインと肉料理を注文する。
 「どうもラッシュに巻き込まれてしまったようですわ」
 「東京の交通渋滞は異常ですからね」
 イボンヌは首をすくめて笑った。先程のフェリーが湾内を出ていくところだった。ワインがきて乾杯をする。
 「ストックホルムの思い出に」
 「マダムの健康に」
 薄くルージュののった唇が開かれ、琥珀色の液体が流し込まれる。
 「ところでどうです。具合の方は」
 「それが悪くありませんの。あのお薬、効いたみたいですわ」
 北野は医者の目で素早くイボンヌを観察した。たしかに肌の艶はいいようだ。化粧ののりも悪くない。しかも薄い。おかしいぞ、と北野は思った。あの薬は一週間も服用し続けると女体に変化をもたらす。妊娠時に活性化するエストロゲンやプロトゲンといったホルモンの分泌を促し、ちょうどつわりの状態を擬似的に出現させるのだ。乳房がはり唾液の量が多くなる。脳下垂体が刺激されて性欲が昂進する。精神的に不安定な状態に追い込み、頃合を見て絡め取る。夫が留守がちな人妻を攻略する時に北野が使う常套手段であった。しかし調子がいいというイボンヌの言葉はあながち嘘とも思えなかった。普通、薬を処方して再び来院してくる女は、体調の悪さによって生じた隈や艶の悪さを隠すために、厚化粧になるのがほとんどなのだが、イボンヌにはそういった変化は見られないのだ。
 (薬飲んでいないのじゃないか。まずいな。気とられたか。いや、そんなことはあるまい。この女、俺のことを信頼しきっているからな。待てよ。そうか、でかすぎるんだ。日本の女に比べて体力もあるしな。あの程度の量では、せいぜいアソコがむずがゆいくらいにしか感じなかっただろう。ごめんよ。イボンヌ。今度は二倍、調剤してやるからね)
 あの大きなオッパイがあれ以上でかくなったら、もう牛だな。北野はそう思って苦笑した。
 「どうかいたしまして、ドクター?」
 「あ、いや、なに、えーと」
 北野はごまかしながらさらに考える。
 (ということは、あの計画の方も少し延期かな。何せこれは、いつもの人妻コマシとはわけが違う)
 しかし、北野は目の前の、ファッション雑誌から抜け出てきたような美貌のブロンドを見ると、胸が熱くなりやはり待ちきれなくなった。
 (エサ、投げるだけでも投げておくか)
 「そうそう、マダム。来週の末にカウンセリングツアーがあるのですが、どうでしょう」
 「ツアー?」
 「ええ、二泊三日でN県の山寺を巡る予定です。マダムのような軽い症状の方ばかり、数人の小旅行ですがね。都会の喧騒を離れて心の平安を見つめる、そんな意図があるわけです。京都や奈良では遠いし俗化していますからな」
 食事の手を休め、思案するイボンヌ。悪くないぞ。食い付け食い付けとばかり息を止めて待つ。
 「夫が一緒ではいけませんの」
 ガクっとくる北野。
 「いえ、今回はご自身、お一人ということなのです」
 「残念ですわ。夫に内緒で、そんなに家をあけられませんもの」
 まあ仕方がないか。イボンヌの今の状態ならまだまだ夫への操を考える余裕が残っているのも不思議ではないだろう。ここで深追いをして信頼という罠への糸口が切れてしまっては元も子もない。引いては緩め、引いては緩め、獲物の衰弱を待ってとどめをさす。焦りは禁物だ。失敗は許されない。なんといってもイボンヌ梨田は梨田幹雄の妻なのである。そしてまた、梨田幹雄はあの女弁護士、真部悦子の実兄なのだから。
 「しかしマダム、悪くない兆候ですぞ。ご主人を思う心が復活してきたことは。私が初めて診た時では考えられなかったことです。あの薬がよかったのかもしれませんな。うん、そうだ。この傾向をたしかなものにするためにも、ここはもう少し多めに処方しておきましょうか…」


  女ルポライター

 事前にアポイントメントも取らず、いきなり面会を求めてきた若い女性は、キラキラと輝く瞳で真部悦子を見つめていた。
