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  婿泣かせの尻、嫁泣かせの薬 a

 沢口康彦は何かと妻、岡崎晶と比較され駄目亭主の烙印を押されているものの、一応、これでも総合商社の社員のひとりなのである。まあ、海外で派手な商取引を演じている大手ではないにしろ、関東から東北、北海道と東日本一円をエリアとする中堅商社なのだった。オフィスも一応青山に構えた、洒落たレンガ色のビルである。
 準大手特有の見栄、みたいなものが会社全体にあって、機構は大手のそれとほとんど変わらない。週休二日だし、夏休みもきちんとあるし、福利厚生施設も立派だ。社員の健康管理にも気を使っている。
 たとえば康彦がよく行く、三階のカウンセリング室──おもに社員の精神面の相談にのる医師常駐の部屋──の設置などは、社員の精神衛生面の管理が喧しく言われだした80年代後半にはすでになされていたのだった。
 当初は管理教育に弾きだされ、行き場を失った中学生が保健室に駆けこんでいたのと似た現象があり、千客万来といった趣だったのだが、最近は落ち着いてきたようである。五月病で欝症になっている新米社員とか恋愛の悩みで円形脱毛になったバカOLとか、訪れるのはその程度だ。
 ──他の者は気づいていないのかもしれない。
 担当しているカウンセラーに最近、色気ムンムンの熟女医師が加わった事実を。不定期的に顔を出すだけだから、康彦のように窓際族で暇を持て余し、頻繁に通っているものでないと見逃すのも仕方がない。ここのカウンセリングを担当しているクリニックに新しく勤めだした女医なのだろう。康彦は偶然、胃薬を貰いにいった時に出会って、以後、しつこく出勤日を聞き出しては彼女を主治医扱いにしているのである。
 田中朋子──名前は地味目だが容姿から受ける印象は大輪のひまわりか。年齢四十歳。成熟したグラマーである。バストは九十以上はあるのじゃないか。白衣の前のボタンが引き千切れそうなくらいの巨乳だと思う。巨臀──そんな言葉があるのかどうか知らないけれど、あの晶のヒップさえ及びもつかないボリュームに溢れている。ウエストにはそこそこの脂肪をつけて、二段腹になる時もあるのだろうが、それがこの女の魅力を損なってはいないように思われる。かえってまったりとした大年増の脂ぎるボディを演出しているのだ。
 なにか見てきたような講釈だが、実は康彦は一度、朋子が着替えをしているところをまったく不可抗力で覗いてしまった経験があるのだ。控え室のドアが細く閉め忘れていたのである。無念にもブラジャーやスカートをつけたままだったが、身体のラインはすっかり拝めたのだった。ミルクタンクといっても過言ではない乳房をピンクの下着に包んで、重たげに揺すり、セーターを着ていく姿の悩ましさときたら。妙にセックスアピールを消したがる晶と違い、この牝豚ちゃんはまったく自然に肉体を飾っている感じだった。
 以来、康彦は朋子の熱烈なファンとなって足しげくここに通い詰めなのである。
 晶に強烈な肘鉄を食らった次の日の午後も、康彦は上司の目を盗んでカウンセリング室へと向っていた。この日はドクター田中の診察日であった。
 ドアを開けると軽やかなクラシックの調べが耳に流れてくる。
 医療室ではないから独特の薬品臭もしない。
 朋子はデスクに向って回転椅子に坐り、カルテに何やら書きこんでいる最中だった。
 「あら、廉くん、もう来たの」
 朋子は澄んだアルトの声で彼を迎えた。
 「もう来たの、はないんじゃないスか、先生」
 「フフン、だってそうじゃないの」
 白衣の女医は立ち上がって招き入れると、外来者用の椅子ではなく、部屋のちょっと奥にある、瞑想用の長椅子型ベッドへと連れ立った。康彦は大げさに精神分析医を必要とするノイローゼと自負しているのだ。まるでニューヨークで神経を擦り減らして働くビジネスマンのように。
 康彦は靴を脱いでベッドに横たわる。朋子は傍らの椅子に腰掛けた。片手は白衣のポケットに突っこみ、片手で康彦のカルテを掴んでいる。もともと量の豊富なセミロングの艶やかな黒髪はウエーブをきつめにかけているためますますボリュームをふくらませ萌えるようだ。どちらかといえば丸顔だが、目も鼻も口も癖がなく、ちょっと厚めの化粧に鮮やかに輪郭を浮きだしている。
 さて田中朋子医師はちっともカルテを読む気はないらしい。康彦がどういう腹の底でここへ通っているのかとうにお見通しなのだろう。
 今日の朋子の白衣の下は黒のサマーセーター。胸もとがかなり開いているタイプで、なんとも色っぽい。やや雀斑が見られるところなんざ、洋物のポルノ映画に出てくる白人金髪熟女を彷彿とさせる。晶の美肌を見飽きている康彦にとって、かえって新鮮な魅力に映ったりする。