 事務所のソファに机を挟んで向かい合っているその女性、名前は鳥飼あゆみといって、差し出された名刺には、フリーのルポライターとある。洗い晒しのジーンズに白いブラウスをつっこみ、袖を肘の上までたくしあげただけのファッション。化粧気のない顔に長い髪を無造作になびかせている。しかし身体の隅々からは、強い意志を持った若い人間だけが孕むことの許される、溢れんばかりの生命力が感じられた。そんな若さに圧倒されて、悦子は急がしい最中というのに、つい面会に応じてしまったのだ。
 (私にもこんな時期があったんだわ)
 孝がお茶を入れて運んできた。
 「依頼人との打ち合せで、出てくるから」
 「帰りは真直ぐ、家ね」
 孝はそうだと頷いて、あゆみに一礼すると事務所を出ていった。
 「いいですね。ご夫婦で同じ職場だなんて」
 あゆみはさほど羨ましくもなさそうにそう言った。悦子はこの事務所を初めて訪れる人間(男女を問わず)が一様に見せる悦子の容姿に対するなんらかの感情の動き(羨望や嫉妬)が、この娘にはないことに気付き、興味を持った。自分の容貌に翳りが出てきたのか(そうは思いたくない)、そんな退屈なことなど思いもよらないほど充実した日々を送っているのか(きっとそうだろう)、いずれにせよ、悦子はこのちょっと不遜だが飾り気のないあゆみのことが好きになれそうだった。
 「で、どんなご用件?」
 「先生はKK教団のことをご存じですか」
 「KK教団? ああ、以前、強引な勧誘や信者に多額の寄付を強制したって問題になった」
 「そうです。加えて言えば、教祖の惣戸苅が女性の信者に淫らな行為を強要したという一件もあります…。じつは私、インチキ宗教団体についてのルポをものにしようと思って、色々調べていたんですけど、KK教団が最近、再び以前と同じように、いやもっと巧妙に悪辣なことをやっているという情報をキャッチして、内偵を進めていたんです。そうしたら教団の幹部の一人が沼田興業に出入りしていることを掴んだのです」
 「沼田興業!」
 悦子が驚いて身を乗り出す。
 「それで沼田興業の方も調査していくうちに、先生の名前が…」
 「わかったわ」
 これは意外なところから光明が見えてきたと言えるかもしれない。沼田興業とKK教団との繋がりがはっきりすれば、とかく不明朗な沼田興業の資金繰りが判明するに違いない。そうすれば難航しているこちらの詐欺事件の突破口も見えてくる。とにかく金の出所入り所さえわかっていれば、裁判に持ち込んでも安心だ。
 まったく沼田興業社長、沼田吉治のことを考えるとはらわたが煮え繰り返る思いだ。悦子の理性や人生観や女性観男性観、結婚観といった諸々の価値観すべてを逆撫でしてくるその存在に、自分が少しエキセントリックになっていることがわかっていても、悦子はどうすることも出来なかった。このあいだの二度目の面会の時の終わりなど、よりによって対立する弁護士である悦子に、自分の妾にならないかと、平然と言ってのける厚顔無恥さなのだ。
 (どや、わての世話になりまへんか。先生見てると不憫でなりまへんのや。亭主に甲斐性がないばっかりに、こんな面倒な目にあったりして)
 (これは私が選んだ道。主人も理解してくれていますわ)
 (それが、甲斐性がないということやがな。そんな別嬪が弁護士なんて突っ張ってたかていいことあらしまへん。女の幸福はやっぱり、家を守って、丈夫な子供、産むことでっせ。亭主が帰ってきたらやな、こう三指ついて迎えるのが一番似合ってまんのや)
 (ずいぶん、旧いんですのね。クレゾ−ルの臭いがしますわ)
 (国家、民族のしきたりに旧いもヘチマもあるかい。毛唐の考え方ばっかり被れていていいというもんでもありゃしまへんやろ。なに、心配ありまへん。わての都合した家で面白おかしく暮らしたらええんや。何も難しいこと考えずに男を喜ばすことだけ、気に入られることだけ思ってりゃ、それで幸福というもんやがな)