 「廉くん、あんまり仕事、サボっちゃ駄目じゃない」
 「ン? いやだな、先生。サボってなんかいませんよ、いつも」
 頭を掻きながらおどおどと白豚の胸もとからようやく目を離し、ムンと化粧臭の漂ってくる美貌を覗いた。瞳が悪戯っぽく笑っている。目尻に皺が刻まれるのは仕方がないが、かえってそれも大年増のエロチシズム……か。
 (この女、おれが自分目当てに通ってるのを知ってるくせに、いつもつきっきりで相手になってくれるんだよな。仕事熱心といってしまえばそれまでだが、ひょっとしたら下心でも……)
 康彦の希望的観測にはちょっとした確証もある。いつだったか今日と同じようにここに寝ていると、どこかの課の部長がおいでなすったのだが、朋子はけっこう本気でイラつき診断中を理由に彼を追い返してしまったのだ。怜悧な女医のヒステリーにはひどく驚かされた。楽観的な康彦ならずともこれは脈があると思いたくなるのが人情だろう。
 それにこの朋子の笑顔。どこか作りもののような気がする。いや、内心を偽って無理に微笑んでいるのではなく、その逆。惚れてほしいオトコに見せる、女のここぞというときの笑顔、オトコを引き寄せるための色めき立つとびきりの表情──。
 (いやぁーっ、おれってやっぱり楽観的なのかなぁ。でもこの女医、何年か前に自動車事故で旦那を亡くしてるって言うし、オ×××が疼いてたまらんのかもしれん)
 つまらない妄想に思わず康彦の鼻息が荒くなる。
 「で、どうしたのよ?」
 「へ?」
 「こら。サボったんじゃなきゃ何か理由があるんでしょうに。一応、カルテにも書いておかなきゃならないし、聴かせてよ、廉くんの御託をさ」
 じっと観察していると、人間が喋る時は必ず小鼻も動くものだ。晶とはまったく違う朋子の肉の薄いそれも、鼻孔をわずかにふくらませるようにヒクついている。窓がベッドの頭の方にあるので太陽光線が朋子に燦々とあたっているわけだが、下から見上げていると、その柿の種状の鼻孔の奥の、綺麗に掃除された鼻中隔の奥の翳りに生えている根毛まで見えるようで、康彦は生唾を飲みこんでしまう。美女の鼻毛……なぜか晶の腋毛を連想してしまった。ケとはどうしてこう、気になるものなのだろう。
 「私の貌に何かついてるの?」
 朋子はにやにや笑っている。
 「いやいやいや……先生が余りにお美しいもので、つい」
 見え透いた台詞だが、この大年増、小娘のように華やいだ笑顔を見せた。
 「それで、なんでしたっけ? そうだ、理由ね。ここに駆けこんだ理由……もちろんありますよ。ありますとも。そう、やっぱり妻の一件でして」
 「ああ、またあの奥さんの話──」
 急に声を低め、フンと鼻先で冷たく一笑して、横を向いてしまった。黒髪に見え隠れする金色の小さなイヤリングが揺れている。
 (ジェラシーかな。晶の名前を持ち出すと不機嫌になるんだ)
 それにしてもちょっと露骨のような気はする。いくら女は感情の動物とはいえ、もう四十なのだ。もし康彦に気があるとしたら、なおさら適当に口をあわせるくらいの知恵は回りそうなものではないか。
 (インテリは自尊心を傷つけられると必要以上に肩肘張るからな)
 康彦の妻、晶はこの会社では結構な著名人である。どこから漏れるのか知らないが、彼女の鬼妻の行状は衆知の事実だし──康彦の課の女の子たちは妻を許す康彦を理想の夫像と、からかい半分で囃子たてるし、上司などはわざわざ宴会の席で康彦の隣に坐り、『君、本当に奥さんの下着も洗っているのかい?』と真面目な顔で質問したりする──それに何より会社で開かれる運動会だの観楓会だのといった家族同伴のイベントや上司の家で催されるパーティのたぐいにもまったく出てこない奥さんとして有名なのだ。商社におけるこうした催しはもちろん参加自由が原則になっているものの、その実、社員の忠誠心を競い合う場となっていて欠席などありえない。さらに重役の奥さんは部長の奥さんを、部長の奥さんは課長の奥さんを、課長の奥さんは平の奥さんを、それぞれコキ使える完全な階級社会を呈しているので、ひとりでも欠けると『なによ、アソコの奥さんは』となってしまう。そういうもろもろのプレッシャーを跳ねのけて、岡崎晶君にいたってはもう気持ちいいくらいに完全無視を決めこんでいるのだから、話題にならないわけがない。
 朋子には康彦の口から何度も出ていたし、会社の噂としても彼女の耳に入っているはずだ。商社に根強く残る一種のムラ構造の部分、封建社会のヒエラルヒーをまったく無視して自分の仕事に颯爽と取り組んでいる康彦の妻に、朋子はキャリアウーマンとしての琴線を刺激する何かを感じているのではないか。
 それでなければ田中朋子のこのあらわな不快の表情は説明できないだろう、と康彦は思ったりする。
 朋子は立ち上がり、窓辺に歩いていく。桟に肘をかけ窓の外を覗いている。
 「風が強いわね。今日は」
 幼稚な感情に動かされた自分の頭を冷やしているのかもしれない。
 「奥さんと喧嘩したわけね」
 椅子に坐りなおし、もういつもの田中医師の落ち着いた表情だ。もっとも例のこぼれるような笑み、鼻筋に縦皺を刻むあの特注の笑顔はなくなっているのだが。
 「そうなんですよ。あいつ、仕事しか頭になくて」
 「ようするに廉君、セックスをお預けにされているってわけでしょう?」
 「そ、そいうわけです」
 カウンセリングが時にこうしてズバズバ質問するのは常識である。
 「どのくらいないの?」
 「いやあ、もう一月以上ないかな。二ヵ月に届きそうな雲行きですよ」
 カルテにてきぱきと書きこみながら朋子はえらく冷淡に質問する。
 「奥さんの肉体に何か欠陥があるんじゃないのかな?」
 「まさか──」
 康彦は晶の白い女体を脳裏に浮かべながら即座に否定する。
 「どうして廉君がわかるのよ。素人のくせに」
 「そりゃわかりますよ。あんないい身体だし、前はちゃんとやってたわけだし」
 「突然、駄目になる症例もあるわ。女の身体って複雑に出来てるから」
 「へぇー、今日の先生、なんか変。意地悪じゃないの。女房に敵意剥き出しって感じ」
 康彦は素早く彼女の表情を盗み見る。心持ち、貌が上気しているようだ。胸もともである。黒のセーターに薄ピンクの肌がなんとも妖艶である。あそこから手を差しこんで巨きくて柔かいオッパイをモミモミしてやったらこの女医はどんな貌をするのだろう。
 「それはあるわけないでしょう」
 「でも、なんで肉体の欠陥なんて決めつけるの? 精神的ストレスもありえるわけじゃない?」
 素人が何を、とうっすらと冷笑する美人女医。脚を組んでいるので白衣の前が割れ、スカートから膝小僧が覗いている。もう少し身体をずらせば逞しい太腿も見えるだろうに。
 「セックスも出来なくなるようなストレスって実際にはそうないのよ。それより圧倒的に多いのは奥さんが不貞を働いている、つまりあなたに興味を失ったってケースだけど、アツアツの君たちにはそっちの方は考えにくいので、肉体的な問題を取り上げたわけ」
 「なんだ、そうか。優しさの現れってわけか。御免御免」
 頭を掻いて照れ笑いする康彦に朋子は明らかに落胆している様子。遠回しに探りを入れてみたが、康彦の妻に対する信頼がまったく揺いでないのに落胆の色は隠せない。
 「あっ、あのせいかな」
 康彦の頓狂な声に朋子は貌をあげた。しかしこの鈍感で屈託のない、妙に母性をくすぐるニセ患者は妻を悩ませる会社のセクハラ男の事件をかいつまんで女医に打ち明けていくのである。
 「きっとそのせいじゃないの」朋子は肩の凝りを解すように頚を回しながら言った。「男に対する無意識の不信感が夫との性生活を遠ざける、たまにみられる臨床例だわ」
 「どうすればいいの、先生?」
 「ネグリジェでも着て誘ってみれば」
 「え?」
 「バカね。冗談よ」
 「先生っ、少しは真面目に考えてくださいよ。どうもやる気がなさそうだな」
 「愛してるんなら気長に待ってあげるのね」
 「まさか、時間が解決するっていうんじゃ?」
 「それが最良の方法」
 朋子の事務的な宣告に康彦はがっくりと仰けぞり、両手で頭を抱えこんでしまう。
 「当分、出来ないってわけかぁ!」
 「フフ、踏んだり蹴ったりだわね。セックスもさせてもらえない奥さんの澱もののついたパンツ、毎日洗わなけりゃいけないなんて」
 「うーん、なんとかしてよ。先生。お願い!」
 康彦は両手を顔の前にあわせて朋子を拝むポーズをとる。
 「おれ、もう我慢できないよ」
 なんだかここだけ聴けば白豚先生にまぐあいをせがんでいるような感じである。
 田中朋子はカルテをデスクに放り出して、今度は片手で拳骨をつくり、肩を叩きはじめる。
 「そりゃまったく方法がないわけじゃないんだけど……」
 その言葉に康彦はばっと飛び起きて反応する。
 「ほんと? 先生、それほんとスか?」
 康彦は寝てはいられないとベッドの端に坐りなおした。
 「いいから、ほら寝て。廉君」
 だだっ子をあやすように田中先生は康彦の両肩を押すように寝かしつける。例の笑顔が復活している。それがぐっと迫ってくる感じ。
 「──!」
 さらに豊満バストも康彦の胸に押しつけんばかりのニアミスぶり。熟女の迫力に圧倒されて康彦は腑抜けになったように押し倒される。
 「教えてあげるから目を暝りない」
 吐息を吹き掛けてくるような猫なで声。白くて細くて長い指に頬をそろりと撫でられた。


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