 悦子だって駆出しの弁護士ではないのだ。女弁護士への男社会からのイジメはとうに洗礼済みだ。いつもならこの程度の嫌がらせに心を動かされることなどないのだが、沼田が相手だと不思議に血が昇ってしまう。沼田のどこに他の間抜けな男たちと違う異質性があるのか、それがわからないのも癪の種だった。
 調子が悪いんだったら僕が替わろうか、孝は言ってくれるが、そんなつもりは毛頭ない。なんとしてもこの手で化けの皮をひん剥いて、ギャフンと言わせなければ気が収まらなかった。
 「それで、彼らの繋がりというのはどの程度なのかしら」
 「それが詳しいことはまだまだなんです。ただKK教団の女幹部の一人が足繁く沼田興業に通いつめているのです」
 「女幹部?」
 その悪魔たちの密会が、まさか自分を陥弄するための入念なミーティングだとはつゆ知らず、悦子は聞き返した。
 「ええ、彼女の名前はわかっています。元女子プロレスラーで、井上銀子…」
 あゆみは思い出すように言った。その目は憎悪に燃えている。
 「それでそのレスラーさんは、どんなポストなのかしら」
 「教育係とか言ってましたね。要するに恐持ての実働部隊の頭というところかしら」
 そんな幹部がなぜ沼田興業の所に…。金庫番だと話は早いのだが、そう簡単にシッポを出すわけないか、と悦子は腕組みをしてソファに持たれかかる。
 「なかなかガードが堅くて。それで私、揺さ振りを掛けてやろうかと思うんです」
 「揺さ振り?」
 「ええちょっとした陽動作戦なんですけど、先生にも協力していただきたくて」
 その作戦とはこうだ。まず、あゆみがKK教団の陰謀というルポを週刊誌に載せる。そこに一つ、元信者の告白というフィクションの証言を入れておく。教団は過去の例からみて、うわべは冷静を装うものの裏では必死になってその告白の主を探すだろうがもちろん見つかるはずがなく、事実無根ということで反撃してくるだろう。そこへカウンターパンチのようにKK教団と沼田興業の黒い繋がりを、悦子とのインタビューという形で暴露する。世間は売出し中の正義派弁護士、真部悦子の登場にかなりの信憑性を持ってこの話を受けとめるだろう。事実無根の訴えも影が薄れ面目は丸潰れ、しかも暴力団まがいの組織と関係があったとあっては社会的に身動きが取れなくなる。ここまでくればKK教団も最後の手段を取ってくるに違いない。首謀者、鳥飼あゆみへのなんらかの接触、そして圧力である。それが待ちに待った瞬間というわけだ。KK教団を怒らせ、本気にさせ、本性を暴く。ビデオカメラの隠しどりが動かぬ証拠になるのは言うまでもない。こうしてKK教団はついに瓦解し、資金面での繋がりが解明されれば沼田興業も芋蔓式に司直の手に委ねられることだろう──。
 悦子はあゆみの顔をまじまじと見つめる。この娘、本当にルポライターなのかしら。ただ記事をものにするというジャーナリストの執念とは違う、なにか別の鬼気迫る心情が、今のあゆみの話しぶりには感じられるのだ。これはちょっと距離を置いた方がいいかな、と悦子は思った。何もあゆみを疑ったわけではない。あゆみのKK教団に対する言及の端々に憎しみ以上のものがこもっているのはたしかだろう。しかし悦子の直接の相手はあくまで沼田興業なのだ。KK教団そのものではない。もちろんKK教団にはなにかキナ臭いものを感じるが、そこまで相手にする踏ん切りは、今の悦子にはつかなかった。二兎を追って一兎をも得えることが出来なかったら、依頼人にどう弁明すればいいのだろう。
 「鳥飼さん、協力はしましょう。ただそれは私が今まで調べ上げた沼田興業の実態の中の、あなたの持ってきた情報に見合った分とのバーターということにしましょう。陽動作戦とやらにはタッチするのは控えさせていただきたいというのが、私の判断です」
 「どうしてです。先生は沼田興業の金の出所を掴みたいんでしょう」
 「それは、もちろんそうです。喉から手がでるほどね。しかし弁護士として取り得る手段とは違うような気がするの。オトリ捜査のようなハッタリは一般常識を逸脱していて、法に携わる者のやることではないわ」
 あゆみはしばらく悦子を見つめていた。瞳の中の悦子への期待の輝きが萎んでいくのがわかった。
 「でも、もう悠長にやっている段階ではない。そうでしょう? そんなことをしていたら奴らに先を越されて何の手がかりも掴めなくなるわ。そうしたら被害者救済も何も駄目になってしまう。この前と一緒よ」
 あゆみは立ち上がり、毅然として言った。
 「あなたたちはいつもそうなんだわ。法律、法律といいながら結局何も出来やしないじゃないの。奴らはそんな優柔不断さがつけめなのよ。あんな卑劣な連中には、多少汚い手段を使ってでも対抗すべきなのよ。そうしなければまた何人もの罪もない人間たちが泣くことになるだけじゃない。いいわ。私一人だけでも闘います。もう先生には頼みません」
 あゆみは軽く会釈すると事務所から出ていった。
 悦子は深く溜息をついた。理由はともかく若い人間に軽蔑されるのはやり切れないことだ。あゆみの言っていることが過激すぎるのはよくわかっている。それを許したら際限のない報復社会になってしまうだろう。だがしかし現実の矛盾をついた発言でもあるのだ。悦子だって幾度となくそういう思いに駆られることがある。抜け道のない法律などないといっていい。抜け道をなくすために法律を作るとまたそこに新たな抜け道が出来る。悪党どもは鋭い嗅覚でそれを見つけだす。永遠のイタチごっこ。時折、悦子は火炎放射器かなにかでそんな悪党どもを一気に焼き払う夢をみることがある…。
 だがそれは出来ないことなのだ。愚鈍といわれようが、優柔不断といわれようが手段は一つ、法を持って悪を制す。それしか取り得る道はない。この弁護士という道を選んだ時、今のあゆみにも劣らない強い意志と情熱で、悦子が堅く決意したことなのだから…。
 ──悦子は事務所の窓から往来を眺めた。ちょうど、あゆみが地下鉄の駅に向かって歩いていくところが見えた。肩で風を切るような、跳ねるような歩き方。ピンと伸びた白いブラウスの背中にある決意が滲んでいる。若い。眩しいくらいの若さだ。その若さが裏目に出ないよう、悦子は心から願った。


  出来ない約束

 呼び出し音が十数回鳴っても、梨田家には通じなかった。人の行き来が激しい表通りで、そう長々とボックスを占領しているわけにもいかず、氏家真樹(ウジイエ・マキ)はイライラしながら電話を切った。
 今にも降りだしそうな曇天が欝陶しい。真樹は首筋にまとわりついた汗を拭った。ショートヘアの似合う、目鼻立ちのすっきりした顔だが眼鏡のせいで知性美だけが強調されすぎている。紺のポロシャツに黒いスラックスといういで立ちも、どこか女性らしさを拒否しているような印象を与えるのかもしれない。
 氏家真樹は三十四歳という若さながらS大政経学部の助教授で、将来を嘱望されている政治学者の一人だ。そんな評判を耳にしたのか、イボンヌ梨田は来日したての頃、何度か真樹の大学を訪れている。真樹は日本の政治風土をレクチャーし、イボンヌがスウェーデンの民主主義について質問に答える。国籍こそ違え、同じ学問を研究する二人だから話も弾んだのだが、真樹が学会のために出張したこともあって、交際はそれきり途絶えていたのだ。
 それが一度も会ったことのないイボンヌの夫、梨田幹雄から電話があったのが二日前。それも成田空港からという慌ただしさだ。どだい虫の良すぎる話といえば、そうなのだ。彼は何度も何度も恐縮ながら懇願した。
 (私はこれから仕事で二週間ほどアメリカへ行ってこなくてはなりません。頼りは先生一人なのです。イボンヌが日本で友人と呼べるのは氏家先生しかいないのです)
 (プロフェッサー梨田、どうかなさいまして)
 (たぶんホームシックだと思うのですが精神的に少し落ち込んでいるようなのです)
 (他のご家族の方がいらっしゃるでしょう)
 (実は私の妹が一人おるのですが、弁護士をやってまして何分多忙をきわめております。いえ難しいことはいらないのです。ちょっと話相手になってやってくれれば気も落ち着くと思うのです。氏家先生の都合のいい日でかまいません。なにとぞよろしくお願いいたしたく…)
 自分の言いたいことばかり言って、電話は切れた。まったく男というのはこれだから、いやになる。真樹は自分の別れた夫を思い浮べてうんざりした。弁護士が多忙なのはわかるけれど、学者だって別に暇ではないのだ。電話一本で引き受けてしまった自分の人の良さに真樹は自嘲した。
 (仕方がないか、私も留学生の時分には色々な人に迷惑をかけたっけ)
 それにしてもあのジョークが好きで知的なイボンヌがホームシックなどとは考えにくかった。二十代前半の青二才の学生ではないのだ。そんな疑問も手伝って、真樹は早速梨田家を訪れることにしたのだが、昨晩の電話では、お待ちしていますということだったのに、今日になっての一時間おきのコールには応答がないのである。まあいい。いずれこちら方面には、来なければならない用事もあったのだ。家にだけは行ってみよう。留守であればそれでお役御免、これ以上の義理立ては、するほどのことのない関係である。
 真樹はそう心に決めて、梨田家に向かった。

 部屋には大柄な白人女から沁み出した体臭が充満している。
 イボンヌ梨田は寝室の自分のベッドの上で、ピンク色のネグリジェから伸びた長い脚を恥じらいもなく開き、股間に左手を突っ込んでゴシゴシと音が聞こえてきそうなくらい、こすり立てていた。右手は肌けた乳房をやる瀬なく掴み、ぎゅっぎゅっと絞りこむ。パクパクと酸素を求めて開閉される口には唾液が幾筋も糸を引いている。悪い夢にでも魘されたようにねっとりと汗ばんだ顔、自慢のブロンドが乱れに乱れて頬に貼り付いていた。
 (も、もう、たまらないわ)
 イボンヌはゴクゴクと喉を鳴らして唾液を飲み込み、両手のピッチをあげる。ベッドがギシギシ軋み、長身が弓のように仰け反る。
 (う、うう、う…)
 股間にとどめの刺激を送り込むようにくびれた腰が何度もねじれ、手が掻き、むしる。甘く強烈な電流がジーンと身体の中を駆け抜け、脳の意識を粉々に破壊した。全身が痙攣し、鼻の穴が開き、絶叫する。身体がビーンと張りつめ、気も狂うほど長く心臓が停止する。突如、つき放されたように身体から力が抜け、どさりとベッドに落ちた。
 イボンヌは気怠そうにゴロリと俯せになった。捲れ上がったネグリジェの裾、ムッチリとした臀部が剥き出ている。双つの頂の裾野を、前の部分から滴れてきた淫水が汚し、ヌラつかせている。
 (どうしたらいいのかしら、いったい…)
 扇情的な昂奮はすぐに醒め、イボンヌは枕に顔を埋めて嗚咽した。昨日からほとんど一睡もしていないのだ。ここ数日、イボンヌの精神状態は悪化の一途をたどっていた。些細なことで喚き散らし、かと思うと夫がやさしい言葉を掛けただけで涙を流す。不眠症に陥り、食欲は不振。無理矢理食べると吐くこともあった。追い打ちを掛けるような幹雄の出張。行かないでくれ、と泣いて頼んだのに。大事な取引があるの一点張りなのだ。
 (幹雄はもう、私を愛していないんだわ)
 そんな想いが強迫観念のようにイボンヌの情緒を狂わせる。一人寝の苦しさに久しぶりでやったオナニーが鬱積した身体に火をつけたようだった。以来、昨日の夕方から休むことなく、痺れるような感覚に身を焦がし続けなのだ。身体はクタクタなのに、頭はフラフラなのに、止めることが出来ないのだ。快楽が引いた時の落ち込みが、回数を重ねるごとにひどくなり、それから抜け出すためにまた次の快楽へと自らを駆り立てていく。悪夢のような循環に、はまり込んでしまったのだ。
 麻痺しかかった脳、濁った瞳で部屋の時計を見た。
 (……薬の時間だわ。あれを飲めば少しは楽になる)
 イボンヌはサイドボードから薬を取り出した。昔は一日一錠だったこの薬、今では朝昼晩の三錠に増えていた。つまり以前の三倍の量だ。イボンヌはそれをさらに上回る三粒の錠剤を手にし、水差しの水で飲み干した。もうこれくらい飲まないと効果がなくなっている。飲んですぐは心身とも回復するように思えるのだが、実際は逆にさらに深く混迷へと引きずりこむ、恐ろしい作用を持っていた。
 (ドクター北野…)
 イボンヌはあのロマンスグレーの柔和な顔を思い出す。そうだ、たしか旅行があるって言ってたっけ。地方の山寺を巡るカウンセリングツアー、か。行きたい。無性に行きたくなった。行ってこの淫らで泥沼のような状態の心と身体に安静を回復させたかった。
 (これから電話をしてもまだ間に合うかしら…)
 しかしイボンヌの意識はまたも痺れ出し、跳梁を再開した悦楽の夢魔たちによって理性が封印された。長く白い指が、蛇のように股間へ這っていった。

 もう一度呼び鈴を鳴らして反応がなかったら、あきらめよう、真樹はそう思った。閑静な住宅街に佇む梨田家はひっそりとして人の気配がしない。
 (やっぱり、どこかに出掛けたんだわ。ひどい話ね)
 約束を反古にされて真樹は怒りながら呼び鈴を押す。
 (駄目、誰もいないわ)
 引き返そうとした時、家の中から微かに音が聞こえたような気がした。鋭いなにかが砕け散るような音。耳をすます。何も聞こえない。気のせいかしらと思っていると、今度はたしかに人の声がした。明瞭な言葉ではなく呻きに近い。なにか不吉な予感に捉われて、真樹は玄関の戸をどんどんと叩いた。
 「梨田さん、梨田さん。いるんですか」
 応答はなく、それきり呻きもしなくなった。振り返り、表の道に人通りがないのをたしかめると、庭に入っていく。芝生を踏みしめてテラスへ回った。広い硝子戸にはカーテンが曳かれていて、中の様子はわからない。まさかと思って手を掛けてみると、驚いたことに、戸にはロックがされていなかった。後ろめたい気分を押し止めて部屋に踏み込んだ。
 「ごめんください。プロフェッサー、大丈夫ですか」
 小さな声で呼び掛けても返事がない。応接間と台所には異常はないようだ。西側の扉を開けると、書斎だったがそこにも人影がない。残されているのは二階だけだ。階段を探していると、今度ははっきり聞き取れる、女の呻き声。それもかなり艶かしい。やはり二階だ。真樹は一瞬、戸惑った。これは単なる浮気の現場に遭遇しているだけなのではないか。もしそうなら自分はとんだ喜劇役者だ。さっさと帰った方がいいのでは? しかしやはり疑念の方が優先する。浮気であれば、呼び鈴を鳴らした時に反応するはずだ。何より真樹が今日訪問することがわかっていて情事に励むはずもあるまい。何等かの異変がイボンヌに起っていると考えるのが自然だろう。真樹は慎重に階段を昇っていった。
 真樹の予想は、半ば外れ、半ば当たっていた。
 陽光をカーテンが遮り、異臭が漂うその寝室は、真樹の考えたような異変ではなかったが、尋常とは思えない、酸鼻な様相を呈していた。イボンヌは情事ではなかったが自慰に耽っていた。今や全裸になったイボンヌは全身が油でも塗ったようにヌメ光り、ベッドのちょうど枕とは反対側の縁にある装飾のためについている格子を跨いでいた。格子の端にはコブがあり、そこにイボンヌは腰を沈めているのだ。それはイボンヌが上下運動するたびに股間から見え隠れし、鄙猥な音を立てている。びっちり生え揃った金色の織毛は、威嚇するチンパンジーの体毛のように逆立っていた。その一部始終が真樹の眼前に曝されているのだ。真樹はすぐさまその場を立ち去りたかったが、脚が凍りついたように動かない。イボンヌの巨大といっていいくらいに肥大した乳房がブルンブルン揺れている。身体中から汗が飛び散り、塗れて重くなったブロンドの髪がビシビシ頬を打ちつけ、鳴らしている。顔は痴呆のように惚け切っていた。眉を八の字にし、口はだらしなく開かれ、ただ獣ような呼吸音だけを発している。床には割れたコップの破片が散乱していた。
 (薬かしら)
 真樹は直観的にそう思った。他人が部屋に入ってきても気付かず、自慰を続けるなど常識では到底考えられない。淫売やあばずれならともかく、イボンヌ梨田はれっきとした学者なのだ。ただ単に性の快楽に溺れてニンフォマニアのようになってしまうわけはないだろう。なにか理由があるのだ。それも内因的なことより、外因的な何かが。やはりこれは異変と呼んでもいいだろう。少なくとも夫、梨田幹雄の言っていたようなホームシックなどという生易しいものでないことははっきりしている。そう整理すると真樹はいくらか落ち着くことが出来た。イボンヌのあまりの狂態さが、かえって真樹に冷静な目を取り戻させたのは皮肉だった。
 真樹はサイドボードに水差しがあるのに気付き、それを取ってイボンヌの顔にぶちまけた。上下運動が止まり、ポカンとこちらを見ているイボンヌ。真樹は毛布でイボンヌの身体を包みベッドに坐らせる。カーテンをあけ、窓を開く。傍らに落ちていたうちわで呷ってやる。イボンヌはしだいに正気を取り戻してきたのか、嗚咽をはじめ、やがて号泣した。真樹は肩を優しく抱いて、
 「お風呂に入りましょうね」
 二人で風呂に入り、身体を洗いあい、ようやくひと心地ついた。軽食でも作ろうかという真樹の申し出をイボンヌは首を振って断った。
 「無理に食べると吐くのよ」
 「吐く?」
 ええ、と頷くイボンヌ。
 「ちゃんと、病院、行ってるの」
 イボンヌは北野総合病院のことについて手短に話した。
 「薬も飲んでいるわけね」
 「ええ、あれを飲むと、しばらくは調子がいいの」
 「でも、さっきは尋常じゃなかったわね」
 「あれは…」と顔を赤らめて、
 「処方箋を無視して多く飲んでしまったの」
 「その薬、まだある?」
 イボンヌは薬を取って戻ってきた。真樹の方が年下なのだが、獣ような姿を見られてしまった負い目か、イボンヌは従順だった。真樹はその薬を見ながらしばらく考えていた。
 「いい、イボンヌさん。私たちは友人でしょう。それに私はあなたのご主人から面倒を頼まれている責任もあるの。だから約束してちょうだい。この薬、五日間だけ、使わないでほしいの。その間に私は薬学部の友人に頼んで分析してもらう。わかってるわ。あなたがどんなに北野という医者を慕っているか。どんなにこの薬を頼りにしているか。でも、もしも、もしもよ。北野という医者が悪人で、この薬が恐ろしい代物であったとしたら。ホームシックやノイローゼどころじゃなくなるわ。そうでしょう。もし、この薬が本当にただの精神安定剤だったとしたら、対策はその時また改めて考えましょう。どう、約束できるかしら。どうしてもつらいようだったら私の家でしばらく静養してもいいのだけれど」
 イボンヌは、ドクター北野が悪人のはずはないけれども、幹雄が頼んだあなたの言うことを聞かないわけにはいかない。言う通りにしよう。ただし、一人でいるほうが何かと気楽だからここで待つことにする、とそんなことをか細い声で話した。
 「わかるわ。そのほうがいいかもしれない。それを聞いて安心したわ。まあ、とにかく今日はもうしばらくここにいることにしましょう」
 ……しかし、氏家真樹には何もわかっていなかった。この薬の常習性や、禁断症状の苦しさが。ドクター北野、北野伊知郎の恐ろしさや企みが。背後に潜む陰謀の大きさや奥深さが。
 やがて自分をも巻き込む悪夢の蟻地獄に、すでに片足を突っ込んでしまったことなど、氏家真樹には知る由もなかった。


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